瀬戸内の島々が眼下に広がるみかん畑から情報化時代における建築の可能性を探る 愛媛:今治市 伊東豊雄建築ミュージアム

愛媛県

寒い日が続きます。こういうときはコタツに入ってみかんでも…

冬、みかんの季節です。本ブログもやっとみかんの国に入ることができました。今日はそんな瀬戸内の島々が眼下に広がるみかん畑に建設されたとある美術館のご紹介です。

このブログで紹介する美術館

今治市 伊東豊雄建築ミュージアム

・開館:2011年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)

・場所
今治市伊東豊雄建築ミュージアム – Google マップ

瀬戸内の島々が眼下に広がるみかん畑から情報化時代における建築の可能性を探る

・愛媛県今治市大三島にある建築美術館である。 建築家の伊東豊雄氏の建築作品を展示している。ところミュージアム大三島を寄贈した横浜市在住の実業家:所敦夫氏が伊東豊雄に設置を提案したことをきっかけに設置が計画、2011年にオープン。施設は伊東豊雄の作品を展示しているスティールハットと旧邸宅を再現したシルバーハットの2棟の建物で構成。伊東豊雄氏が設計した図面や建築物が展示されている他、建築物の模型なども展示、シルバーハットにはワークショップスペースが設けられている。両施設とも伊東豊雄氏が設計しており、施設自体が1つの展示物になっている。

※ ところミュージアム大三島とは…所敦夫氏の寄付により2004年に開館した愛媛県今治市大三島にある現代彫刻の美術館。アメリカで活動するノエ・カッツやマリソール、トム・ウェッセルマンを始め、サン・ピエトロ寺院大聖堂の門扉を制作したジャコモ・マンズー、日本の林範親、深井隆の立体作品など約30点を展示。

スティールハット

・エントランスホール・3つの展示室・休憩をするサロン・テラスからなる。4種の多面体が、結晶のごとく連結した構成で、一辺3mの正三角形と正方形面から構成。構造は、鉄骨フレームによるブレース構造で、外装仕上げを兼ねる6mmの鋼板とフレーム材が、溶接で一体化。内部空間は、屋根・壁・床の区別が消え、求心性をもつと同時に、壁がパノラマ的に展開していきます。
 

シルバーハット

・3.6m間隔のコンクリート柱の上に鉄骨梁を架け渡し、鉄骨の浅いアーチ状の屋根を載せた構成。大小7つのアーチ状の屋根は、オリジナルと同様にアングルと丸パイプによってつくられた菱形フレームを連結することで、形を形成。館内は図面の閲覧ができるスペースや、屋外ワークショップスペースからなる。
 

伊東豊雄とは

・韓国ソウル生まれの建築家。長野県で少年時代を過ごす。1965年(昭和40)東京大学工学部建築学科卒業。1971年、建築設計事務所アーバン・ロボット設立。1979年伊東豊雄建築設計事務所に改名。東京大学、早稲田大学、日本女子大学などで教鞭をとる。

1970年代に外界に対して閉じた作品を多く発表。奥行きやヒエラルヒーのない、ドライな建築に興味を抱くとともに、建築の輪郭や遠近法の距離感覚を消し、形態の断片が宙に浮遊する白い空間を試みた。

1980年代から都市に向かって開いていく作品を多く制作。電子テクノロジーやメディアの発達に伴う新しい身体感覚に対応する空間を追求し、皮膜のデザインを強調。パンチングメタルにおおわれた横浜の風の塔(1986年)など、周辺環境の見えない変化を光のパターンとして可視化するメディア的なオブジェを制作した。その後も建築が消費社会の波にのみこまれることを認めながらも、それを否定することなく、いかに建築が可能であるかを追求した。

1990年代以降、公共施設も手がけるようになり、日本各地でプロジェクトを展開。公共施設の仕事を通じて、形態の表現よりもプログラムに関心を寄せるようになり、大社文化プレイス(1999年、島根県)などフラットな空間を提示する。

新しい建築のモデルとして、コンビニエンス・ストアに注目、現代都市の状況から影響を受けつつ、流動的な空間のイメージを追求しているとして、2001年(平成13年)にせんだいメディアテーク(宮城県。グッドデザイン賞)を建設、情報化の時代における建築のプロトタイプを提示した。垂直な柱を規則正しく並べる代わりに、くねる網目状のチューブ(内部が空洞の柱)をランダムに配置、実体感のある壁の代わりに、薄いガラスをスキン(皮膜)のようにはめこみ、厚みのあるスラブ(鉄筋コンクリートの床)の代わりに、極薄のプレート(コンクリートの床)を用いた点などが特徴的。

2000年からは海外での作品も増え、独特なパターンにもとづく構造や柱・梁・スラブによらない建築を実現している。

<伊東豊雄氏、その他代表作>
 
※せんだいメディアテーク

 
※多摩美術大学図書館(八王子キャンパス)


