近代日本美人画の巨匠終焉の地に立地、庶民生活を題材にした作品群 神奈川:鎌倉市鏑木清方記念美術館

神奈川県

こんにちは。とうとう箱根町を脱出しました(笑)←すいません、ダンジョンみたいな失礼な言い方…でもそれくらい、箱根は美術館の宝庫、小さな県よりも多くの美術館を有していました。

その箱根から東へ30㎞ほどでしょうか。神奈川県鎌倉市、鎌倉といえばNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の記憶が新しい方も多いかと思いますが、実はここ、近代日本画の巨匠が眠る地でもあります。今日はそんな鎌倉幕府の誕生から800年後に現れた近代日本画壇の巨匠、今では上村松園と並ぶ美人画の大家として評価され、「最後の浮世絵師」と評されています。どんな方なのか、早速追っていきましょう。

このブログで紹介する美術館

鎌倉市鏑木清方記念美術館

・開館:1998年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
鏑木清方記念美術館 – Google マップ

近代日本美人画の巨匠終焉の地に立地、庶民生活を題材にした作品群

・近代日本画の巨匠:鏑木清方(かぶらき きよかた)の終焉の地、鎌倉雪ノ下の旧居跡に建造。鏑木清方は、明治11年(1878年)に東京神田に生まれ、幼い頃から文芸に親しんで育ち、その画業のはじまりは挿絵画家からで、のちに肉筆画に向い、清らかで優美な女性の姿や、いきいきとした庶民生活、肖像、愛読した樋口一葉や泉鏡花などの文学を主な題材として描かれた作品は、市井の人々への共感や慈愛のまなざしに溢れています。

鎌倉へは、昭和21年(1946年)からで、昭和29年(1953年)、文化勲章を受章した後、本美術館が立地する雪ノ下へ画室をもうけ、昭和47年(1972年)に93歳で亡くなるまでの間を過ごします。鏑木清方は晩年、自らの境地を「市民の風懐(ふうかい)にあそぶ」と称して、庶民生活を題材にした作品を多く手がけます。情趣あふれる日本画作品、また典雅な文体による随筆を多く残しました。

