創立100周年を迎える日本初の公立美術館、すべての人に開かれ「世界と日本の名品」に出会える場所 東京都美術館

東京都

 こんにちは。今日も上野の森美術館、東京藝術大学美術館に続き、上野エリアにある公立館としては最も古い歴史をもつ美術館のご紹介です。

 こちら、九州若松の石炭商・実業家の佐藤慶太郎氏の建設資金100万円(現在価値:33億円)の寄付により、1926年(大正15年)に開設されました。2026年には創立100周年を迎える美術館、今年度もパリのポンピドゥー・センターと連携した「マティス展」を開催、他にも「ローマ展」や「印象派展」など集客力の強い企画展を開催することでも知られています。(なので美術に興味がない人でもこの美術館の名前と外観は一度が見たことがある人が多いかもしれません)

 他にも、近年では、活躍する現代作家を対象とした公募展「上野アーティストプロジェクト」なども開催。そんな幅広く活動を展開されている東京を代表する美術館の1つ、早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

東京都美術館

・開館:1926年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)

・場所:東京都美術館 – Google マップ

創立100周年を迎える日本初の公立美術館、すべての人に開かれ生きる糧としてのアートに出会える場所

・1926(大正15)年、九州若松の石炭商・実業家の佐藤慶太郎氏の建設資金100万円(現在価値:33億円)の寄付により日本初の公立美術館として開館。国内外の名品を楽しめる特別展をはじめ、多彩な自主企画展や美術団体による公募展など多くを開催しています。

 東京都美術館ではその使命(ミッション)について美術館のHP上で、

「展覧会を鑑賞する、子供たちが訪れる、芸術家の卵が初めて出品する、障害のある方が何のためらいもなく来館できる、すべての人に開かれた『アートへの入口』となることを目指します。 新しい価値観に触れ、自己を見つめ、世界との絆が深まる『創造と共生の場=アート・コミュニティ』を築き、『生きる糧としてのアート』と出会う場とします。そして、人びとの『心のゆたかさの拠り所』となることを目指して活動していきます。」

とコメントしています。

 また、 1975(昭和50)年に開館した現在の建物は、日本モダニズム建築の巨匠・前川國男氏の設計によるもの。都市的な空間と上野公園の自然との調和が魅力的で、見所の一つとなっています。

→上の画像でもご紹介した赤褐色のレンガ造り風の外観…これどこかで見たことがあるなと思っていたところ、福岡市美術館も同様、前川國男氏の設計のようですね。他にも熊本県立美術館山梨県立美術館、国立西洋美術館新館、宮城県美術館、新潟市美術館など多くの美術館建設を担ったようです。

東京都美術館 4つの役割と4つの柱

・東京都美術館、上述したミッションを達成するため、4つの役割と4つの柱を設定しているようです。

4つの役割

1. 世界と日本の名品に出会える
2. 伝統を重視し、新しい息吹との融合を促す
3. 人々の交流の場となり、新しい価値観を生み出す
4. 芸術活動を活性化させ、鑑賞の体験を深める

4つの柱

・特別展や企画展など、見る喜び、知る楽しさを提供する「展覧会事業」
・公募団体やグループと連携し、つくる喜びを共有する「公募展事業」
アート・コミュニティ形成による新たな可能性を探求する「アート・コミュニケーション事業」
・アートラウンジや美術情報室、ミュージアムショップ、レストラン等、訪れる楽しさを充実させる「アメニティ事業」

「アートへの入口」を目指す10の取組

・東京都美術館…〇つの〇〇ってパワーワードが好きなのでしょうか、「アートへの入口」を目指す10の取組というのも設定されています。

1. 特別展

報道機関との共催により、「世界と日本の名品」に出会う大型の展覧会を開催

2. 企画展

アートとライフ(生き方、生命、生活)の深い関係に迫る「アーツ&ライフ展」、日本の現存中堅作家の活動に注目した「現代作家展」、アートとケア(新しい価値観との出会い、学び)をコンセプトに多彩な作り手を紹介する「アーツ&ケア展」の3つのテーマを基本に、毎年1つのテーマを取り上げる独自の企画による展覧会を実施

