東日本随一の平安仏教美術の宝庫 岩手:中尊寺(宝物館讃衡蔵)

アートな場所

こんにちは。マウスです。
…あれはいつ頃だったのだろう…一度東京からレンタカーを借りて青森まで弾丸ツアーをした記憶があります。東日本大震災前でしたので、ある意味でじっくり訪れることもなく、平泉の中尊寺だけバババッと覗いた記憶があります。

※岩手県観光協会写真より転載

※中尊寺(金色堂)とは…12世紀のはじめ、奥州藤原氏の初代清衡が多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営。前九年役・後三年役という長い戦乱で亡くなった人々の霊をなぐさめ、仏国土を建築するものでした。14世紀に堂塔は焼失したものの、金色堂、経蔵、金色堂覆堂など6件の国宝ほか、いまなお3000余点の重要文化財を伝える平安美術の宝庫です。

→美術館ではないですが、岩手県はこの中尊寺エリアで3000点余の国宝、重要文化財が保存されているという時点でもはや美術館として扱えるかもしれません。

このブログで紹介するアート施設

中尊寺

・創設:850年(比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山と伝わる)、堂塔は1105年、金色堂は1124年(いずれも初代奥州藤原氏、清衡による)
・外観(以下、写真は寺院HP及び市観光協会HPより転載)

→冬の感じも1枚
・場所
中尊寺 – Google マップ
→盛岡市内から意外と遠いです。

東日本随一の平安仏教美術の宝庫

・中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というもの。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡の非戦の決意があったそう。
平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄、みちのくは戦争のないまさに「平安」の中で文化も栄え、「平泉の世紀」になりました。

平泉:中尊寺のその後

・平氏政権を倒した源義経が兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した藤原秀衡が病死すると、四代藤原泰衡は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡することとなります。
鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫は今なお健在です。
平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載。

主なコレクション

<金色堂>

<丈六仏>

<金銅華鬘>

<金光明最勝王経 金字宝塔曼荼羅>

※本写真のみ ブログukiyonbanare「日本国宝展(@東京国立博物館)」 https://ukiyobanare.com/art/2014/kokuhou/より転載。

雑感ですが、藤原清衡はもしかしたら武力の力ではなく、文化や人を信頼し国を治めようとした最初の1人なのかもしれませんね。今の時代ならまだしも当時は大変だったでしょうが…美術品だけでなく、そのコンセプトも含め清衡は相当なイノベーターだったのでしょう。

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