鏑木清方 年表

・1878年、東京神田に生れる。本名健一。父條野伝平(号を採菊)は、山々亭有人と名乗った小説家で、明治5年東京日日新聞を創刊し、後、やまと新聞を創立、その社長として知られる。
・1885年、京橋鉄砲州、鈴木小学校へ入学。京橋に住む。
・1886年、やまと新聞創刊。
・1889年、神田東京英語学校へ入学。
・1891年、水野年方に入門。
・1892年、家庭の事情あって学校をやめ、画業に専心。
・1893年、京橋大根河岸祭礼行灯に三遊亭円朝の「塩原多助」を年方及び弟子たちと共に執筆す。師より清方の画号を与えらる。鷺流の狂言を習い日本橋倶楽部で初舞台を踏む。一家と共に本郷に移る。
・1894年、「やまと新聞」に挿絵を執筆。回覧雑誌「筆花抄」に三保の羽衣をかく。牛込の貸席、琴富貴にて開かれる書画研究会に出る。
・1895年この頃、脚気を患う。10月円朝と栃木、佐野、田沼へ78日の旅をする(初旅)。湯島新花町に住む。
・1896年、「東北新聞」「九州日報」等地方新聞や諸雑誌に挿絵を執筆す。この頃久松町の寺尾という型紙屋にて浴衣図案をかく(二年でやめる)。友人と松島仙台に旅する。
・1897年、第2回絵協(日本絵画協会)に「ひなた」を初出品。7月小説雑誌「新著月刊」に口絵を描く。尾崎紅葉を知る。
・1898年、第5回絵協「暮れゆく沼」。
・1899年、第7回絵協「かざしの花」。人民新聞社に入社し挿絵を執筆。「新著月刊」に小説口絵。
・1900年、第8回絵協「霜どけ」「紫陽花」。第9回絵協「琵琶行」。五月「新小説」に口絵。
・1901年、鰭崎英朋、池田輝方、池田蕉園、大野静方、河合英忠、山中古洞、山村耕花その他同志と烏合会を組織す。烏合会「金色夜叉」「横笛」「散りゆく花」「雛市」。人民新聞社を退社。読売新聞社へ入社。この頃新聞(「読売」「報知」)雑誌単行本の挿絵を盛んにかく。一家再び木挽町に住む。夏、安田松廼舎氏宅にて泉鏡花と初対面し、これより鏡花と親しくす。
・1902年、烏合会「一葉女史の墓」「田舎源氏の黄昏」。日本美術院で開かれた第13回絵画共進会へ「孤児院」。この頃梶田半古に啓発さる。以後。しばらく公開展へ出品せず、烏合会のみに出品す。3月、「文芸倶楽部」鏡花「三枚続」の口絵執筆。小杉天外「魔風恋風」の挿絵を梶田半古の代りに執筆。秋、読売新聞社を退社。
・1903年、烏合会「廃園の幻」「廃駅の夕」。日本美術院「秋宵」。この年、都筑照と結婚。自宅を紫陽舎となづける。
・1904年、烏合会「佃島の秋」「深沙大王」「葉山の御夢」。
・1905年、烏合会「日高川」「寄宿舎の窓」「曲亭馬琴」。
・1906年、烏合会「断崖」「朧駕篭」。父伝平死去。(72才)
・1907年、烏合会「抱一」「老嬢」。東京勧業博覧会「嫁ぐ人」。第1回文展「曲亭馬琴」落選。浜町河岸に移る。
・1908年、第1回玉成会「花吹雪」「落葉時雨」。烏合会「あけびとり」。
・1909年、第3回文展「鏡」双幅。烏合会「抱一上人」三幅対。長女清子生れる。
・1910年、第4回文展「女歌舞伎」六曲一双、三等賞首席(震災焼失)。第10回巽画会「八幡鐘」。ロンドン日英博「水上の花」。
・1911年、第5回文展「朝顔と駅路の女」二曲一双。東京勧業博「お七と吉三郎」。巽画会「春宵」。次女泰子生れる。
・1912年、第6回文展「紅雨荘」二曲一双、落選。(震災焼失)。巽画会「若き人々」二枚折一双。12月浜松河岸より本郷に移る。
・1913年、第7回文展「かろきつかれ」「野崎村」。 挿絵の執筆より肉筆画の方へ進む。この頃長女病身の為、家族四人で雑司ヶ谷に家を借り養生す。
・1914年、第8回文展「墨田河舟遊」二等賞。大正博覧会「芝居のお七」。この頃、神経衰弱となり小田原にて静養す。箱根塔の沢温泉に浴す。
・1915年、第9回文展「晴れゆく村雨」二等賞首席。(震災焼失)。この頃、鈴木春信に最も親しむ。
