茶碗でたどる450年。樂焼き、伝統のエッセンス 京都:樂美術館

京都府

こんにちは、マウスです。
以前のブログ、佐川美術館をご紹介した際に、私が京都の樂茶碗が好きなことについて話をしました。
佐川美術館にも樂吉左衞門氏の専用展示室が設けられており楽しめますが、こちらは樂家歴代の茶道工芸美術品、関係古文書など450年間の宝物が保管されています。それでは早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

樂美術館

・開館:1978年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、府・市観光協会HPより転載)

・場所
樂美術館 – Google マップ

茶碗でたどる450年。樂焼き、伝統のエッセンス

・公益財団法人樂美術館は樂焼窯元・樂家に隣接して建設。1978年樂家十四代吉左衞門・覚入によって開館、収蔵作品は樂歴代作品を中心に、茶道工芸美術品、関係古文書など樂家に伝わった作品を中心に構成されています。収蔵作品は、450年の永きにわたって、樂家歴代が次代の参考になるよう手本として残してきたもので、樂家の人々もこれらの作品を制作の糧として樂焼の伝統を学び、それぞれ独自な作陶世界を築いてきたそうです。樂焼450年の伝統のエッセンスが保存されていると美術館HPでは謳われています。

樂家 概要

・桃山時代に京都市上京区油小路通一条に窯場を構えた作陶家一族の総称。天正4年(1576)に京都法華寺再建のための勧進帳記録(京都頂妙寺文書)に田中宗慶、はじめ二代常慶、宗味の名前が残されており、宗慶は南猪熊町、常慶は中筋町、宗味は西大路町に住まいしていたことが現在遡ることができる樂家最古の古文書との事。南猪熊町は後に聚楽第の利休屋敷があった辺りと考えられ、現在の樂家の場所には、聚楽第が造営された頃に現在の地に移ったのではないかと考えられています。450年間、樂焼の伝統と技術を現代に伝えてきた樂家、その制作と焼成法は450年前と全く変わらぬ方法で今も焼かれているそうです。

主な収蔵作品

・以下は紹介文は美術館HPからの抜粋です。

元祖 阿米也

・長次郎の父、中国渡来の陶工。樂焼技術が中国明時代「華南三彩」に繋がることから、阿米也は南中国福建省あたりの出身と考えられているそうですが、伝世する作品は残念ながらありません。

初代 長次郎

・阿米也の子と伝来。茶の湯の大成者である千利休に従い赤樂茶碗、黒樂茶碗を造り樂焼を創設。その独創的な造形には千利休の侘の思想が濃厚に反映されており、禅、あるいは老荘思想の流れを汲む、極めて理念的なものです。
 

→出ました、マウス的アート界の裏ボス:千利休(詳細は茨城県天心記念五浦美術館の頁参照)。その思想を最前線で支えたのがこの長次郎さんです。

田中宗慶

・長次郎の妻の祖父。田中姓を名乗り、利休に常に従っていた人物とされ、大徳寺 春屋宗園、画家 長谷川等伯などとも深い交流を持つ。天正4年(1576)、京都洛中上京区南猪熊町に住まいしていた記録があり(頂妙寺勧進文書)、天下一焼物師の名をゆるされ、長次郎とともに樂焼工房を営んでいたそうです。

庄左衛門・宗味

・田中宗慶の子。常慶とは兄弟。また、宗味の娘が長次郎の妻であったと誌されているそうです(宗入文書・元禄元年)。宗味作とされる作品も伝世していますが不確かなものが多く、今後の研究課題との事。

二代 吉左衛門・常慶

・田中宗慶の子。長次郎没後、樂焼の工房を統率、今日ある樂家の基礎を築く。これより樂家では代々吉左衞門を名乗るように。在印と無印のものがあり、樂印は徳川二代将軍秀忠より拝領したものと考えられているそう。東京芝・増上寺、秀忠墓陵より常慶作在印白釉阿古陀香炉が発掘されています。
 

