萩(長州)藩主の本邸を公開、旧公爵家に伝わる20,000点のコレクション 山口:毛利博物館

山口県

こんにちは。今日から山口県です。北海道から南下し、いよいよ本州最西端まできました。山口県と言えば、薩摩、土佐などと並ぶ幕末志士たちの歴史で有名ですが、そんな山口県をたばねた毛利氏のお宝を一堂に公開している美術館が本日ご紹介するところです。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

毛利博物館

・開館:1967年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
毛利博物館・旧毛利家本邸 – Google マップ
→山口県防府市にあります。

萩(長州)藩主の本邸を公開、旧公爵家に伝わる20,000点のコレクション

・近代において華族の最高位である公爵の地位にあった旧萩(長州)藩主毛利氏の本邸を博物館として公開。所蔵している文化財は、すべて旧公爵毛利家に伝来したもので、総数約20,000点。このうち、重要文化財「毛利家文書」をはじめとする古文書10,000点余(武家権力の成立から成熟・消滅に至るまでの過程をひもとく史料)と、平安時代以来の書跡・典籍類、甲冑・刀剣・武具・馬具・衣裳・調度・茶道具・漆器・陶磁器・金工品などの美術工芸品や絵画などが中心。大部分はいずれも毛利氏重代の品々、および当主ならびに同夫人所用の大名道具で、ほか「日本国王之印」・「通信符」をはじめとする大内氏ゆかりの対外貿易資料や、「討幕の密勅」など明治維新関連の歴史資料も所蔵。

国宝は、雪舟筆「四季山水図」をはじめとする4件7点、重要文化財は「紙本著色毛利元就像」をはじめとする9件8,596点、山口県指定文化財は「漆絵枝菊椀(大内椀)」など9件255点でこちらも西日本有数の規模となっています。

主なコレクション

国宝

季山水図(雪舟筆)

菊造腰刀(刀身・拵)

史記 呂后本紀第九

古今和歌集 巻第八

重要文化財

紙本著色毛利元就像

毛利元就自筆書状(三子教訓状)

徳川家康起請文

幕府追討密勅(討幕の密勅)


→幕府追討密勅(討幕の密勅)…気になりますね。

色々威腹巻

太刀(伝友成)

日本国王之印・印箱

通信符(右印)・印箱

能装束 紅萌葱地山道菊桐文片身替唐織

紅地桐文散錦直垂

山口県指定文化財

漆絵枝菊椀(大内椀)

毛利元就軍幟

朝顔小具足

眼鏡(毛利輝元所用)

毛利氏庭園

・防府市街地の広大な敷地に建てられている毛利宗家の本邸の庭園で、国指定名勝。毛利元就・毛利輝元など中国地方を支配した戦国大名としても有名な「毛利氏」が、明治時代の廃藩置県を経て、萩藩主を解かれ公爵となったおり、本邸を建てるにあたり、井上馨(長州出身)の協力も得て防府の地を選定、公爵・毛利元昭が当主だった明治〜大正時代にかけて築造されました。約5万3000㎡の広大な敷地に池泉回遊式庭園、周囲の山々の借景や、お屋敷の2階からの庭園越しに瀬戸内海まで見渡す壮大な風景を楽しむことができます。東京の庭師・佐久間金太郎氏が作庭しました。

(付録)毛利氏の歴史

・最後に、毛利氏の歴史について博物館HPに掲載がありましたので抜粋しておきます。
----------------------
・毛利氏の祖は、源頼朝の側近として鎌倉幕府の基礎を固めた大江広元。多大な功績によって広元が得た所領のうち、相模国(神奈川県)毛利荘を受け継いだ四男:季光が毛利と名のり、毛利氏の歴史が始まる。毛利荘を受け継いだ季光は、承久の乱の戦功などにより鎌倉幕府内での地位を高め、評定衆として幕政にも参与。しかし、妻の実家三浦泰村と執権:北条時頼とが争った宝治合戦が始まると、三浦方に味方して敗れてしまう。

毛利氏の名跡は、季光の四男:経光が引き継ぎ、経光は没収を免れた越後国(新潟県)佐橋荘を拠点とした。経光の四男:時親は北条得宗家との縁を強くしたことから、六波羅評定衆にまで出世し、毛利氏の再興に成功。これによって西国の情勢にも通じた時親は、南北朝内乱を契機に所領安芸国(広島県)吉田荘への移住を敢行。時に安芸国では観応の擾乱の余波を受け足利尊氏・直冬両勢力が激しく対立しており、毛利氏も一族が分裂して相争ったが、時親の曾孫元春が一族を糾合して吉田盆地一帯に勢力を拡大し、安芸毛利氏の礎を築く。

室町後期の安芸国は、東の室町幕府勢力(管領細川氏やそれと与した尼子氏)と西の守護大名大内氏との対立の場となり、毛利氏をはじめとする国人領主は両勢力の間で翻弄されていた。大永3年(1523)27才で家督を継承した毛利元就は、戦乱のさなかに国人領主連合の盟主となり、 陶晴賢による大内義隆殺害やその後の混乱に乗じて大内氏から自立、大内氏を滅ぼしてその所領を加えて戦国大名となる。その後出雲国(島根県)の尼子氏を降し、西国最大の戦国大名となったが、元就の死後元就の孫の輝元は、勢力を拡大しつつあった織田信長と争い、信長の死後その家臣であった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に従った。秀吉の下で毛利氏は、徳川家康と並ぶ大大名として秀吉の厚遇を得、秀吉死後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家とともに家康打倒を目指す西軍の総大将となる。しかしその戦いは敗北に終わり、領国を周防・長門(山口県)2国に減じられてしまう。

防長に移動した毛利輝元は長門国(山口県)阿武郡萩の指月山に居城を構え、この地が江戸時代における毛利氏の拠点となった。輝元の跡を継いだ長男:秀就は、徳川家康の孫娘を正室に迎えて松平姓を与えられるなど、徳川氏との関係修復に成功。その跡を継いで2代藩主となった綱広のころには藩の諸体制もほぼ固まり、毛利氏は長門・周防2か国36万9,000余石を領有する西国の大藩・萩(長州)藩の藩主として江戸時代260年を過ごす。

嘉永6年(1853)における黒船来航は、江戸幕府の諸体制に少なからぬ動揺をもたらし、この事件を契機として、外様大名であった長州藩も各種の献策などによって中央政界の動向に関与するようになる。文久元年(1861)に藩主毛利敬親が藩士長井雅楽の献策を容れて朝廷に奏上した航海遠略策などは、その最たる事例で、開国による国内の混乱が深まると強硬な攘夷論に転換、文久3年(1864)の8月18日の政変や、翌元治元年(1865)の蛤御門の変(禁門の変)によって、幕府や会津藩など幕府を支持する諸勢力から排斥される。その後幕府による2度の攻撃を切り抜けた長州藩は、倒幕に転じた薩摩藩と同盟を結び、岩倉具視ら倒幕急進派の公家たちと組んで討幕の密勅を入手、徳川幕府の打倒を図る。その後の戊辰戦争で倒幕を実現した長州藩は、その後の明治維新改革の中軸を担う人材を輩出し、敬親の跡を継いだ最後の藩主毛利元徳も、新たに創設された華族制度の最高位である公爵の地位を授けらる。
----------------------

→これも概略ですが、私たちが知っている毛利氏の歴史はほんの一部だということが分かりますね。そんな長州、毛利家の歴史を知ることができる毛利博物館、ぜひ一度ご来館ください!

※情報サイト武家家伝より転載
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mouri.html

(マウス)

コメント

タイトルとURLをコピーしました