こんにちは。前回から続き、山形県酒田市を取り上げます。
さて、酒田市、「土門拳の故郷」ということに加え、湊町としても栄えました。
日本海の海運で活躍した北前船※の寄港地として、さらには最上川の舟運の要として古くから役割を持ち「西の堺、東の酒田」とも謳われました。現在でもその繁栄の名残を残す場所が今回ご紹介するアート施設です。
※江戸時代中期(18世紀中頃)~明治30年代まで運行された商船の総称。大阪と北海道を日本海周りで寄港し、商品を売り買いしながら結んでいた当時経済の大動脈として存在。(以下、画像は新潟文化物語HPより転載 https://n-story.jp/topic/122/page1.php)
このブログで紹介するアート施設
舞娘茶屋 相馬樓 竹久夢二美術館
・開館:2000年(建物は料亭として1808年建造、美術館は2008年開館)
・施設外観 ※1996年、国の登録文化財建造物に指定(以下、画像は館HP及び県観光協会HPより転載)
・場所
舞娘茶屋 相馬樓 – Google マップ
→前ブログで酒田市を引きで載せていたので、今回はだいぶ寄りました。
・2つほど紹介動画が載っていたので掲載しておきます。
[こちらは英語版のようです]
扉を開ければそこは別世界
・相馬樓の前身「相馬屋」は江戸時代より酒田を代表する料亭だったそう。1995年に200有余年におよぶ歴史に幕を下ろし、2000年に戯遊詩画人:泉椿魚氏※のプロデュースによって、舞娘さんの踊りやお食事を楽しむ観光施設「相馬樓」として再生。かつての厨房は舞娘さんの稽古場となっており、現在残る木造の主屋は、1894年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたそう。1996年11月に国の登録文化財建造物に指定。
なお、樓内の土蔵には、雛人形や書画、古美術品を展示。2008年には「竹久夢二美術館」も併設。樓内は四季を感じられる掛け軸や生け花などでお客様を迎える演出がされています。
※戯遊詩画人:泉椿魚氏Profile https://hyosatu.co.jp/chingyo-fonts/
主なコレクション(竹久夢二美術館)
・相馬樓の前身「相馬屋」…元は江戸時代の東北を代表する老舗料亭で多くの財界人や著名人が足を運んだそう。名の知れたところでは元首相の犬養毅や画家の竹久夢二…その縁もあって2008年に美術館がオープンしたそうです。
竹久夢二とは
・大正ロマンを代表する詩人画家。彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」で知られ、情緒豊かな作品を数多く発表。また画家という領域にとどまらず、広告や雑誌の表紙から日用品まで幅広くデザインを手掛け、商業美術や出版の世界でも卓越した才能を発揮。
・夢二は何者にも束縛されない自由を求めて旅を続けたそう。明治から昭和にかけて、みちのくを旅した夢二は酒田に三度も滞在し、精力的に創作活動を実施。夢二は相馬樓の前身である料亭「相馬屋」を訪れた際に、夢二式美人画「からふねや」を贈るなど夢二にとって酒田はゆかり深い地となりました。
恋多き画家
・竹久夢二は妻のたまき、25歳で世を去った恋人彦乃、絵のモデルから恋に落ちたお葉…と恋多き画家であったことが知られています。夢二の人生やその美人画を主とする画業を語る上で欠かせない女性との物語も興味深い内容が多く残っていますが、ここは以下の別ブログに任せたいと思います。
〇竹久夢二〜たまき、彦乃、お葉という三人の女性と恋愛の名言〜
https://www.bou-tou.net/yumejitokoi
※竹久夢二「黒船屋」(1919年)※竹久夢二伊香保記念館収蔵
→竹久夢二の最高傑作と言われる「黒船屋」―モデルは彦乃説とお葉説があるそうですが…いずれにしろ絵画としては1点の曇りもない素晴らしい美人画と言えるでしょう。
竹久夢二…見る人によっては、美人画の名手、稀代の不良画家、画壇のプリンス…と色々と評価は分かれるかもしれませんが、上でご紹介したブログには夢二の最期の場面について記されていましたので本ブログでも抜粋して掲載しおきます。
・スキャンダル騒動によって人気もがた落ちとなった夢二は、仕事も減り、人も離れ、経済的にも厳しい日々を過ごします。それでも夢二のもとに集まってくる夢二ファンの若い女性と恋をし、嫉妬し、別れもありながら、やがては過去の恋を一切捨て、新しい仕事に取り掛かり、その後海外に旅に出ます。アメリカ、ヨーロッパの地を踏み、その心身の疲労ゆえ持病の結核も次第に進行。帰国後、体調が悪化した夢二は、富士見高原療養所に入院。
すっかり弱り果てた夢二は、これまで深い関係だった女性たちも誰一人見舞いに来ることはなく、病院の医師や看護師ら数人に看取られ、49歳で亡くなります。
息を引き取る直前、最期の言葉は、かすかな声で言った「ありがとう」でした。
ちなみに、後日談として、夢二の死から半年ほど経ったある日、この病院に一人の女性が訪れ、それは初恋の人であり妻であったたまきでした。たまきは夢二と決別したあと、自分の生活を築き上げ、そのときの暮らしや周囲への気遣いもあってか、死の知らせを聞いてもすぐには駆けつけることができなかったものの、こうして病院を訪れると、夢二がお世話になったことへの感謝を告げ、お礼のためにと病院の仕事などを手伝ったと伝えられています。
→ここからは完全に私の推測ですが、もしかしたら最初の妻たまきの心の中には「自分が見離したせいで夢二はずっと満たされないまま人生を過ごしてしまった」という責任を感じていたのかもしれませんね。いずれにしろ数多の愛人との噂が絶えなかった夢二ですが、全ての女性から見捨てられてなお、最期には最初の奥さんであるたまきさんが駆けつけたという話は何とも深い話でした。皆さんも一度「画家:竹久夢二」という1人の男の生涯について想いを巡らしてみて下さい。
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