三代 道入

・常慶の長男。別名ノンコウと称され、後に樂歴代随一の名工とされています。本阿弥光悦と交流が深く、光悦の黒樂茶碗のほとんどは常慶、道入親子によって樂家の窯で焼かれました。光悦の影響もあり、道入の作風にはこれまでには見られなかった斬新な作行きが示されています。装飾性を徹底して省いた長次郎の伝統的世界に黒釉、白釉、透明釉をかけあわせるなど、装飾的な効果をモダンに融合させ、明るい軽やかな個性を表現しました。
 

→私も焼き物や茶碗に詳しくはないですが、初代:長次郎に加え、この三代:道入は聞いたことがありました。やはり家系の中で偉大な才能が生まれたときはその名が後世にも伝えられるというのは真実のようで、以降十四代の覚入までこの道入の「入」の字が使われています。(それでけ子孫の方々にも慕われていた証左なのでしょう)

四代 一入

・三代道入の長男。若い時代に見られ、道入の影響を受けた大らかな作風のものから、晩年になるに従って、長次郎の伝統に根差す侘の意識へと作振りが変わる。特に釉技においては、黒釉に朱色の釉が混ざりあう「朱釉」(しゅぐすり)を完成させ、後世に大きな影響を与えました。
 

五代 宗入

・雁金屋三右衞門の子 後、一入の娘妙通の婿養子となる。元禄4年(1691)五代吉左衞門を襲名。宝永5年(1708)剃髪隠居して宗入と号す。実父の雁金屋三右衞門は尾形宗謙の末弟で、宗入と尾形光琳、乾山とは従兄弟にあたる。元禄時代を背景に、光琳、乾山は琳派と呼ばれる装飾性豊かな絵画、陶芸様式を完成させるが、一方の宗入は装飾性を排した長次郎茶碗の追求に自らの創作の基盤を求め、独自な作風を築き上げた。
 

六代 左入

・大和屋嘉兵衞の子として生まれ、後に宗入の娘妙修の婿養子とな。宝永5年(1708)六代吉左衞門を襲名。享保13年(1728)剃髪隠居して左入と号す。享保18年(1733)には赤黒200碗の茶碗「左入二百」を制作するなど、隠居後も精力的に作陶を続け、「左入二百」は特に茶人の間で珍重された。
 

七代 長入

・左入の長男、享保13年(1728)七代吉左衞門を襲名。宝暦12年(1762)剃髪隠居して長入と号す。長入の茶碗はたっぷりと大振り、やや厚造りで豊かな量感を感じさせ、泰然自若とした長入自身の人柄を表すような大らかな作風が多い。種々の香合や置物類など写実性に根ざした工芸的な彫塑作品に秀でた才がうかがえるそうです。
 

八代 得入

・長入の長男として生まれる。宝暦12年(1762)八代吉左衞門を襲名。明和7年(1770)剃髪隠居して佐兵衞と号す。得入の名は没後25回忌の際におくられたもの。若くして病死したため、その作品は歴代の中で最も数が少なく、ほとんどは代を譲る25歳までの若作。父、長入の作行きの影響がうかがわれるものの、茶碗としては既に充分な完成をみせているそうです。伝統的な樂茶碗の様式に従いながら、そこに見られるいかにも若者らしい初々しさにあり、特に率直で愛らしい趣の赤樂茶碗には心打つものがあります。
 

九代 了入

・長入の次男として誕生。兄、得入が25歳で隠居したため明和7年(1770)14歳で九代吉左衞門を襲名。文化8年(1811)剃髪隠居。了入と号す。了入の65年にわたる長い作陶生活は極めて旺盛で、年齢を追って様々な作行きを展開。特に隠居後の自由闊達な作行きは了入自身の心を表しており、手捏ね技法における箆削りを強調したことも了入の特長。縦横、あるいは斜めに潔く削り込まれた了入の箆は造形的であると共に装飾的でもあり、近代の樂茶碗へ多くの影響を与えました。
 
