文化勲章受章の洋画家、本人の遺志により第二の故郷に設立 長野:田崎美術館

長野県

こんにちは、マウスです。これまで本ブログでは文化勲章受章作家をたくさんご紹介してきました。(文化勲章…そうそう受章できるものではないですが、こうやってブログに綴っていると受章者ばかりのため何となく普通に見えてきますがとんでもないことです;)

よく受章した後に、生まれ故郷などで個人美術館を設立する声が多くなり、作家さん本人の寄贈もあって故郷に設立されるという流れは少なくありません。一方で、今日ご紹介する美術館、実は生まれ故郷(福岡県久留米市です)ではなく、アトリエを構えていた軽井沢三笠の地に設立された美術館です。別に故郷が嫌いだったというわけではなく、(ここからはマウスの個人的見解ですが…)生まれ故郷の福岡県久留米市には既に偉大な洋画家の先輩がいたことへの遠慮もあったのかもしれません。それでは早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

田崎美術館

・開館:1986年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市、観光協会HPより転載)

・場所
田崎美術館 – Google マップ

文化勲章受章の洋画家、本人の遺志により第二の故郷に設立

・文化勲章受章の洋画家:田崎廣助氏が戦前、戦後を通じ第二の故郷として愛した軽井沢に自己の作品を永久保存展示するために田崎廣助氏自身の遺志で作られた美術館。廣助氏は1966年(昭和41年)から軽井沢三笠にアトリエを持ち、浅間、白樺湖を背景に蓼科、八ヶ岳、妙高と野尻湖など多数の作品を世に残します。また、明治、大正、昭和を生き抜いた廣助氏は生前数多くの画人文化交友をしており、その資料だけでも、画壇創世記から今日までの歴史資料としても重要です。田崎美術館はその廣助氏の遺作展示および画人文化交友の資料を常設した美術館でありながら、他方で公募展、講演会、研究会など文化社交の場としても活用できるよう配慮しながら運営しているそうです。

田崎廣助とは

・1898年(明治31)、福岡県八女市出身の洋画家。福岡師範学校を卒業後,1920~24年坂本繁二郎、安井曾太郎に師事。また関西美術院に学んだ。 1932~34年、フランスに留学し、1933年サロン・ドートンヌ入選。帰国後の1935年の第29回二科展に滞欧作を特別陳列。1939年一水会会員。第2次世界大戦後は阿蘇山を画題に取上げ、大自然の悠久さ、その毅然とした深さを描き続けた。1967年日本芸術院会員。1975年文化勲章受章。1979年日伯美術連盟会長。主要作品『外輪山の阿蘇』 (1950,東京国立近代美術館) 。

田崎廣助「夏の阿蘇」(久留米市美術館)

田崎廣助と故郷について

…さて、田崎廣助さん、もちろん生まれ故郷:福岡県(久留米市、八女市)との関係は良好です(私もそのあたりで彼の作品展を見たことがありますので)。こうやって第二の故郷に本人の遺志で美術館設立を望んだのは、福岡の大先輩で師:坂本繁二郎と同じ年に久留米で生まれ、しかも久留米高等小学校でも同級という親しい関係にあったとある近代日本洋画史の重要人物を配慮したものではないかと勝手ながらマウス的には感じています。もうピンときている方もいるかもしれませんが、その名は青木繁です。

(ここからはマウスの勝手な憶測なのでそんな目くじら立てないで聞いてほしいのですが)この青木繁、美術の教科書の表紙になるくらいの超有名作品「海の幸」で有名です。

青木繁「海の幸」(1904年)※石橋財団

この青木繁、28歳で早世しますが、このわずかな人生の中で多大な功績を近代日本洋画史に残しました(その詳細はアーティゾン美術館の回で紹介することとしましょう)。故郷:久留米のみならず当時全国的にもではその実力は誰もが認めるところでしたが、その画風は時代が早かったと言わざるを得ません。今では日本洋画史でもっとも高く評価されていると言っても過言ではないかもしれませんが、そのオリジナル性を当時高く評価する人は多くなく、青木は名声を得ることなく放浪の末に胸を患い、28歳で早世します。(今では「海の幸」と並び称される国の重要文化財「わだつみのいろこの宮」も、当時出した展覧会では全240点の中で1等7人、2等6人、3等10人のうち、3等の末席という結果に終わったことは有名な話です)

青木繁「わだつみのいろこの宮」(1908年)※石橋財団

…そしてその当時、青木繁の画才や作品を高く評価し青木繁の死後も遺作展の開催や画集の刊行に奔走したのが、自身も文化勲章受章者でありながら、今回の田崎廣助氏の師:坂本繁二郎氏でした。そんな偉大な2人の作家の生まれ故郷、一方は自身の師で文化勲章受章者、一方は現代において日本近代洋画の歴史に燦然たる功績を遺しながらも受章に恵まれなかった早世の天才、そんな生まれ故郷をもつ田崎氏が自身が文化勲章受章したからと美術館を建てることはやはり少し遠慮があったのかなと思います。それでもなお、軽井沢三笠の地を気に入り、没後にここを拠点とした美術館の建設を本人が望んだのは、本当の意味でなんの遠慮もせずに自身の作品を後世にまで遺し続ける安住の地を見つけたからなのではないでしょうか。

(ちなみに青木繁と東京美術学校の同級生だった方でもう1人文化勲章…しかもこれを前代未聞の辞退をされた方がいらっしゃいます…それが本ブログ岐阜県の回でご紹介した熊谷守一さん(熊谷守一つけち記念館の回を参照)です。もしかしたら彼も青木繁という若くして出会った天才の影響を色濃く受けていたのかもしれません。)

後半は久々にマウス談になってしまい恐縮ですが、そんな日本近代洋画の系譜をかいま見ることができる田崎美術館、皆さんもぜひ足を運んでみて下さい。

坂本繁二郎「放牧三馬」1932年※石橋財団

(マウス)

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