こんにちは。
突然ですが、町立の美術館(まだこのブログではさすがに村立は出てきていませんが)、全国には意外とあるんですね。先日紹介した福島県のやないづ町立斎藤清美術館、あれも町立でした。
結構このご時世、美術館運営ってお金がかかるだろうなーと思うことしきりですが、こうやって予算規模の小さな町立で頑張っておられる美術館も多くあることに頭が下がります。
たぶんそれって、その町としてどうしても一般の人たちに紹介したい、その町にとってなくてはならない存在としてのアーティストがいるからなんだと思います。その熱量は大手の美術館と比べると相当なものがあるような気がします。そんな町立の美術館、栃木県にも存在します。では早速。
このブログで紹介する美術館
那珂川町馬頭広重美術館
・開館:2000年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・町観光協会HP、建築家:隈研吾設計事務所HPより転載)
→こちらも隈研吾さんの設計です。恐らく数多ある代表作の中でも初期の頃の作品のようである意味貴重です。
・場所
那珂川町 馬頭広重美術館 – Google マップ
→宇都宮市から北東に位置。
歌川広重の肉筆画を中心とするコレクション
・平成7年(1995年)の阪神淡路大震災に被災された栃木県現さくら市ご出身の実業家、コレクター、故:青木藤作さんのご遺族から、歌川広重の肉筆画を中心とするコレクション寄贈の申し出がその隣町である馬頭町(現那珂川町)にあったのが発端だそう。
青木藤作氏は、明治3年(1870年)に生まれ、肥料店を栃木県内で営み実業家として成功するかたわら、広重の肉筆画や版画をはじめとする美術品を収集、ご遺族は、コレクションを一括して所蔵・展示してくれるところへの寄贈を望まれた結果、当時の馬頭町が手を挙げたようです。(当時の町長…川崎和郎さんという名前までは調べられましたが、どのような方だったのか20年以上経っておりよく分かりませんでした。さらにコレクターの青木藤作さんも…館の創設の想いに関わってくるので残念ですが、ご存知の方はぜひ教えてください。後日書き加えることも考えます)
美術館設立の目的
①青木コレクション(歌川広重作品)を核とした作品を展示し、町の中核的文化施設、さらに八溝地域の活性化につながる広域的文化施設とする。
②地域住民の文化活動の充実と、他の美術館や海外との交流が円滑に図られるようなネットワーク作り。
主なコレクション
<歌川広重>※浮世絵師ですので、肉筆画は大変貴重です
→「圧巻」という言葉が最適ですね。私も歌川広重の肉筆画を(画像であっても)見たのは初めてです。ぜひ生で鑑賞してみたいですね。
(付録)歌川広重とは
そんな青木藤作さんが熱心に収集された歌川広重…どんな人だったのでしょうか。ここからはアート初級者の方へ付録として解説です。
~歌川広重(1797年生―1858年没)とは~
・江戸後期の浮世絵師。江戸・八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まる。
1809年(文化6)13歳のときに相次いで両親を失い、若くして火消同心の職を継ぐが、元来の絵好きから家職を好まず、1823年(文政6)には祖父十右衛門の実子、仲次郎にこの職を譲り、浮世絵に専心。浮世絵界に入ったのは、両親を失ったわずか2年後の15歳のとき。当時役者絵や美人画で一世を風靡(ふうび)した初世歌川豊国(とよくに)に入門を望んだが、すでに大ぜいの門人を擁していたので許されず、貸本屋某の紹介で、豊国とは同門の歌川豊広の門人となる。
その翌年の1812年(文化9)には早くも豊広から歌川広重の号を許される。
文政(ぶんせい)年間(1818~1830)は美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広い作画活動を展開したが振るわなかった。
広重が活躍しだすのは天保(てんぽう)年間(1830~1844)、天保2年ごろには初期の風景画の名作として知られる『東都名所』(全10枚。俗に『一幽斎がき東都名所』とよばれる)を発表。さらに天保3年には幕府八朔(はっさく)の御馬(おうま)献上行列に加わって、東海道を京都に上った。年内には江戸へ帰り、天保4年から、このおりに実見した東海道の宿場風景を描いた保永堂版『東海道五拾三次』(全55枚)を版行し始めている。
このシリーズは天保5年中には完結したとみられるが、これにより広重は、一躍風景画家としての地位を確立。このころから天保末年にかけてが広重の芸術的絶頂期とみられ、『近江八景』(全8枚)、『江戸近郊八景』(全8枚)、『木曽海道六拾九次』(全70枚。渓斎英泉とともに描き、広重は46図を描いた)などのシリーズを矢つぎばやに発表する。
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→「東海道五拾三次」「近江八景」など一度は聞いたことあるのではないでしょうか。まさに江戸を代表する旅行絵師ですね。
ここからはマウスの完全な推測ですが、コレクターの故:青木藤作さん、明治3年(1870年)生まれ、先日ご紹介した日光の「金谷カテッジイン(金谷ホテル)」が外国人観光客で賑わいだすのが1873年(明治6年)。まさに日光の隆盛を肌で感じながら幼少時代を過ごしたのではないかと思うのですが、金谷ホテルを一躍世界に知らしめたイザベラ・バードのような旅行家に憧れていたのではないでしょうか。
そんなこんなで馬頭町(現:那珂川町)に根付いた歌川広重、今後も注目です。
(補足ですが、合併後に町名が変わっても、旧町名を冠として付けられる現町長の方の懐の深さには感心させられますね…たいてい歴史はその後の人たちが書き換えることが多いので)
(マウス)
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