大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した陶工の住まい兼仕事場を公開 京都:河井寛次郎記念館

京都府

こんにちは。今日は民芸の内容です。
いきなり「民芸」と言われても…と思われるかもしれませんね。そういえばこのブログ、大原美術館のところで少し触れたくらいで民芸運動のことまともにご紹介していなかったかもしれません。ただそれは恐らく東京の日本民藝館で詳しく説明することになろうかと思いますので、今日はその少し前に、京都で活躍した1人の陶工のお話です。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

河井寛次郎記念館

・開館:1973年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、府・市観光協会HPより転載)

・場所
河井寛次郎記念館 – Google マップ

大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した陶工の住まい兼仕事場を公開

・大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した陶工・河井寬次郎の住まい兼仕事場を公開したもの。建物のみならず、館内の家具や調度類も寬次郎のデザイン、あるいは蒐集によるもので、それぞれ個性を発揮しつつも、不思議な統一感を生み出しているとのこと。京都の町中にあるにもかかわらず、当時の暮らしをそのままに感じ過ごしていただける静かな空間がつくられています。

河井寛次郎とは

・島根県安来生まれの陶芸家。1914年、東京高等工業学校窯業科を卒業し京都陶磁器試験所に勤務、同所で浜田庄司と知り合う。1920年、京都五条坂に鐘渓窯を築いて独立。1923年頃までは中国,朝鮮の古陶磁の手法を追った作品が多かったが、1925年頃から古民芸品の美に目ざめ、浜田庄司、柳宗悦とともに民芸運動を起こす。同時に日本やイギリスの古民芸品の美を自己の制作にも生かし、素朴でたくましい形態と多彩な釉法の奔放な駆使とによって日常の用途にあてる器物を次々に発表。

第2次世界大戦後は、機械製作と手仕事の融合、泥刷毛目の手法、三彩打薬なども工夫。浜田と民芸派陶工の双璧(そうへき)をなし、翌年民芸美術館の設立運動が具体化すると参加、黒褐釉(ゆう)、鉄絵、辰砂(しんしゃ)、染付、白化粧土、低火度な鉛釉などを使って奔放自在な草花や動物文を表した重厚な日常器皿などを作陶し民芸の具体像を完成させた。

※民芸運動とは…手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動。

主なコレクション(河井寛次郎作品)

→毎度画像はHPからの抜粋ですが、若干写真に古さを感じるところは残念だなと思いました。(が、敢えてなのかもしれません。直接足を運んで民芸がもつ、単純な古さは異なる「ホンモノ」がもつ輝きを体感してみてください)

なお、京都駅からはバスが便利です。
・市バス206番系統 「馬町」下車 徒歩1分
・洛バス100号「五条坂」下車 徒歩4分

タクシーを利用しても駅から10分以内くらいの距離だと思います。(あらためてよくこんな立地良い場所に窯をひらけたなと…その物件選びの鋭さにも妙に感心させられたマウスでした)

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