3. コレクション展

東京都美術館がコレクションとして所蔵する「書」作品を展示するほか、都立の美術館、博物館が所蔵する「東京都コレクション」を紹介する展覧会の実施

4. 公募団体展

絵画、彫刻、工芸、書などの作品を公募する団体が主催する展覧会で、年間40会期、約250団体により展覧会を開催

5. 学校教育展

教育委員会や高校・大学などの教育支援として行うもので、美術館が児童・生徒・学生の作品発表の場となる展覧会を開催

6. 公募展活性化事業

(1)上野アーティストプロジェクト
公募展で活躍する優れた現代作家を毎年テーマを決めて選定し紹介する企画展を実施

(2)都美セレクション グループ展
新しい発想によるアートの作り手の支援を目的として、企画を公募し、審査により選抜されたグループとともに、ギャラリー空間を生かした展覧会を実施

7. アート・コミュニケーション事業

東京藝術大学との連携事業「とびらプロジェクト」や展覧会に合わせたプログラム(コミュニケーション・プログラム)、障害のある方のためのプログラム(アクセスプログラム)などを通して「アートへの入口」を継続的に創出。同時にアーツカウンシル東京と東京藝術大学と共に行う主催事業「Museum Start あいうえの」では上野公園の文化施設と連携をとりながら、より豊かな体験を提供できるよう事業を展開

(1)とびらプロジェクト
東京藝術大学と連携し、市民と共に美術館を拠点にオープンで実践的なコミュニティの形成を実現していくことを目的に活動。公募によるアート・コミュニケータ(愛称:とびラー)が美術館や文化財を介した新しいコミュニティの回路を作る役割を持ち、学びと実践を繰り返しながらプロジェクトを推進

(2)Museum Start あいうえの
上野公園の9つの文化施設が連携し、上野地域の文化財や文化活動の価値をより認知しやすい環境を作り、子供たちのミュージアム・デビューを応援することを目的とする。「学校プログラム」「ファミリー・プログラム」の2つのプログラムに加えて、ミュージアムを利用しづらい子供たちを招待する「ダイバーシティ・プログラム」も実施

(3)Creative Ageing ずっとび
歳を重ねても「ずっと」通いたくなる美術館を目指し、シニア世代を対象に、作品や人とクリエイティブに出会える、参加型のプログラムを企画

(4)教育普及プログラム

①障害のある方のための特別鑑賞会
障害のある方が安心して鑑賞できるよう、事前申込制で特別展ごとに開催。アート・コミュニケータがサポート

②学校連携
学校の授業や活動として来館する団体への日常的な対応や、教員のための研修会の開催、専門家向けの研修会への協力、インターンシップの受入など

③展覧会関連プログラム
東京都美術館で開催される各展覧会をより深く体験するためのプログラムを開催。講演会やワークショップ、ギャラリートークなど実施

④建築ツアー
東京都美術館の建築をアート・コミュニケータと共に歩き観察することにより、美術館に親しみその活用のしかたへの理解が深まるツアーを開催

⑤その他の様々な試み
キッズデーの実施やジュニアガイドの作成。各種フォーラムの開催やアート・コミュニケーション事業に関する事業のアーカイブ化など調査研究活動も実施

8. 佐藤慶太郎記念 アートラウンジ

東京都美術館創設に寄与した佐藤慶太郎氏の名前を冠したラウンジを運営。東京都内の美術館を中心にした展覧会などの情報にアクセスできるインフォメーション・サービスを提供。毎年テーマを決めて当館の歴史を紹介するアーカイブズ資料展示も実施

9. 美術情報室、アーカイブズ資料

図書、雑誌及び展覧会図録など約5万冊のほか、東京都美術館に関連したアーカイブズ資料約6,000件を収蔵管理し、閲覧室として運営

10. ミュージアムショップ、レストラン・カフェ

日々の暮らしをもっと豊かにする楽しいグッズを取り揃えたミュージアムショップを展開。館内で過ごすひとときを楽しむためのメインダイニング、グランドレストラン、カフェを運営

