コレクターと画家の幸せな関係「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」

ゴッホ展チラシ アートな場所

福岡市美術館で開催中の「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(〜2/13)に行ってきました。

ゴッホ展チラシ

日本でのゴッホや印象派の画家たちの人気は凄まじいものがあります。特別展も数限りなく行われ、人気が過熱するあまりもはや手垢が付いた感もありますが、今回の展覧会では一点豪華主義でなく、実に52点ものゴッホ作品が揃い、ゴッホの画業にも立体的に迫っている、とても贅沢な展覧会でした。ゴッホを初めて見るという人も、もう何回も見たけど面白いの?という人にも、どちらにもおすすめしたい展覧会です。
今回は、展覧会を見た感想を交えてその内容を紹介していきたいと思います。

本展の出品作品は、ほぼ全てがオランダのクレラー=ミュラー美術館コレクションからの貸与によるものです(一部のみファン・ゴッホ美術館所蔵の作品があります)。1938年に開館したこの美術館は、ヘレーネ・クレラー=ミュラーという一人の女性が実業家の夫とともに収集した近代絵画コレクションを公開している美術館ですが、なかでもこのヘレーネがとりわけ愛した画家がゴッホだったそうです。彼女は生涯に約270点のゴッホ作品を収集しましたが、これは個人としては世界最大の作品数とのこと。
本展の大きな特徴は、ゴッホの画歴や生涯と共に、このヘレーネの生涯についても詳しく紹介されていることです。つまり、彼の作品を見出した一人のコレクターの存在に、大きく焦点が当てられているのです。展覧会の最後には、彼女がゴッホと共に収集した作家の作品、オディロン・ルドンやピエール=オーギュスト・ルノワール、ジョルジュ・ブラック、ピート・モンドリアンなどの名品が並んでいます。どれも西洋美術史に名を残している作家ばかり。コレクターとしての彼女の審美眼が、いかに鋭かったかが分かります。
ゴッホの誕生年は1853年、片やヘレーネが1869年生まれ。ですので、二人は16歳差ということになります。現在は世界で最も有名な画家の一人に数えられるゴッホですが、この時はまだ無名で、早すぎる死によりその存在すら忘れられかけていました。しかし彼女はゴッホ作品の魅力と斬新さにいち早く気づき、どんどん作品を購入していったのです。ヘレーネがゴッホ作品を初めて購入したのは、ゴッホの死後18年後のことだったそう。もし彼が生きていたらだいたい55歳頃になるわけで、ヘレーネにとってゴッホはいわば同時代の作家であり、今でいえばコンテンポラリー・アート作品を購入しているような感覚だったでしょう。ほぼ無名で、将来も価値がどうなるか判別できない作家の作品を購入することは、コレクターとしてはかなりの賭けであると言ってよく、彼女がいかに前衛的な感性を持っていたのかが伺えます。

さて、展覧会の内容紹介に移りましょう。本展で特筆すべきもう一つの特徴は、オランダ時代の初期の素描(デッサン)がまとまって展示されていたことです。正直、これがかなり見ごたえがありました。
ゴッホが絵を描き始めたのは意外と遅く、27歳の時です。画家を志した彼は芸術の都パリを目指しますが、それ以前は生まれ故郷のオランダで絵画修業に励んでいました。当時の彼は、労働者や農民といった地に足をつけて働く人々を専ら興味の対象としており、盛んに彼らをデッサンしました。黒チョークによる太くたっぷりとした輪郭線で、働く人々の飾り気のない肉体を率直に描き取ったそれらの作品は、ヨーロッパの伝統的な絵画スタイルにありがちな人体の美化や理想化とは無縁であり、疲れや貧しさと共に生きる彼らの佇まいへの深い同情や共感を感じさせます。やつれた老人はそっぽを向いてこちらに目も合わせず、女性の頰はこけて顎はたるんでいます。まだ修業中の身とはいえ、このような強い思想性が表れたデッサン群に、若い頃にはキリスト教の活動家として労働者を直接救済しようとまでした、画家としての彼の原点を強く感じることができました。
本格的に絵筆を執るようになっても、彼の作品には農民(《種まく人》)や労働者(《郵便配達夫》など)が頻繁に登場します。以降37歳でこの世に別れを告げるまで、ゴッホは地に足をつけて働く人々や、彼らとの交流の中から見出した美を、一貫して作品に描き続けた作家であったといえます。

さらに本展で私が感じたことは、ゴッホは実はかなりの理論家であったのではないか? ということです。
「炎の人」と言われるように、激情的、情熱的、剛直などのイメージが強いゴッホですが、デッサンを含めた初期からの作品を通して見ていくと、実は作品の構図にかなり気を配っていることが見えてきます。特に、全体の構成と色彩の割り振りは、かなり厳密に計算されている印象を受けました。