→私も茶碗に詳しいわけではないですが、確かに、このあたりから一気に作風が自由になってきた気がします。

十代 旦入

・了入の次男として生まれる。文化8年(1811)十代吉左衞門を襲名。弘化2年(1845)剃髪隠居して旦入と号す。文政2年(1819)よりたびたび紀州へ下り、徳川治寶侯、斉順侯のお庭焼きである偕楽園窯、清寧軒窯に奉仕。作風は父、了入の篦削りを主体とした作風をさらに押し進めたもので、茶碗の各所を引き立たせる篦は多彩をきわめ、篦削りの技巧的な完成をみせているそうです。また窯変による鮮やかな変化をみせる赤樂茶碗に特長があります。
  
→従来の伝統的な樂焼きとはずいぶん違ってみえますね。

十一代 慶入

・丹波の国、現在の京都府亀岡市千歳町国分の酒造家小川直八の子として生まれ、後に旦入の娘、妙國の婿養子となる。弘化2年(1845)十一代吉左衞門を襲名。明治4年(1871)剃髪隠居して慶入と号す。慶入の時代は徳川幕府封建制から明治近代制への移行の頃、西洋近代文化の移入の時代でもあり、茶の湯をはじめ伝統文化の廃れた時代でした。そのような逆境の中で慶入は75年におよぶ長い作陶生活を送り、茶碗以外にも茶器類また置物など歴代の中で最も多様な作域を示します。技巧にも優れ、教養に裏付けされた瀟洒で詩情豊かな作品を残したそうです。
 

十二代 弘入

・慶入の長男として生まれる。明治4年(1871)十二代吉左衞門を襲名。大正8年(1919)剃髪隠居して弘入と号す。弘入は15歳で家督を継ぐが、幕末明治の政治の変革期で茶道をはじめ伝統文化の衰退した時代で、父、慶入と共に苦労の日々を重ねる。弘入の作行きは生涯に渡って大きな作風の変化はなく、丸みをもった温和な作行きのものが多く、独特の装飾的な篦使いがみられ、赤樂茶碗の色調は変化に富み、軽やかな赤色を呈しているのが特長。
 

十三代 惺入

・弘入の長男として生まれ、大正8年(1919)32歳で十三代吉左衞門を襲名。相次ぐ戦争の時代を生き、決して恵まれた環境とはいえない中にあって書画、和歌、漢学、謡曲などに通じ、また当時としては画期的な茶道研究誌「茶道せゝらぎ」を発刊するなど茶道文化の啓蒙に尽力。作風は伝統的な樂茶碗のスタイルに沿ったもので、釉薬の研究にも熱心で、様々な鉱石を採取して釉薬に使用するなど新しい試みを盛んに行いました。
 

十四代 覚入

・惺入の長男として生まれる。昭和15年(1940)東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を卒業後に第二次世界大戦に従軍、昭和20年(1945)終戦後戦地より帰国し、のち十四代吉左衞門を襲名。昭和54年(1978)、財団法人樂美術館を設立、樂家に伝来した歴代作品や資料を全て寄贈し公開。東京美術学校において近代芸術の基礎を学んだ覚入の茶碗は、これまでの歴代の作行きとは一線を画す造形を見せます。特に立体に沿った的確な削りには構築的な力強さが感じられ、また晩年の赤樂茶碗には窯変や火替わりによるモダンな釉景色など、伝統様式に現代性を融合させようとしたモダン性が特長です。
 
→個人的にはこのあたりからの樂焼きが特に好きです。

十五代 吉左衛門・直入

・覚入の長男として生まれる。昭和48年(1973)東京芸術大学彫刻科卒業後イタリア留学。覚入の没後、昭和56年(1981)十五代吉左衞門を襲名。平成19年(2007)には滋賀県守山市の佐川美術館に吉左衞門館が新設され、館ならびに茶室を自身で設計。直入の造形は、伝統に根ざしながらも現代性へと大きく踏み出し、特に「焼貫」の技法を駆使、大胆な篦削りによる彫刻的ともいえる前衛的な作風を築き上げています。
  