→いかがでしょう。このように見るとかなり広範囲に活動を展開されているのが分かりますね。アートとライフ(生き方、生命、生活)の深い関係に迫る「アーツ&ライフ展」、アートとケア(新しい価値観との出会い、学び)をコンセプトに多彩な作り手を紹介する「アーツ&ケア展」や東京藝術大学と連携活動、美術館コレクションとして所蔵する「書」作品を中心とした展示などが印象的です。

主な収蔵品

・東京都美術館の収蔵品は、1994(平成6)年度に東京都現代美術館に移管されましたが、2012(平成24)年のリニューアルを機に、一部が再移管されているそうです。東京都美術館では、主に彫刻等の立体作品13点と書作品36点を収蔵(展示・保存)しています。

彫刻・レリーフ

・五十嵐晴夫
・井上武吉
・井上武吉
・建畠覚造
・鈴木久雄
・堀内正和
・最上壽之
・保田春彦
・小田襄円
・朝倉文夫
・ジョゼフ=アントワーヌ・ベルナール

書作品

・青山杉雨
・安東聖空
・泉原寿石
・上田桑鳩
・宇野雪村
・大石隆子
・金子鷗亭
・金田心象
・熊谷恒子
・桑田笹舟
・佐藤祐豪
・鈴木翠軒
・炭山南木
・田中塊堂
・手島右卿
・中野越南
・西川寧
・比田井南谷
・日比野五鳳
・広津雲仙
・豊道春海
・松井如流
・松本芳翠
・宮本竹逕
・村上三島
・森田子龍
・柳田泰雲
・山崎節堂
・山崎節堂

(参考)東京都美術館 収蔵品リスト:https://www.tobikan.jp/archives/collection.html

開館90周年特設サイト

・東京都美術館では、開館90周年の際にこれまでの歴史・歩みやミュージアム・アーカイブズをご覧いただくことができます。その中には90周年記念として開催された記念フォーラム※1の概要や本美術館の建築・設計者である前川國男氏による造形講座※2の様子などを振り返ることができます。
(開館90周年特設サイト:http://90th.tobikan.jp/index.html

※1…芥川賞作家の平野啓一郎氏、写真や見世物の研究で知られる東京大学大学院教授の木下直之氏、詩人で多摩美術大学教授の平出隆氏に登壇いただき、「都市における美術館の役割」や「日本の博物館・美術館の草創期」、また「今後、美術館が担っていくべきミッション(使命)」について語った記念フォーラム。

※2…1978念より約10年間、美術文化事業の一つとして開講された講座。主体的な参加を促す「ワークショップ」形式で行われた美術館プログラムの先駆けとなった。

→他にも、「私の都美ものがたり」と題して各界の著名人の方と東京都美術館の所縁を取材したコーナー(http://90th.tobikan.jp/essay.html)だったり、90年間の歩みを記したページ(http://90th.tobikan.jp/chronicle.html)も開設されています。

開館90周年特別展「木々との対話──再生をめぐる5つの風景」

・2016年、東京都美術館は開館90周年を記念し、特別展「木々との対話──再生をめぐる5つの風景」を主催。現代作家5名──國安孝昌氏、須田悦弘氏、田窪恭治氏、土屋仁応氏、舟越桂──氏の作品により、木という素材による表現の奥深さを体感いただこうと開催しました。

 命ある存在として、人々の暮らしに深く関わり木と古来より親しんできました人類の歩みを鑑み、木を希望の象徴・イメージとして展示されました。3.11から5年を経た当時、「木と再生」をキーワードに、多様な表現が並びました。

 木材と陶ブロックで、生命力溢れる巨大なインスタレーションを手がけた國安氏。本物と見まがうほどの精緻な植物の彫刻によるインスタレーションで空間を一新させた須田氏。廃材に金箔を貼るシリーズの旧作とともに野外でのイチョウを使ったインスタレーションに挑んだ田窪氏。動物や幻獣の姿により幻想的な世界を展開した土屋氏、そして肖像彫刻や「スフィンクス・シリーズ」など異形の人物像により彫刻表現の新境地を開拓した舟越氏。

