敗戦という虚無感と無気力さのなかに一筋の光芒を、戦後具象画壇を代表するフランス人画家 静岡:クレマチスの丘(ベルナール・ビュフェ美術館)

静岡県

こんにちは。現在、静岡県の文化拠点、クレマチスの丘をご紹介しています。今日ご紹介するベルナール・ビュフェ、皆さんご存知でしょうか。第二次世界大戦後、黒い描線と抑制された色彩によって戦後の不安感や虚無感を描出し時代の寵児となったアーティストです。そのベルナール・ビュフェを専門的に取り扱う美術館がここにあります。どんな作品なのでしょう、それでは早速。

このブログで紹介する美術館

クレマチスの丘(ベルナール・ビュフェ美術館)

・開館:1973年 ※クレマチスの丘のアート施設の中でも最も早い時期に建てられました
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
ベルナール・ビュフェ美術館 – Google マップ

敗戦という虚無感と無気力さのなかに一筋の光芒を、戦後具象画壇を代表するフランス人画家

・戦後の具象画壇を代表するフランスの画家ベルナール・ビュフェの作品を収蔵・展示。スルガ銀行第三代頭取の岡野喜一郎氏(1917-1995)によって1973年に創設。収蔵作品数は油彩画、水彩画、素描、版画、挿画本、ポスター等あわせて2000点を超え、世界有数のビュフェコレクションです。

岡野氏がビュフェの作品と出会ったのは、第二次世界大戦の荒廃が残る1950年代の前半、戦後の虚無感や不安感を描き出した表現は、彼の心に深く刻まれたそうです。その後、各年代の代表作の蒐集を続けた岡野氏は、この稀有な画家を20世紀の時代の証人として残すため、「ひとりの天才の才能を通じ、この大地に文化の花咲くことをのぞむ」という願いのもと、故郷に近いこの地に美術館の創設を決意しました。(以下は本美術館創設にかけた岡野氏のコメントです。

美術館創設者(岡野喜一郎氏)コメント

・数年にわたる戦争から復員したばかりの私は、感動して彼の絵の前に呆然と立ちつくしたことを思い出す。研ぎすまされた独特のフォルムと描線。白と黒と灰色を基調とした沈潜した色。その仮借なさ。匕首(あいくち)の鋭さ。悲哀の深さ。乾いた虚無。錆びた沈黙と詩情。そこに私は荒廃したフランスの戦後社会に対する告発と挑戦を感じた。当時のわれわれ青年を掩(おお)っていた敗戦による虚無感と無気力さのなかに、一筋の光芒を与えてくれたのが彼の絵であった。国土を何回も戦場にし、占領され、同胞相殺戮しあったフランス。その第2次世界大戦の激しい惨禍のなかから、このような感受性と表現力をもった年若き鬼才が生まれでたことに畏怖の念をいだいた。その表現力はまさしく、私の心の鬱々としたものに曙光を与えたのである。以来、私はビュフェの虜となった。無宗教の私に、一つの光明と進路を与えてくれたのが、ほかならぬ彼のタブロオそのものだった。これが私のビュフェへの傾倒のはじまりである。(岡野喜一郎著「ビュフェと私」1978年4月)

→以前、野見山暁治さんの記事を書きましたが、第二次世界大戦後の世界をとりまく空気感というのは今の時代なかなか感じ取ることができない異質なものですが、こうやってアート作品1つ1つを丁寧に鑑賞することでそれを追って辿ることができるのかもしれませんね。

ベルナール・ビュフェとは

・1928年、フランス:パリ生まれの画家。10歳ごろから絵を描き始め、1946年、初めてサロン・デ・モワン・ド・トランタン(30歳未満の画家展)に自画像を出品。翌年アンデパンダン展、サロン・ドートンヌに出品。黒い描線と抑制された色彩によって第二次世界大戦後の不安感や虚無感を描出し、世界中の人々の共感を呼び、1948年、20歳でクリティック賞(批評家大賞)を受賞、画壇の寵児となる。抽象志向を拒否した簡潔な具象表現を主張し、「戦争の恐怖」「キリスト受難」「サーカス」といった大作シリーズを初期から制作。冷たく暗い灰色を基調に、とげとげしい描線によって時代の不条理な傷あとをみごとに表出した。そのほか代表作に「むち打ち」(1951)などがあり、版画作品も多い。

→美術館のHPには、ビュフェは「私は絵を描くことしか知らない」「絵の中に自分自身が埋没してもよい」と語り、絵を描くことに人生のすべてを捧げていた姿が記載されています。そんなビュフェですが、30歳でアナベルと結婚した後は、アナベルの豊かな才能や表情に魅せられ、モノトーンの画風から多くの色彩を使うようになっていったそうです。なお、ビュフェは絵画作品の見方についてもコメントを遺しており、

