在るものを活かし無いものを創る、銅製錬所の遺構を保存・再生した美術館 岡山:犬島精錬所美術館

岡山県

こんにちは。昨日の犬島「家プロジェクト」に続いて、本日は同じ犬島にある銅製錬所遺構を保存・再生した美術館のご紹介です。犬島、20世紀前半、1909年から僅か10年間だけでしたが、採石産業が陰りをみせる中で大切なつなぎ役をしたことは前回のブログで述べました。今日ご紹介する美術館はこの時の精錬所遺構を美術館へリニューアルしたもので、現代におけるアートの拠点として脚光を浴びています。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

犬島精錬所美術館

・開館:2008年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県観光協会より転載)

→地形、近代化産業遺産、自然エネルギーを活用することで、犬島という環境の絶え間ない自然のサイクルの一部、地球のディティールの一部として変化、成長していく施設にしたいと設計者の三分一博志氏はコメントしています。

・場所
犬島精錬所美術館 – Google マップ

在るものを活かし無いものを創る、銅製錬所の遺構を保存・再生した美術館

・1909年に地元資本によって建設された犬島製錬所の遺構を保存・再生した美術館。「在るものを活かし、無いものを創る」というコンセプトのもと作られ、既存の煙突やカラミ煉瓦、太陽や地中熱などの自然エネルギーを利用した環境に負荷を与えない三分一博志氏の建築と、日本の近代化に警鐘をならした三島由紀夫氏をモチーフにした柳幸典の作品、また植物の力を利用した高度な水質浄化システムを導入。「遺産、建築、アート、環境」による循環型社会を意識したプロジェクトです。

犬島製錬所とは

・煙害対策や原料輸送の利便性、1909年に島に建設されたものの、銅価格の大暴落によってわずか10年で閉鎖。犬島には現在も銅の製錬過程で発生する鉱滓からなるカラミ煉瓦造りの工場跡や煙突など、かつての大規模な製錬所を彷彿とさせる多くの遺構が残されており、日本の産業発展の過程に置いて革新的な役割を果たしたとして、2007(平成19)年度、経済産業省「近代化産業遺産群 33」のうちの「story30(地域と様々な関わりを持ちながら我が国の銅生産を支えた瀬戸内の銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群 )」に認定。

展示作品(ヒーロー乾電池)

・かつて日本の近代化に貢献し、隆盛を誇ったが、現在はその跡を残すのみとなった犬島製錬所に、日本の近代化に警鐘を鳴らした小説家・三島由紀夫というモチーフを重ね、建築と協働による6つのスペースを作品として展開、今後の日本のあり方や現代社会について問いかけています。

環境システム

・植物の力を借りた高度な水質浄化システムの導入や、環境調査を行い、犬島の環境に合わせた植栽にするなど自然に配慮した環境づくりを行っているそうです。

(付録)近代化産業遺産群 33とは

・産業遺産を地域活性化に役立てることを目的として、産業史や地域史のストーリーを軸に、相互に関連する複数の遺産を取りまとめたもの。

→少し端折りましたが、近代化産業遺産が持つ価値が個々の遺産の単位では伝わり難い特徴をもつことから、それを打開するため、歴史における人材・技術・物資等の交流に着目し複数の遺産を関連づけその近代化産業遺産が果たした役割を明確にすることにより、近代化産業遺産が持つ価値を顕在化させることで地域活性化に役立てるというコンセプトをもっているようです。

遺産を取り上げる際の考え方

①幕末~戦前の産業遺産(近代化産業遺産)を取りまとめの対象とする。
②建造物はもとより、画期的な製造品及び当該製造品の製造に用いられた設備機器、これらの過程を物語る文書など、産業近代化に関係する多様な物件を対象とする。また、これらの復元物や模型も対象とする。
③主として、産業の発展過程においてイノベーティブな役割を果たした産業遺産を対象とする(江戸期以前からの伝統的な手法を踏襲する産業の遺産は、原則として対象としない)。
④上記の近代化産業遺産を、地域史・産業史のストーリーを軸に整理・編集し、地域において活性化の取組みに活用しやすい形にとりまとめる。