 5名の作家による全く様相の異なる「5つの風景」には、木という素材ならではの深遠なる象徴性を感じとることができる展覧会となったようです。

<國安孝昌>

<須田悦弘>

<田窪恭治>

<土屋仁応>

<舟越桂─>
 

東京都美術館 沿革と歴史

・東京都美術館、HPが本当に充実しておりこの開館から90年間の歩みが丁寧に掲載されています。こちらもご紹介したいと思います。(以下は美術館HPからの引用です)

沿革

・1921(大正10)年 3月北九州の実業家・佐藤慶太郎氏から100万円の寄付
・1926(大正15)年 5月東京府美術館開館(設計は岡田信一郎。東京都美術館創立の日 5月1日)
・1943(昭和18)年 10月美術団体等による新作発表のほか、作家の回顧展や国内外の名品を紹介する展覧会を開催 都制施行により東京都美術館と名称変更
・1965~1967 (昭和40~42)年 建物老朽度調査を実施
・1968(昭和43)年 美術館建設準備委員会を設置
・1972(昭和47)年 新館建設工事着工(設計:前川國男建築設計事務所)
・1975(昭和50)年 3月工事完了 9月新館開館。貸館中心だった事業を自主事業として企画展の開催、美術文化事業、美術図書室の運営等を実施し、作品収集にも力を注ぐ
・1977(昭和52)年 3月旧館取り壊し工事及び旧館跡地造園工事完了
・1994(平成6)年 4月全収蔵作品及び美術図書資料を東京都現代美術館に移管(野外彫刻等の立体作品12点を除く)。以降、報道機関との協力による共催展と、美術団体等による公募展を活動の柱とする
・1995(平成7)年 3月東京都現代美術館開館
・1996(平成8)年 4月東京都教育委員会から(財)東京都教育文化財団(後に東京都生涯学習文化財団へ名称変更)へ管理運営が委託
・1998(平成10)年 9月ミュージアムショップがオープン
・2002(平成14)年 4月(財)東京都生涯学習文化財団から(財)東京都歴史文化財団へ管理運営委託先を変更
・2006(平成18)年 4月(財)東京都歴史文化財団が指定管理者として3年間管理運営を受託 5月開館80周年記念祭を実施
・2009(平成21)年 4月(財)東京都歴史文化財団が指定管理者として8年間管理運営を受託
・2010(平成22)年 4月(財)東京都歴史文化財団が公益財団法人へ移行 施設設備の老朽化のため大規模改修工事(設計:前川國男建築設計事務所)を実施。約2年間休館 5月リニューアル準備室を旧坂本小学校内(台東区下谷)に開設
・2011(平成23)年 7月東京都現代美術館から彫刻作品12点、書作品36点を再移管 11月ロゴ・シンボルマークを制定(デザイン:吉岡徳仁デザイン事務所)
・2012(平成24)年 3月博物館法による博物館相当施設に指定 4月リニューアルオープン(企画棟を除く)。ユニバーサルデザインを採り入れ、展示室の環境改善を行い、レストランやショップを充実。新たな管理運営方針のもと、多様な自主企画の展覧会やアート・コミュニケーション等の事業を展開 6月リニューアル記念特別展「マウリッツハイス美術館展」オープン(企画棟を含め全面オープン)
・2013(平成25)年 10月リニューアルオープン記念事業の一つ「新伝統工芸プロデュース『TOKYO CRAFTS & DESIGN 2012』」が、2013年度グッドデザイン賞を受賞

