30年の短い生涯で日本近代彫刻の扉を開いた作家、ある1人の女性への情熱を昇華した作品たち 長野:碌山美術館

長野県

こんにちは。今日ご紹介する美術館、とある1人の彫刻家のお話です。彫刻専門の美術館といえば、これまで本ブログでもイサム・ノグチ庭園美術館クレマチスの丘(ヴァンジ彫刻庭園美術館)福井市美術館(厳密には彫刻専門ではなく高田博厚さんがメインの館でした)など色々とありましたが、本日ご紹介する作家はあの歴史や美術の教科書でも有名な高村光太郎氏と並んで日本近代彫刻の扉を開いた作家として評されています。

どんな美術館、どんな作家だったのか、早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

碌山美術館

・開館:1958年 ※歴史ありますね
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市、観光協会HPより転載)

・場所
碌山美術館 – Google マップ

30年の短い生涯で日本近代彫刻の扉を開いた作家

・日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)の作品と資料を 永久に保存し、一般に公開するために、1958年に開館しました。美術館建設は、長野県下の全小中学生の生徒をはじめとする29万9100余人の力によって、碌山の生地北アルプスの麓安曇野に誕生。碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品をあわせて蒐集保存し、 日本近代彫刻の流れと展開を明らかにしようと努めています。

荻原守衛(碌山)とは

・明治の彫刻家。号碌山(ろくざん)。1879年(明治12)、長野県に生まれる。井口喜源治(きげんじ)の研成義塾に参加、1899年(明治32)画家を志して上京、不同舎に学んだが、1901年(明治34)アメリカに留学。1903年フランスに渡り、アカデミー・ジュリアンでJ・P・ローランスに師事。翌年のサロンでロダンの『考える人』を見て強く感動し、彫刻に転じる。いったんアメリカに戻り苦学したのち、1906年ふたたびフランスに渡り、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入り、ロダンを訪れる。

1908年帰国、第2回文展に『文覚(もんがく)』と滞欧作を応募したが『文覚』のみ入選し、三等賞を受賞。翌年第3回文展で『北条虎吉像』(重要文化財)が三等賞を受けたが、文展や太平洋画会展に発表した生命感あふれる新鮮な造形は、工部美術学校以来の外形描写を主とする彫刻界に大きな刺激を与えた。そして戸張孤雁(とばりこがん)、中原悌二郎(ていじろう)、中村彝(つね)、堀進二ら多くの新進美術家に強い影響を及ぼし、荻原を中心に相馬愛蔵(そうまあいぞう)・黒光(こっこう)夫妻による「中村屋グループ」が形成、戸張と中原は絵から彫刻に転じる。

帰国後わずか2年後の明治43年4月22日に急死、死後の第4回文展で絶作『女』(重要文化財)は三等賞を受ける。充実した量塊に豊かな生命感をもつみずみずしい造形は、高村光太郎とともに、日本の彫刻に初めて本格的な近代の扉を開いた。彫刻のほか油絵も描いた荻原の遺作は、アルプスを望む生地、長野県安曇野(あづみの)市に建てられた碌山美術館に収蔵され、公開されている。

ある1人の女性への情熱を昇華した作品たち

・ところで、美術館HPには「精神的愛染」とだけ記載されほとんど触れられていませんが(触れづらいでしょうし…)、私がいつも参考にしている全国の美術館紹介の本には荻原守衛(碌山)についてこう書かれてありました。

「30歳で没するまで~(中略)~道ならぬ恋にもだえ苦しみながら制作をつづけ、病に倒れた彼の思いに突き動かされた約30万人の人びとからの寄付で建設」

…荻原守衛(碌山)についてはこの部分が彼の作品制作への原動力になっていたことは事実でしょうから本ブログではあとで触れようと思いますが、いずれにしろ国内の美術館開館としては1958年の早い段階での開館ですから、長野県としては大切にした作家であることは間違いないようです。以下は荻原守衛(碌山)の略歴です。(このような恋情が寄付に賛同した長野県下の全小中学生の生徒が理解していたかは謎ですが…)

→そういえば、こういう道ならぬ恋系(…と言ったらいろんな方に怒られそうですが)の作家さんといったら、石川県の深田久弥山の文化館がありましたね。

荻原守衛(碌山) 略歴

・1879年(明治12)
12月1日、 長野県南安曇郡東穂高村矢原の農家荻原勘六・りょうの五男に生まれる。本名:守衛(もりえ)。
・1893年(明治26)14才
東穂高高等小学校を卒業、家業を手伝う。
・1894年(明治27)15才
11月28日、東穂高禁酒会に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教に志向する。
・1896年(明治29)17才
5月から心臓を病む。夜学会に入会する。
・1897年(明治30)18才頃
相馬良(黒光)の家で初めて油絵(長尾杢太郎作《亀戸風景》)を見る。
・1898年(明治31)19才
機業家になろうとして出奔し、桐生方面へ向ったが、上田から連れ戻される。11月、研成義塾が創立され、守衛も協力する。盛んに読書する。12月、禁酒会の幹事に選ばれる。
・1899年(明治32)20才
2月、初めて井口喜源治らと上京。巌本(いわもと)善治を訪問し、植村正久らの説教を聞く。

