昭和を代表する作庭家・庭園史研究家の書院・庭園部を公開 京都:重森三玲庭園美術館

京都府

こんにちは、マウスです。現在、京都をご紹介しています。
京都府、やはり古都だけあって少し他都道府県と比べ少し美術館の内容も違うような気がします。京都ならではといいますか、京都だからこそ映える、そんな美術館が多いのも魅力の1つかもしれません。

本日はそんな京都において、日本画を学び、いけばな、茶道を研究し、その後庭園を独学で学び全国の著名な庭園を実測調査するなど多大な功績を残した1人の造園家、庭園史研究家をご紹介したいと思います。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

重森三玲庭園美術館

・開館:2006年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、府・市観光協会HPより転載)

※見学は完全予約制です

・場所
重森三玲庭園美術館 – Google マップ

昭和を代表する作庭家・庭園史研究家の書院・庭園部を公開

・京都の重森三玲旧宅(旧社家)は、吉田神社※1の名高い神官の邸宅であったものを、昭和18年(1943)に東福寺方丈庭園などの作庭で知られる庭園家:重森三玲が譲り受けたもの。主屋※2は享保期頃(1716-35)、書院が寛政元年(1789)と伝えられる江戸期の建物で、これは近衛家の援助によって建立されたものと伝えられているそうです。現在の重森三玲旧宅は、これら江戸期の建造物のほか、重森三玲が新たに自ら設計して建てさせた、二つの茶席(無字庵 昭和28年・非公開、好刻庵 昭和44年)と、自作の書院前庭や茶庭、坪庭がつくられている新旧融合の特殊な場所で、重森三玲旧宅は現在、吉田神社界隈で、格式ある社家建築の趣をつたえる、ほぼ唯一の遺構となっています。(書院、茶室・無字庵は国の登録文化財に登録)。

書院前の庭(現重森三玲庭園美術館庭園、1970年作)は、中央に蓬莱島、東西に方丈、瀛州、壷梁の三島を配した枯山水庭園で、部屋の内部や縁側から鑑賞することが可能。三玲が作庭した数々の寺社庭園や個人宅の庭などに比べ、この書院前の庭は、住まいとしての江戸期の建築と調和しながら、茶を中心にした日々の暮らしに則している点が特長。

※1 吉田神社:藤原氏の氏神でる奈良の春日大社の四神を平安京に勧請したのがはじまり。
※2 2006年以来、重森三玲旧宅は、東側・書院庭園部が「重森三玲庭園美術館」として一般に公開され(予約申込制)、館長の重森三明をはじめ重森三玲の遺族によって管理・運営。西側の旧宅主屋部は独立した施設「招喜庵」として文化芸術分野で活用されており、通常、一般公開は行われていない(管理・運営 ツカキグループ)。

重森三玲とは

・昭和を代表する庭園家(作庭家、庭園史研究家)。岡山県生まれ。日本美術学校で日本画を学び、いけばな、茶道を研究し、その後庭園を独学で学ぶ。18歳のとき父元治郎の経済的援助により、真行草の茶室天籟庵を設計(現在岡山県加賀郡吉備中央町の重森三玲記念館の横に移築・保存)。 庭園家としてしられる以前に、昭和8年に勅使河原蒼風らと生け花界の革新を唱え、「新興いけばな宣言」を発表(起草)した人物としても知られる。

昭和24年、いけばな雑誌「いけばな藝術」を創刊、同時期に、前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」を主宰し、研究会を続けた。 1950年代から重森三玲を訪ねて屋敷に度々おとづれた彫刻家:イサム・ノグチとの交友など、庭園をとおしての交流は多岐にわたる。重森三玲作庭の庭は、力強い石組みとモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園。代表作は、京都の東福寺方丈庭園、光明院庭園、大徳寺山内瑞峯院庭園、松尾大社庭園など。また、日本庭園、茶道、いけばなの研究者として重要な業績を残しており、主な著作は、日本茶道史、日本庭園史図鑑、枯山水、日本庭園史大系、実測図・日本の名園などが知られる。

館内外の様子


なお、前述の通り、見学は完全予約制です。見学希望の方は、見学希望日時、人数をお知らせの上、原則、前日の午後5時までにお申込みくださいとの事。(月曜は休館日ですので火曜日のご予約は前々日までに)。

皆さんも京都に行く際は、本館を思い出して、予約をしてからゆっくり堪能されてみてはいかがでしょうか。

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