例えば、本展出品作でアルル時代の有名な作品《種まく人》(1888年、クレラー=ミュラー美術館)では、地平線がかなり高い位置に置かれ、黄金に輝く空と強い陽光を受ける畑との間に、まだ刈り取られていない麦が帯のように一直線に挟まれています。この濃いイエローのラインが挟まれ、三層の構造を取ることで、まさに種が蒔かれている畑に豊かな実りのイメージがもたらされ、自然や生命の力強いイメージが強調されているように思えます。またあえて空の面積を狭くすることで、真ん中の太陽の存在感が際立ち、その神々しさが引き立ちます(作品の画像を掲載できないので、下記の展覧会公式ホームページでご覧ください)。
さらに、同時期の別の作品《黄色い家(通り)》(1888年、ファン・ゴッホ美術館)でも、恐ろしいほどに冴え冴えと青い空と、家や通りのイエローの間に、わずかに朱色の屋根が差し挟まれ、二つの色の鮮烈な対比を和らげているかのようです。パネルの説明によれば、ゴッホはドラクロワの色彩理論に一貫して影響を受けていたとのこと。この理論の内容は勉強不足で存じませんが、確かなことは、彼がこのような色彩理論や同時代の印象派の画家たちの編み出した筆触分割技法などをとても熱心に学んでおり、それをうまく消化して、作品に生かしていたということです。
しかし、彼が37歳で亡くなるまさにその年に描かれた作品《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890年、クレラー=ミュラー美術館)を見ると、道は歪み、遠近法は意味を為さず、ぐにゃぐにゃとうねるような筆触で画面が支配されています。色彩の冴えは頂点に達しているものの、理性的な構図の崩壊、空間性の消失が、見る側にも不穏な気持ちをもたらします。このような変化は、彼の心の不安定さの現れなのでしょうか。この作品の約2ヶ月後、彼は自分自身を撃ち抜いて、この世に別れを告げます。

色といえば、ゴッホが「青色」の使い方に卓越していたという事実も、新しい発見でした。《ひまわり》などのイメージで、ゴッホといえばすっかり黄色やオレンジなどの暖色系を得意とする画家というイメージが自分の中でついてしまっていて、もちろんそれも正しいとは思うのですが、今回の展覧会を観て、彼が最も作品の演出に効果的に用いていた色は「青」だったのでは、という結論に至りました。
油絵具の青色は、大きく分けるとウルトラマリンとフタロブルーの二種類になるのかなと思いますが、ゴッホは影の部分にウルトラマリン系のブルーをふんだんに使っていました。先ほどの《種まく人》でも、畑の短い下草のような強い陰影にウルトラマリンや紫が使われています。影に青を使うのは、モネなど印象派や後期印象派の画家たちと同じです。一方、《サン・レミの療養院の庭》(1889年、クレラー=ミュラー美術館)という晩年の大作では、フタロブルーの線が、草木や建物を縁取るようにとても印象的に用いられています。そして《夜のプロヴァンスの田舎道》では、フタロブルーを中心とした幅広い青の階調が、短い線の折り重なりで、月や星々をたたえた夜の空をかたちづくっています。彼の用いた鮮やかで美しい色彩の中でも、とりわけ魅了され、最期の瞬間まで追求したのが、青という色の効果ではなかったかと思わせられます。

加えて、「白」の使い方もとても印象的でした。前半期ではあまり単独で前面に出てこなかった白という色ですが、後年の《麦束のある月の出の風景》や《草地の木の幹》といった作品には、短く白い線がリズミカルに描かれています。いうまでもなくこれは、月や陽の光の表現です。最晩年の《夜のプロヴァンスの田舎道》でも、夜空に白い光の線が描かれ、道は月光を反射して銀色に輝くように描かれています。晩年に至って(といっても30代後半ですが)、彼は光の効果に特に惹かれるようになったのではないかな、と感じました。
このような色の使い方の変化は、これだけのまとまった作品数を通して見ることができたからこそ、気づくことのできた視点でした。

コレクターとの関係を通して、画家としてのゴッホの生き方に思いを馳せることのできる、とても充実した展覧会です(2月13日まで)。感染症の影響で遠方への外出もままならない日々ではありますが、ご都合が許す方は、ぜひご覧くださいね。

福岡市美術館

「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」公式Webサイト:https://artne.jp/vangogh/https://artne.jp/vangogh/
福岡市美術館 展覧会公式サイト:https://www.fukuoka-art-museum.jp/exhibition/vangogh/

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