・1899年(明治32)20才
10月、画家になろうと志し巌本(いわもと)善治を頼って上京。巌本が校長を務める明治女学校の校地内に住む。画塾不同舎に入り、小山正太郎に学ぶ。
・1900年(明治33)21才
4月、明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける。
7月、井口喜源治上京、ともに内村鑑三の夏期講談会に出席。
終了後、井口喜源治とともに富士登山をし、一時帰省する。
・1901年(明治34)22才
渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。

・1901年(明治34)22才
9月、フェアチャイルド家の学僕となる。10月、アート・スチューデンツ・リーグに入学する。
・1902年(明治35)23才
孤独と郷愁に悩む。チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ。戸張孤雁を知る。この頃、ウォルター・パッチを知る。
・1903年(明治36)24才
10月、渡仏。パリで中村不折に会う。脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する。
・1904年(明治37)25才
サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの《考える人》を見て深く感動、彫刻への志向強まる。帰米し、アート・スチューデンツ・リーグに入り彫刻のためのデッサンをする。
・1905年(明治38)26才
人道的立場から日露戦争を批判する。このころ柳敬助、白滝幾之助を知る。
・1906年(明治39)27才
2月、高村光太郎がニューヨークに来る。柳敬助と連れだって光太郎を訪ねる。
9月、再渡仏。オランダに立ち寄った後パリに着き、アカデミー・ジュリアンの彫刻部にはいる。五来欣造・斎藤与里(より)・本多功らと親しくなる。
・1907年(明治40)28才
1月4日、五来の住むパリ郊外に移る。ポール=ルイ・クシュ―が1月16日付の紹介状で、守衛がロダンに面会できるように仲介している。ジュリアンの校内コンクールでたびたび入賞。
碌山の号を用いはじめる。
7月、静養のためロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをする。パリに戻り、ウォルター・パッチとロダンを訪ねる。《女の胴》《坑夫》などを制作。ブールデルに会う。帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシア、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。

・1908年(明治41)29才
3月帰国。
4月に京都・奈良を見学する。太平洋画会に属し、新宿にアトリエを建てる。戸張孤雁と再び親交深まる。中原悌二郎・中村彝らを知る。相馬良(黒光)との精神的愛染に苦しむ。第2回文展に《女の胴》《坑夫》《文覚》を出品する。《文覚》のみ入選。
・1909年(明治42)30才
《デスペア》《北條虎吉像》《戸張孤雁像》《香爐》《労働者》《爺》《小児の首》《宮内氏像》などを制作。第3回文展に《北條虎吉像》《労働者》を出品する。
・1910年(明治43)
《銀盤》《女》を制作する。柳敬助の画室を設計監督する。
4月20日の夜、新宿中村屋で吐血。22日朝、満30歳5ヶ月で永眠する。 生家の墓地に埋葬される。第4回文展に《女》が出品され、文部省に買上げられる。ロンドンで開かれた日英博覧会に《宮内氏像》が出品される。

碌山美術館 構成

・碌山美術館、現在は2つの展示室と4つの建物で構成されているようです。

第一展示棟

・高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎等の荻原守衛の友人や系譜のつながる彫刻家たちの作品群により、近代彫刻の流れの展開を紹介。併せて柳敬助、斎藤与里等のニューヨーク・パリ留学中からの友人たちの絵画も展示。

第二展示棟

・常設展示の他に期間を設け、荻原守衛に関係する作家の特別展や各種の企画展を開催。入口には荻原守衛の親友、戸張孤雁の言葉が刻まれているそうです。「自然はその美を各人の掴み取りに任せてゐる  手の大なる人は多く取り、小なる人は少なく取る」

碌山館

・荻原守衛(碌山)の作品を公開・展示するために1958年に開館した建物。安曇野のシンボルとしても有名です。入口には荻原守衛の言葉「LOVE IS ART, STRUGGLE IS BEAUTY」が刻まれています。

杜江館

・荻原守衛が郷里の先輩・井口喜源治に宛てた書簡のなかで使っている筆名:杜江から命名。1階は、荻原守衛の絵画作品(油彩・デッサン)を展示。2階は講演会の会場としても利用される図書資料室となっています。

グズベリーハウス

・地域の教員・高校生・中学生等の奉仕作業により建築。あたたかみのある意匠にあふれた木造のハウス(枕木を使った校倉造り石葺屋根)は入館者の憩の場所となっています。DVDの上映やブロンズ鋳造の資料を展示。

ミュージアムショップ

・ミュージアムショップでは絵ハガキをはじめ、ここでしか手に入らない作品や美術館ロゴ入りのオリジナルの商品を販売。収蔵作品集、企画展図録、写真集のほか、碌山と日本近代美術に関連する書籍も取り揃えているそうです。