・1917年、第11回文展「黒髪」四曲一双特第一席。 結城素明、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘と金鈴社を起す。特に映丘と親しくす。第1回金鈴社「薄雪」。
・1918年、第12回文展「ためさるる日」文展推薦となる。第3回金鈴社「遊女」二曲屏風。「早春」。
・1919年、第4回金鈴社に梅蘭芳をえがいた「天女の舞」「悼花の歌」「絵草紙屋の店」。帝展審査員を任命さる。神奈川県金沢に遊心庵と名づけた控家を設け昭和13年まで時々静養に滞在。
・1920年、第2回帝展「妖魚」。第5回金鈴社「晩凉」「道成寺」二曲屏風。「雪つむ宵」。郷土会「暮雲低迷」。祖母ふく死去(90才)。
・1921年、第6回金鈴社「雨月物語」(妖蛇の巻八段)。「弁慶橋」「弁天山」。3月高島屋初個展「雪十題」(この中「三千歳」大正12年の震災にて焼失)。
・1922年、第4回帝展「春の夜のうらみ」「権八と小紫」。郷土会「夜の梅」二曲屏風。金鈴社解散
・1923年、二科会フランス展「採蓮」。郷土会「桜姫」。年方の未亡人、弟子達と計って、神田神社境内に記念の燈を建てる。本郷にて震災にあう。
・1924年高島屋個展「町駕篭」「粉雪」「濡鷺」「お仙の茶屋」「襟おしろい」。
・1925年第6回帝展「朝凉」。
・1926年、「木場の春雨」。母ふみ死去(75才)。この頃より牛込矢来に住む。
・1927年、第8回帝展「築地明石町」帝国美術院賞郷土会「註文帳」12点。「浴後」。東京日日新聞挿絵「深川浅景」。
・1928年、挿絵「濠端風景」。「長唄二十番」二十図。
・1929年、イタリア展出品「道成寺」「鷺娘」「七夕」六曲一双。帝国美術院会員となる。12月静浦、修善寺、熱海を自動車にて7日の旅。
・1930年、第11回帝展「三遊亭円朝像」。第1回七絃会「くろかみ」「滝野川観楓」。ドイツ日本画展「水声」。聖徳太子奉讃展「大和路のある家」。「舞妓」「清元二十番」二十図。「新富町」「浜町川岸」。百穂、映丘の渡欧を送って2月20日東京を発ち家族と共に、自動車にて関西に初旅をす。
・1931年、第2回七絃会「関の夕暮」「狐狗狸」「明鏡」。この秋より「初雁の御歌」の下書をする。
・1932年、第3回七絃会「桜もみぢ」二曲一双。「聖徳記念絵画館壁画「初雁の御歌」。牛込の自宅を改築し、夜蕾亭と名づける。
・1933年、第4回七絃会「目黒の柏莚」(戦災焼失)」。尚美会「夏の女客」「朗羅」御大礼記念献上屏風「讃春」。夏箱根小涌谷に保養す。
・1934年、第15回帝展「妓女像」双幅(戦災焼失)。六潮会「にごり江」。第5回七絃会「鐘供養」「山茶花」。三越個展「おかる三態」「十種香」「三千歳」「助六」「梅王丸、桜丸」。第1回珊々会「祇園林の歌人」「うたひめ」「保名」「鏡獅子」。随筆集「銀砂子」「築地川」刊行。
・1935年、第6回七絃会「初冬の花」。個展「明治風俗12ヶ月」(戦災焼失)。第2回珊々会「巣林子」。第1回踏青会「歌妓素描」。
・1936年、改組第1回新帝展「慶喜恭順」。第7回七絃会「伽羅」。第2回踏青会「ほととぎす」。三越個展「隅田川に因む作」。挿絵倶楽部の顧問を引受ける。
・1937年、第1回文展「鰯」。第8回七絃会「雪粉々」。「屠蘇」。芸術院会員。審査主任。随筆集「褪春記」刊行。
・1938年、第9回七絃会「歌舞伎の始」。随筆集「芦の芽」「御濠端」刊行。秋、川越喜多院を訪れる。この頃東郊葛飾一帯に興味を惹かれる。
・1939年、第3回文展「柳圃虫声」。第10回七絃会「お夏清十郎」「四季美人」。(由縁、宵宮、月影、淡雪の四幅対)。第5回珊々会「うき大尽」。
・1940年、紀元2600年奉祝展「一葉」。個展「助六廓江戸桜」。
・1941年、「富士詣」。「藤懸静也博士像」。
・1942年、第12回七絃会「雪旦」。第6回珊々会「歌舞伎絵姿扇面八連作」。
・1943年、第6回文展「阿竹大日如来」。第7回珊々会「築地川連作」画帳。第13回七絃会「菊佳節」。随筆集「柳小紋」。「連翹」刊行。