「素直な愛情をもって、絵と対話してほしい。絵画はそれについて話すものではなく、ただ感じ取るものである。ひとつの絵画を判断するには、百分の一秒あれば足りるのです」

と述べたそうです。
※ありし日のベルナール・ビュフェ

ベルナール・ビュフェ年譜

1928年 7月10日、パリに生まれる
1943年(15歳) ナチス・ドイツ占領下、ヴォージュ広場のパリ市夜間講座に通う。
国立美術学校の入学試験に合格し、12月からユージェーヌ・ナルボンヌ教室で学ぶ。
1945年(17歳) アトリエ作品賞受賞。母ブランシェ死去。《キリストの降下》(パリ国立近代美術館所蔵)などの本格的な作品を生み出す。
1946年(18歳) サロン・デ・モワン・ド・トランタン(30歳以下の人たちの展示会)に初めて《自画像》を出品。
1947年(19歳) アンデパンダン展(風景画と静物画の2点)とサロン・ドートンヌ(《肘をつく男》)に出品し、注目され始める。
カルチェ・ラタンの書店「アンプレッションダール(芸術の印象)」で最初の個展。
1948年(20歳) 6月、批評家賞を受賞(サン・プラシッド画廊、《ふたりの裸の男》)。以後、世界各地で個展が開催される。
ドライポイントを始める。
1950年(22歳) プロヴァンスに滞在し、小説家ジャン・ジオノや詩人ジャン・コクトーと親交を深める。
1951年(23歳) 代表作《キリストの受難》三部作を制作(このうちの2点は当館所蔵)。
1952年(24歳) リトグラフを始める。
1953年(25歳) 第2回日本国際美術展に《化粧する女》を出品(以後第6回展まで出品)。
1955年(27歳) 『コネッサンス・デ・ザール(芸術の知識)』誌が企画した「戦後の画家10傑」の1位に選ばれる。
1958年(30歳) アナベル(シュウォーブ・ド・リュール)と結婚。
1959年(31歳) 神奈川県立近代美術館で、日本最初のビュフェ展(デッサンと版画)が開催される。
1963年(35歳) 回顧展「ビュフェ展、その芸術の全貌」が東京の国立近代美術館と国立近代美術館京都分館で開催される。
1973年(45歳) 11月25日、静岡県長泉町にベルナール・ビュフェ美術館が創設される。
1974年(46歳) ヴァティカン法王庁美術館のアパルタメント・ボルジアに「現代宗教美術コレクション」の一部として《ピエタ》《受胎告知》などの大作6点が収められる。
1975年(47歳) フランス・アカデミー会員となる。
1980年(52歳) ベルナール・ビュフェ美術館の招待により初来日、関西方面を取材旅行する。
1988年(60歳) 12月9日、コレクションの増加に伴い、新館が増設される。
1991年(63歳) ロシアのエルミタージュ美術館とプーシキン美術館で大回顧展。
1993年(65歳) レジオン・ドヌール勲章のオフィシィエの称号を受ける。
1995年(67歳) 日本を縦断する大規模なビュフェ展が開催される。
1996年(68歳) 5月20日、ベルナール・ビュフェ美術館に版画館が増設される。
ビュフェ夫妻は落成祝賀に臨席。ビュフェの来館は7回目、これが最後の来館となる。
1999年(71歳) 10月4日、ボームの自宅にて逝去。
12月15日、ベルナール・ビュフェ美術館で、アナベル夫人が臨席し、ベルナール・ビュフェ追悼式を行う。
2000年 「死」展(モーリス・ガルニエ画廊)。8月〜2001年12月、全国6ヶ所を巡回する「ビュフェ追悼展」開催。
2005年 8月3日、アナベル夫人逝去。
2008年 「ベルナール・ビュフェ」展(フランクフルト、MMK)。
2009年 「ベルナール・ビュフェ没後10年」展(ベルナール・ビュフェ美術館)。
「ビュフェとアナベル」展(横浜そごう美術館、いわき市立美術館)。

主なコレクション

  

→他、コレクション詳細については以下の美術館HP(コレクション紹介)をご参照ください。
〇ベルナール・ビュフェ美術館コレクション紹介:https://www.clematis-no-oka.co.jp/buffet-museum/about/collection/

以上で、静岡クレマチスの丘は一旦ご紹介終わりです。岡野喜一郎氏が建てた本美術館を皮切りに色んなアート施設が建てられることになるのですが、スルガ銀行と所縁があるとは知りませんでした。しかも一族経営の私立銀行だったんですね(驚)。最後に余談ですがスルガ銀行、現在は大手家電量販店「ノジマ」グループに属しているようです…銀行が家電量販店と一緒…なんか色々と不思議な世の中ですが、これからも本ブログ「絵本と、アートと。」をよろしくお願いします。

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