歴史

東京府美術館開館 ―日本初の公立美術館
◎高まる世論
東京都美術館は「東京府美術館」として生まれました。1926(大正15)年、大正が終わり、昭和が始まった年です。このころ上野公園では、9月に院展(日本美術院)と二科展(二科会)が、10月には文展(文部省美術展覧会)がすでに開催されていました。やがて東京府美術館(以下、府美術館)がこれらの会場となります。秋に展覧会が多く開かれたことから、「芸術の秋」の由来になったともいわれています。
府美術館ができるまでは、日本には公立の美術館がありませんでした。「ヨーロッパの都には美術館があり、文化のシンボルとして自国をアピールしている。美術館のひとつでもなければ西洋に後れをとる」、こうした世論が新聞各紙をにぎわせていました。
◎芸術家の晴れ舞台
いつでも美術にふれられる場がほしい――。長年の悲願は、たったひとりの実業家の篤志によって実現しました。北九州の石炭商・佐藤慶太郎が建設資金の全額100万円(現在の40億円相当)を東京府に寄付しました。石炭商として決して大手ではない佐藤は、アメリカの実業家カーネギーに倣い、全財産の半分を社会のために使ったのです。

1926(大正15)年5月1日、府美術館は開館します。政府による官展から在野の美術団体を問わず、芸術家の発表の場となりました。ここに作品が飾られることは、芸術家として認められたことを示します。その晴れがましさは格段であったと、当時の府美術館の建物(以下、旧館)を知る人たちは語ります。ヨーロッパの神殿を思わせる列柱と仰ぎ見る大階段。そのクラシカルな風貌と相まって、「美術の殿堂」と称されました。

◎ミュージアムかギャラリーか
府美術館が構想されていたころ、画家・石井柏亭は、そのモデルをパリのグラン・パレに求めていました。巨大なギャラリー(展示場)です。建設資金を寄付した佐藤慶太郎の希望は、アートミュージアムでした。古美術品の保護と作品の体系的な収集、それらを常設展示できる施設です。美術関係者も期待していました。しかし東京府の方針は、展示を本位とするギャラリーでした。
ギャラリー本位でスタートした府美術館は、まもなく自主企画展を実施し、収蔵作品も年々増加。次第にミュージアムを志向していくことになります。
旧館時代 ―近現代美術史の合わせ鏡
◎群雄たちの同舟
東京府美術館(以下、府美術館)は、官展や美術団体、新聞社などによる展覧会の会場となりました。そのため美術界と社会の情勢が色濃く反映されることになりました。展覧会の軌跡をたどると、日本の近現代美術の歴史が合わせ鏡のように映し出されます。
府美術館が生まれた1926(大正15)年ごろ、美術界は政府による官展と在野の団体がしのぎを削っていました。府美術館のこけら落としとなった「聖徳太子奉賛美術展覧会」では、官展と在野の各会から1000点あまりが出品。「群雄割拠状態にある美術界が久しぶりに呉越同舟して予想以上の成果を挙げた」と評されました。
このころヨーロッパの前衛美術が日本に波及し、未来派を紹介した東郷青児、野獣派に感化された佐伯祐三らの最先端の作品が、府美術館で発表されてゆきます。

◎世界の美術と日本の伝統文化の紹介
世界の名品や現代美術の紹介も、府美術館の役割となりました。1928(昭和3)年の「大原孫三郎氏蒐集泰西美術展覧会」は、ヨーロッパ絵画のほかエジプトやペルシャの美術など、倉敷の大原美術館の基礎となったコレクションを展示しました。1932(昭和3)年の「巴里―東京新興美術展」では、ピカソやエルンスト、タンギーなど前衛絵画116点が出品されています。
また日本の伝統文化の発表の場ともなりました。書家・豊道春海らの尽力で開館の年から書道展を実施。各地の美術館で書が発表されるきっかけとなりました。「国風盆栽展」は1934(昭和9)年からスタート。その芸術性を評価し、美術館での開催を後押ししたのが、彫刻家・朝倉文夫でした。(→参照:台東区立朝倉彫塑館