・1944年、「高尾さんげ」。芸術院会員として陸海軍に「蕪」「蟹と童」をおくる。帝室技芸員となる。「清方随筆選集」刊行。戦争のため茅ヶ崎に疎開。
・1945年、三浦謹之助博士八十の祝「三浦博士像」。東京の家戦災に罹る。静岡県御殿場に疎開。
・1946年、第1回日展(日本美術展覧会)「春雪」。鎌倉市材木座に移る。東大入院。
・1947年、珊々会「洋燈」。「静物小品15点、苦楽表紙」。
・1948年、第4回日展「朝夕安居」。
・1949年、第5回日展「先師の面影」。
・1950年、第3回清流会「築地川春雨」。白寿会「雪見舟」。三越個展「八重垣姫」。「姫街道」「からかぜ」「大蘇芳年」。上野松坂屋にて朝日新聞社企画のもとに、「画業50年展」開催さる。代表作50点余。
・1951年、第4回清流会「柳やおふじ」。白寿会「春宵怨」「春の浦曲」。
・1952年、第5回清流会「夏ざしき」。五月会「大川の虹」。兼素洞展「吹雪」。柏風会「緑燈」。
・1953年、第6回清流会「夏草」。白寿会「菊寿盃」。紫草会「白魚橋」。在外公館の為に「客室」製作す。十大家額装展(兼素洞)「吹雪」。
・1954年、神奈川県立近代美術館にて回顧展開催さる。文化勲章を授けらる。鎌倉市新居に移る。
・1955年、第7回清流会「朝顔」。白寿会「十一月の雨」。
・1956年、第8回清流会「道成寺道行」。白木屋にて毎日新聞社主催のもとに「清方名作展」開催さる。
・1957年、薫風会「夏の武家屋敷」。9回清流会「遠い花火」「雨あがる」。「清方画集」刊行。
・1958年、10回清流会「隅田川名所」(梅若塚)。
・1959年、銀座松屋で朝日新聞社主催『清方下絵展』を開催。11回清流会「汐路のゆきかひ」出品。
・1960年、浜奈寿会「金沢瀬戸の夕潮」出品。12回清流会「李の花影」。
・1961年、随筆集「こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。
・1962年、14回清流会「つゆのひととき」銀座松屋で『鏑木清方自選展』を開催。菅楯彦と共著「東京と大阪」(毎日新聞社)刊行。
・1963年、15回清流会「棗の葉かげ」。
・1964年、16回清流会「橋場真崎」。
・1965年、横浜高島屋で『鏑木清方展』を開催。17回清流会「竹屋の渡」。
・1966年、18回清流会「待乳雪景」。
・1967年、19回清流会に「ままごと」を出品。随筆集「続こしかたの記」(中央公論美術出版)刊行。
・1968年、20回清流会「牡丹の客」。
・1969年、日本橋高島屋で個展『今様絵詞の会』を開催。21回清流会「笹団子」。
・1970年、三越で個展『清方えがく心のふるさと-江戸十五題-』を開催。谷崎潤一郎著・鏑木清方挿絵「少年」(中央公論社)刊行。22回清流会「吹雪」。妻照死去。
・1971年、銀座松屋で毎日新聞社主催『鏑木清方展』を開催。23回清流会「雪ころがし」。
・1972年、鎌倉雪ノ下にて没す。
※東京文化財研究所HPより抜粋(https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9339.html

→美術史的な話はさておき、途中マーカーをひきましたが50歳を過ぎて自転車の旅をするって昔の人にしては随分お元気だったんですね。それが93歳まで長寿をまっとうされた理由なのかもしれませんね。こういう身体を動かすのが趣味としていた画家といえば前に本ブログでもご紹介した小杉放菴さんを思い出しますね。彼もスポーツマンで83歳まで長生きされましたので、身体を動かすと良いことだなと変なところに感心しました。

主なコレクション

・コレクションの画像はHPに載っていませんでしたが、これまでの展覧会のチラシは掲載されていましたので鏑木清方のことをあまり知らない方のためにこちらに掲載しておきます。良いなと思った方はぜひ足を運んでみて下さい。

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