※みんなの森 ぎふメディアコスモス


※台中国家歌劇院

伊東豊雄氏メッセージ

・伊東豊雄氏が今治市伊東豊雄建築ミュージアムを建設した背景、経緯がHPに載っていました。以下はその時のコメントです。
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・所敦夫氏がギャラリー長谷川の長谷川浩司氏と私のオフィスに初めて来られたのは2004年です。大三島に御自身の「ところミュージアム」を寄附された所氏がその隣にアネックスをつくられるということでその設計依頼のためでした。まだ大三島が今治市と合併する前のことです。

かつて訪れたことのないこの島に所氏等と共に足を踏み入れた途端、島の美しさと島の持つ不思議な力に圧倒されました。地霊の存在が伝わってくるような土地の潜在力を感じたのです。

設計は敷地を選ぶことから始まりました。瀬戸内の島々を見下ろすみかん畑の傾斜地からの眺望は絶景でしたが、いざ建物を配置しようとすると平地がほとんどなく、決して容易ではありませんでした。

設計は二転三転し、やがて大三島町は今治市と合併しましたが、その間私は所氏や長谷川氏に将来の建築にかける夢を語りました。私が若い建築家を育てるための塾をつくりたいことを話すと、突然お二人が「それならばここでやればいいじゃないか」と言って下さったのです。

今治は巨匠丹下健三氏の出身地です。そのような土地に私の建築ミュージアムがつくられることには大きな躊躇いがありました。しかし菅市長以下市の皆様方の温かいお勧めに甘え、お受けすることにしました。

さらに私の自邸として1984年に東京中野に実現、建築学会賞をいただいた「シルバーハット」もこの地で再生させていただくことになりました。

かくして所氏から市に寄附された「スティールハット」は展示を中心としたパビリオンとして、「シルバーハット」はワークショップ及びリサーチのスペースとして、瀬戸内の美しい海を背景に並び立つこととなったのです。

所氏や長谷川氏、菅市長や市議会の皆様、多くの市民の皆様方に心から御礼申し上げる次第です。この建築ミュージアムが今治市の将来の発展のために貢献するよう微力を尽くす覚悟です(伊東豊雄 記,2011年6月28日)

<英訳>
・Mr. Atsuo Tokoro first visited my office in 2004 together with Mr. Koji Hasegawa of Gallery Hasegawa. He had come to ask me to design an annex for the Tokoro Museum, which he had donated to the island of Omishima. This was before Omishima had become part of Imabari City.

I had never been to Omishima before. When I first set foot on the island with Mr. Tokoro and Mr. Hasegawa, I was immediately overwhelmed by its beauty, as well as a mysterious power I felt there. It seemed to be a power hidden in the land itself, one that hinted at the presence of spirits in the earth.

The first step in our design process was the selection of a site. This proved to be easier said than done. From the top of a slope covered with mandarin orange trees, the view of the island-dotted Seto Inland Sea was spectacular — but there was virtually no flat land on which to erect a building.

While the design went through various permutations, the town of Omishima merged with the city of Imabari. This was also a period during which I spoke with Mr. Tokoro and Mr. Hasegawa about my dreams concerning the future of architecture. When I told them that I wanted to open a school for educating young architects, the two of them immediately said, “Why don’t you build it here?”

Imabari happens to be the hometown of the great architect Kenzo Tange. This fact alone made me extremely hesitant to see an architecture museum in my name built in the same city, but the warm encouragement of Mayor Kan and the citizens of Imabari gave me the courage to undertake this project.

They also graciously allowed me to rebuild the Silver Hut in Omishima. This structure had received the Architectural Institute of Japan Award when it was originally built as my residence in Nakano, Tokyo, in 1984.

In this way the Steel Hut, a pavilion for exhibitions constructed with a donation from Mr. Tokoro to Imabari City, and the Silver Hut, serving as a space for workshops and research, came to stand side by side on a promontory overlooking the glorious Seto Inland Sea.

To Mr. Tokoro, Mr. Hasegawa, Mayor Kan, the Imabari City Council, and the citizens of Imabari, I wish to express my deepest gratitude for making this possible. I pledge to do all I can to ensure that this Architecture Museum contributes to the future growth and prosperity of Imabari.(June 28, 2011)
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…いかがだったでしょうか。恐らく1人の建築家にスポットライトを当て、それを恒久的に展示する施設は日本はまだまだ少ないのではないかと感じます。今後もしかしたら画家や彫刻家だけではなく、そのような美術館も増えてくるかもしれません。そんな瀬戸内に島々を眺めながら未来を先取りできる今治市伊東豊雄建築ミュージアム(TIMA)、ぜひ皆さんもご来館下さい。

P.S.
最後に、写真愛好家の方が美しい4K映像と共に本美術館と大三島をご紹介されていましたのでそちらも掲載しておきます。

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