◎戦争の影響と美術団体展の復活、そして「現代美術」の胎動
1930年代後半、日本が中国大陸へ進出すると、梅原龍三郎などが派遣され、彼の地を描いた作品を発表しました。戦時下には大日本陸軍従軍画家協会が発足し、藤田嗣治らが参加。戦争記録画の展覧会が開催されました。こうした絵画は、第二次世界大戦後(以下、戦後)にGHQが集め、東京都美術館に一時保管されることになります。
戦後、文部省は官展の再開をめざし、1946(昭和21)年には日本美術展覧会(日展)を開催。美術団体も相次いで再建されました。しかし出品していた団体展から離れて独自に活動する作家も現れます。岡本太郎はその一人です。(→参照:川崎市岡本太郎美術館岡本太郎記念館

 1960年代には既存の美術表現を打ち破る動きが加速します。「読売アンデパンダン展」では、赤瀬川原平ら「反芸術」を標榜するグループの作品に会場は熱狂のるつぼと化しました。1970(昭和45)年開催の第10回日本国際美術展「人間と物質」も、新しい美術表現を紹介する伝説的な展覧会となりました。東京都美術館(以下、都美術館)は「殿堂」であったがゆえに、既成概念を打ち破ろうとするエネルギーが炸裂する場となりました。
森に溶け込む美術館 ―新館開館
◎仰ぎ見る殿堂から地中に潜る建築へ
「この美術の殿堂は、決して満足すべきものではない。まず『暗い』。それから『汚い』。また『うるさい』(床を踏む音)。さらに夏暑くて、冬寒く、換気不十分」と、美術評論家の竹田道太郎は語っています。
1960年代後半、東京都美術館(以下、都美術館)を使用する団体数は100を超え、年間の入館者が100万人を上回りました。会場は手狭になり、観覧環境は悪化。建物の構造と耐久性を調査すると、地震時に十分に安全が確保できず、取り壊しはやむなしとの結論に至ったのです。
東京都は1968(昭和43)年に新館建設の準備委員会を設け、次の3つの機能を掲げました。

(1)美術館が主体性をもって企画展を進め、現代美術の秀作を収集し、常設展示を充実させる「常設・企画機能」
(2)公募団体の要請に応えられる規模と設備を整え、作家の技量を発揮できる場とする「新作発表機能」
(3)都民の文化活動を促進するために、美術研究、創作活動、美術普及の場を提供する「文化活動機能」

新館の設計を任されたのは、建築家・前川國男。上野公園内にあるル・コルビュジエによる国立西洋美術館の設計を手伝い、東京文化会館を設計していました。公園内は風致地区であることから建物の高さは15メートルに制限され、総面積の60%近くを地下に設けることになりました。中央に広場(エスプラナード)を配したうえで、建物は企画・常設展示ブロック、公募展示ブロック、文化活動ブロックに独立。三棟が広場を取り巻くように配置しました。

◎公立美術館の原形として
新館は、府美術館の建物(以下、旧館)の隣に建てられ旧館解体までのつかの間、前川國男による新館が建ち並び、その姿は壮観であったといいます。重厚な階段を一つひとつ高みへと上がりつめていく旧館と、地下に設けられたメインエントランスへ緩やかに階段を下りていく新館。対照的な動線は、時代や思想の移り変りを象徴するかのようです。
新たな都美術館の活動は、自主事業と貸館事業に大別されました。専門職として学芸員が配置され、自主事業では、国内外の近現代美術の名品を紹介する企画展を開催。常設展示こそ実現しませんでしたが、作品収集にもより力を注ぎ、収蔵作品展を精力的に開催しました。
また、美術文化事業として造形講座や公開制作を行い、展示・収集事業と有機的に関連をもたせました。この取組は現在の美術館ワークショップの源流とされています。1976(昭和51)年には日本初の公開制の美術図書室が館内にオープンし、専門の司書も配されました。
一方の貸館事業は、公募展示室、アトリエ・講堂などの諸施設の貸出です。こうした機能の多くは、今日の公立美術館で広く見られ、都美術館の新館はその先駆けのひとつです。
美術団体と上野の杜 ―アーティストが生まれる場
◎公募団体展と美術館デビュー
現在、最先端のアートは、ギャラリーやアートフェア、アートフェスティバルなどで発表されるようになりました。従来の公募団体展(以下、団体展)には、作品の類型化、古い形式への固執といった批判があることは否定できません。新聞の美術欄に団体展がほとんど取り上げられなくなったのは、象徴的です。