→この無骨ながら自然の情景を切り取ったような作風、いかがでしょう。正直この方の作品にはいつも驚かされています。樂家450年の歴史をみてきましたが、生まれたのが直入さんの時代でよかったなとほんとそう感じているくらいです。

十六代 吉左衛門

・直入の長男として生まれる。平成20年(2008)東京造形大学彫刻科卒業。平成21年(2009)京都市伝統産業技術者研修・陶磁器コース終了後イギリス留学。平成23年(2011)樂家にて作陶に入り、父より惣吉の花印を授かる。令和元年(2019)十六代吉左衞門を襲名。

長谷川等伯

・桃山時代の画家で長谷川派の祖。能登国七尾出身。郷里で学んだ後、京都に出て独自の画風を築く。水墨画、花鳥画、肖像画などに優れた作品を残しています。文禄4年(1595)、田中宗慶の依頼によって「利休座像(春屋宗園賛)」<表千家蔵>を描くなど樂家とは深いかかわりがありました。

樂道樂

・樂家三代道入の弟。樂家歴代に数えられてはいないものの作風は樂家の伝統をふまえたもので、堺にて樂茶碗を焼いたとされます。左字の樂印(鏡に映ったように左右が逆になった字体)を用いたと伝えられています。

本阿弥光悦

・本阿弥家の家業は刀剣の鑑定・研磨などですが、一方で広い範囲に及ぶ芸術活動を展開。元和元年(1615)徳川家康より京都・鷹峯の地を拝領し移り住んだ頃より、樂家二代常慶、三代道入の手を借りて茶碗の制作を開始。樂家には土や釉掛けなどを依頼する光悦からの書状も残されているそうです。光悦茶碗は総じて手遊びの自由な発想によって造られた大らかな作風が感じられ、その中でも特に黒樂茶碗は、その釉薬などからみて、ほぼ全てが樂家の窯で焼かれたものと考えられています。
 

玉水焼初代 一元

・樂家四代一入の庶子。十代後半までは樂家で育つも、後に母の郷里である玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町)にて玉水焼を開窯、主に茶碗を制作。樂印が捺された作品も。その後玉水焼は一元の血統が途絶えた後も幕末の頃まで続くも、現在は閉窯。一元の茶碗は一入の朱釉などの釉調を倣っており、一入の作品と混同されている例も少なくありません。しかしながらその作風には大きな歪みや力強い篦などが見られ、一入とは異なった趣が感じられるそうです。

尾形乾山

・京都の呉服商、雁金屋・尾形宗謙の三男として生まれる。次兄は光琳。樂家の婿養子五代宗入は従兄弟。陶技は野々村仁清に師事。元禄12年(1699)、京都に鳴滝窯を開きました。晩年も江戸に下り作陶を続ける。宗入が利休や樂家初代長次郎に思いを寄せ侘びの世界を追求したのとは対照的に、乾山は華やかな色絵陶で一世を風靡。また銹絵の茶碗も多く残しました。

→いかがだったでしょうか。一言に「茶碗」、「樂焼き」といっても奥が深いなと思われたのではないでしょうか。個人的には十六代:吉左衛門さんの作品を見に新幹線で日帰りするくらいのファンですから、この450年間分の樂茶碗が見ることができる時代に生まれてよかったなと感じているところです。初代:長次郎にはじまり途中道入という中興の祖を経て、幕末の不遇な時代も過ごした樂家、その趨勢を茶碗を通して垣間見ることができる樂美術館、皆さんも足を運んでみてはいかがでしょうか。(結構大変でしたが、こうやって時代時代の茶碗の並べてみるのもなかなか勉強になりますね)

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