→③のイノベーティブな役割を果たした産業遺産というのがユニークですね。ということは犬島製錬所も僅か10年でしたらそれに値する歴史を刻んできたということです。そんな風に予習して見に行くとまた違った感覚で捉えられるかもしれませんね。

産業遺産活用委員会メンバー

座長 西村 幸夫 東京大学大学院 工学系研究科・工学部都市工学科教授
委員 加藤 康子 都市経済評論家
小風 秀雅 お茶の水女子大学大学院 人間文化研究科教授
斎藤 英俊 筑波大学大学院 人間総合科学研究科教授
島田 紀彦 トヨタテクノミュージアム 産業技術記念館 館長
清水 慶一 独立行政法人国立科学博物館産業技術史資料情報センター 主幹
清水 愼一 株式会社ジェイティービー 常務取締役
丁野 朗 財団法人社会経済生産性本部 余暇創研 研究主幹
西木 正明 作家
松尾 宗次 独立行政法人物質・材料研究機構 材料データベースステーション外来研究員
松平 定知 日本放送協会 放送総局 アナウンス室 エグゼクティブ・アナウンサー
村橋 勝子 社史研究家
矢澤 高太郎 NPO法人 文化遺産保存のための映像記録協会 理事
※敬称は当時のまま

→大学教授から博物館関係、作家、NPOと幅広い人たちで決められたようです。

近代化産業遺産33

地域と様々な関わりを持ちながら我が国の銅生産を支えた瀬戸内の銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群

・「近代化産業遺産33」では犬島のこと、以下のように取りまとめられています。更に興味ある方はどうぞ。(でもあらためて読むと犬島だけではなく、瀬戸内全体の銅生産の歴史について触れられているのですね)
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・銅は江戸時代から主要な輸出品として我が国の経済を支える存在であった。江戸幕府は 17 世紀中頃から全国で産出する粗銅を大阪の銅吹所に集めて製錬し、長崎に送ることとした。その中で、泉屋(現:住友グループ)の2代・友以は、大阪の銅製錬業で中心的な役割を担うに至り、3代・友信の頃には鉱山経営にも乗り出し、操業を休止していた吉岡銅山を買収し、一時はかなりの産出高を上げた。さらに代を経て別子銅山を開発し、1698 年には我が国の銅産出高の4分の1を占めるほどの大鉱山に成長させた。

別子銅山は、明治以降も住友による経営が許されたが、幕末に度重なる大湧水に見舞われて疲弊しており、また市場では安価なアメリカ産銅に押されていたこともあって、経営の立て直しが急務であった。支配人の広瀬宰平は、外国人技術者から学びつつも外国資本に頼らず独力で近代化を図ることを目指した。まず、フランス人技術者を招いて近代化計画である「別子銅山目論見書」の作成を依頼し、この成果を参考として 1876 年に広瀬自ら近代化起業方針を作成した。また、部下をフランスに派遣し鉱山技師の育成を図った。

別子銅山の近代化においては、特に「採鉱」、「輸送」、「製錬」の3点で技術革新が行われた。「採鉱」については、1895 年に深度 526mに及ぶ東延斜坑が完成し、構内の鉱石運搬・交通・通気・排水の便を高めた。また、その後も第三通洞や日浦通洞、第四通洞といった大規模坑道を整備し、出鉱量の拡大を図った。「輸送」については、欧米鉱山視察から帰国した広瀬が、従来の牛車運搬に代わる別子鉱山鉄道の敷設を構想し、1893年には、我が国初の山岳鉄道である上部鉄道(角石原~石ヶ山丈)と下部鉄道(端出場~惣開)を開通させ、輸送力を大幅に増強した。また、選鉱、排出等の鉱山の電化や製錬所などの坑内動力の電化のために発電所の整備に着手し、1912 年には出力 3000kW の端出場水力発電所を建設した。「製錬」については、大阪の製錬所が別子銅山の山元製錬として立川に移され、高橋、山根での洋式製錬を経た後に、1888 年には洋式の新居浜製錬所(惣開製錬所)を建設して本格操業を開始した。さらに 1905 年には、亜硫酸ガスによる煙害の対策として、広瀬宰平の後継者である伊庭貞剛により、瀬戸内海の四阪島に製錬所が移転され本格操業を開始した。