主な収蔵作品

彫刻



→これが重要文化財で教科書にもよく掲載される碌山の傑作「女」ですね。これは後述するある女性への想いをもとに制作されています。

絵画

(参考)碌山と黒光について

・さてここからはこの碌山作品を見るにあたってさらにより深く感じてもらうための参考文章です。(しかもWikipediaからの抜粋…私人の機微なところについてはマウス的には賛否なくいつも中立を保ちたいと考えています)

ただ作家個人のストーリーは時としてその作品を前にするにあたって非常に重要な意味を持ちますので(碌山はその代表的な作家)、これを掲載しておきます。
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<碌山と黒光について>
〇少年時代
・守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていた。17歳の時、通りがかりの女性に声をかけられる。田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵の新妻で、守衛の3歳年上であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。

〇海外留学
・本格的な勉強をしようと、1901年 (明治34年) アメリカのニューヨークに渡り絵画を学ぶ。アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けた。人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究。つぶさに肉体を写し取ろうとした。しかし、守衛はまだ本当に描くべきものを見出せずにいた。そんな修行の日々に1903年 (明治36年) アメリカからフランスのパリに訪れた守衛は衝撃的な作品に出会う。1904年 (明治37年)に後に近代彫刻の父といわれる オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。守衛は「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされる。1906年 (明治39年) にはアメリカから再度渡仏。アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学し、彫刻家になろうと決意する。学内のコンペでグランプリを獲得するほどの実力を身につけていった。1907年 (明治40年)ロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。イタリア、ギリシャ、エジプトを経て帰国。

〇黒光との再会
・帰国した守衛は東京新宿にアトリエを構え、彫刻家・荻原碌山として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿に中村屋を開業していた。碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。それは夫の愛蔵が浮気をしているという告白だった。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人の高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。

〇文覚
・行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908年 (明治41年) 第二回文展で入選した「文覚」である。人妻に恋した文覚は、思い余ってその夫を殺害しようとしたが、誤って愛する人妻を殺してしまった。大きく目を見開き、虚空をにらみつけた文覚。力強くガッシリとした太い腕。そこにはあふれる激情を押さえ込もうとした表現されているかのようであった。碌山は愛する人を殺め、もだえ苦しむ文覚の姿に抑えがたい自らの恋の衝動とそれを戒める激しい葛藤を重ね合わせた。

〇デスペア
・一方、黒光は碌山の気持ちを知りながらも、不倫を続ける夫の憎しみにもがき苦しんでいた。碌山は黒光に「なぜ別れないんだ ? 」と迫った。しかし、その時黒光は身体に新しい命を宿していた。母として妻として守るべきものがあった。出口のない葛藤のなかで碌山は作品を生み出していく。体を地面に伏せ、顔をうずめた女性「デスペア」1909年 (明治42年)。苦しみながらも現実を生きていかなければならない。そこには逃れられない黒光の絶望感が込められていた。

〇母と病める子
・1910年 (明治43年) 追い討ちをかけるように不幸な出来事が起こる。黒光の次男の体調が悪くなり、病に伏せる日が多くなった。次男を抱える黒光を碌山は来る日も来る日も描き続け、「母と病める子」を世に出した。消えかかる幼い命を必死に抱きとめようとする黒光の姿がよく描かれている。

〇女
・しかし、母の願いもむなしく次男はこの世を去った。悲しみのなか、気丈に振舞う黒光に碌山は運命に抗う人間の強さを見出してゆく。そして思いのたけをぶつけるように、同年「女」を制作する。この像は何かに捕らわれているかのようにしっかりと後ろで両手が結ばれ、跪(ひざまず)きながらも立ち上がろうとし、天に顔を向けている。信州大学名誉教授の仁科惇はこの「女」を「矛盾しているかもしれないが、碌山は希望と絶望が融合した作品である。手を後ろに組んで跪いて立ち上がっているのは一種の絶望感の現れでしょうし、そうは言っても顔は天井に向けられ、この構成全体から、希望といったものが込められている。そういう葛藤を『相克の中の美』が宿っているのではないか。自分の思いを作品に昇華させた」と評している。

同年4月20日の夜、荻原は相馬家の茶の間で雑談中に喀血し、22日の午前二時半ごろに歿した。荻原の死後、彼の友人である戸張孤雁から荻原のアトリエを片付けるように促された黒光は、この像を見て「胸はしめつけられて呼吸は止まり・・・自分を支えて立っていることが、出来ませんでした」と語っている。
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…いかがでしょう。ちなみにこの相馬黒光は、中華まんやその他製パン業界で有名な新宿中村屋を夫の相馬愛蔵とともに起こした大実業家、社会事業家で知られています。(サッカー好きな私はここに玄孫がサッカー日本代表の相馬勇紀選手だということも記しておきます)

※このロゴ、皆さんも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

そんな新宿中村屋の創業者と日本彫刻界に新風を吹き込んだ作家との間でこんなストーリーがあったとは何とも不思議な縁ですね。皆さんもそんなことに想いをめぐらせながらぜひ長野県、碌山美術館へ足を運んでみて下さい。

※ありし日の荻原守衛(碌山)

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