このような努力により産銅量は飛躍的に増大し、1869 年には 373tであったものが 1909 年には 6,328tに達した。そして、銅の採掘を起点として化学工業(煙害対策の副産物活用)、銅加工業(別子産銅の活用)、機械工業(鉱山機械の製作・修理)、石炭業(溶鉱炉の燃料自給)などの事業が次々と誕生し、多角的な近代化が達成され、今日の住友グループの事業へと継承されることとなった。また、別子銅山の経営者たちは、事業の存立基盤となる地域との共生の観点から、環境保全や都市計画の取
組みを行った。前述の伊庭は、銅山開発により荒れた環境を復元するために植林事業を開始し、以降の経営者もこれを着実に継続し、山々は緑を取り戻した。そして、昭和初期に別子銅山の最高経営者となった鷲尾勘解治は、住友の資金で計画的に道路・港湾・住宅地などを整備し、今日の新居浜市街地の基礎を築いた。このように、江戸時代から今日まで、住友という一企業が 280 年以上にもわたり別子銅山の経営を継続することで、新居浜市は鉱工業都市として持続的な発展を遂げ、銅山が休山となった現在でも緑に抱かれた四国有数の工業都市であり続けている。

吉岡銅山は、江戸時代より銅山から産出される硫化鉄鉱を原料とする弁柄(建造物の塗装や焼物の着色等に用いられる赤色顔料)の製造で高名となり、繁栄した。1873 年には三菱の岩崎彌太郎が買収し、削岩機や水力発電の導入、トロッコ専用道路の敷設、我が国初の洋式溶鉱炉の建設など、巨大な資本力と近代技術の導入で発展し、1904 年には約 1,590 人の従業員(事務員を除く)を擁する我が国屈指の銅山となったが、次第に粗鉱の品位が下がり、また、第一次世界大戦後の不況とその後の世界恐慌の影響もあって 1931 年に休山した(戦後に再開し、1972 年に閉山)。吉岡銅山は三菱が初めて経営した金属鉱山であり、当初は採算に合うだけの産出を見なかったが、近代技術の導入により経営を軌道に乗せることができ、この経験が後の全国各地の鉱山開発で役立った。また、吉岡銅山に隣接する吹屋は、弁柄製造等を行う地区として活況を呈し、赤色の弁柄格子と塩田瓦とで彩られた街並みが形成された。弁柄は銅山に由来する産品、塩田瓦は江戸時代以来の地場産品であり、銅山と瓦という地場産業の発展とともに、それを象徴する独特の景観が形成された。これらの銅山の隆盛ともに、明治末期から大正期には、原料や製品の輸送の利便性や、製錬(精錬)時に発生する亜硫酸ガスによる煙害への対策の観点から、瀬戸内海の島嶼に製錬所(精錬所)が建設された。

1909年に地元資本によって建設された犬島精錬所もその一つであり、後に藤田組、住友へと経営者を変えつつ銅の精錬を行ったが、銅の価格が大暴落したことにより約 10 年で操業を終えた。犬島では一時的に人口が急増し、港の周辺には会社の社宅や飲食店、娯楽施設等が立ち並び、当時の銅生産の好調ぶりを反映した活況を呈した。なお、今日の犬島には、かつての大規模な精錬事業の姿を伺わせる煙突等の遺構が良好な状態で残されている。

以上のように、瀬戸内地域の近代の銅生産では、優れた経営者のもとで増産が達成され、大正期まで世界で五指に入っていた我が国の銅生産を支えた。また、こうした中で、銅を起点とする産業の多角化と工業都市・新居浜の発展、吹屋における独特の産業景観の形成、公害対策と瀬戸内の製錬所(精錬所)との関係など、近代産業と地域との関わりを捉える上で重要かつ興味深い事象が発生し、これらを物語る遺産が今日まで継承されている。
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犬島精錬所美術館、2022年現在、毎週月曜、木曜、金曜、11:40~/14:40~の1日2回、「近代化産業遺産ツアー」と題し、建設当時の遺構を歩きながら、製錬所の歴史やここに美術館ができるまでのエピソードを解説してくれるツアーを開催されているようです。ぜひアートファンのみならず、近代化遺産について深く学びたい方は参加してみて下さい。直島、豊島とはまた違った雰囲気が味わえると思います。

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