しかし、団体展で見られる美術作品は、わが国の同時代の美術であることはまちがいありません。東京都美術館(以下、都美術館)では、世界の名品を紹介する展覧会を年4回、入場者は平均100万人(年間)。一方、団体展の観覧者は年間140万人ほど。日展や二科展などが国立新美術館に移る前は170万人に達していました。美術団体の層は厚く、連綿と作家を生み、作品を世に送り出し、相当数の鑑賞者が存在します。
美術館デビューを果たすのは、作家だけではありません。はじめて訪れた美術館が都美術館という人も少なくありません。親に連れられて世界の名品をみた、知り合いが団体展に出品した、自分の書や絵画が児童部門に飾られたという人も多く見られます。

毎年1月から3月にかけて美術大学や芸術系高校の卒業制作展(以下、卒展)が続きます。東京藝術大学は、東京美術学校だった1942(昭和17)年から、現在も都美術館を卒展のメイン会場としています。1978(昭和53)年からは、武蔵野美術大学、多摩美術大学、女子美術大学、日本大学芸術学部、東京造形大の連合による卒業制作の選抜展が開かれていました(現在は、国立新美術館で開催)。

◎「上野の杜」という意味
都美術館は、現代美術の発表・鑑賞の場を標榜してきました。その機能の一部は、1995(平成7)年に開館した東京都現代美術館(江東区木場)へと受け継がれました。これまで形成したコレクションと企画展や教育普及活動、公開制の図書室といった機能が移管されました。2007(平成19)年には国立新美術館(港区六本木)がオープンし、日展、二科展、国展などの大規模な団体展は会場を移すことになりました。

都美術館は、時代とともに位置づけが変わりましたが、変わらないものがあります。上野という特有の歴史をもつ場所にあることです。数多くのミュージアムやホール、大学が集積し、芸術や文化をめぐるさまざまな人と物事にふれあうことができるのです。
世界の名品と共催展 ―報道機関とつくる出会いの場
◎共催による展覧会
今日までの東京都美術館(以下、都美術館)を特徴づける事業のひとつに共催展が挙げられます。新聞社等の報道機関との企画共催による展覧会は戦前から行われていました。収蔵品が東京都現代美術館に移管されて以降、とりわけ報道機関との共同主催によるバラエティに富んだ展覧会が、公募団体展と並ぶ事業の柱のひとつなりました。
「ピカソ展」(1977(昭和52)年)、「ヘンリー・ムーア展」(1986(昭和61)年)、「ボロフスキー展」(1987(昭和62)年)といった西洋美術の作家の個展。そして、「オルセー美術館展 モデルニテ=パリ・近代の誕生」(1996(平成8)年)、「永遠の美と生命 大英博物館 古代エジプト展」(1999(平成11)年)、「ウィーン美術史美術館蔵 栄光のオランダ・フランドル絵画展」(2004(平成16)年)など、世界に名だたる美術館とその優れたコレクションを紹介する展覧会が数多く開催され、多数の来館者から好評を博してきました。

◎名品との出会いの場
海外まで足を運ばなければ鑑賞することのかなわない傑作の数々を「間近で味わうことのできる経験」は、インターネットをはじめ、さまざまなメディアが高度に発達している今日においても、得難いものであることには変わりありません。
「世界と日本の名品に出会える美術館」として、かけがえのない出会いの場を提供し、広く社会にアートを伝える。その普及活動としての共催展の役割と魅力は、今後とも輝いていくにちがいないでしょう。

美術館ロゴデザインについて

・皆さんも一度は目にしたことがあるのではないかと思う東京都美術館のロゴデザイン、こちらデザインしたのはデザイナーとして著名な吉岡徳仁氏。東京都美術館創設以来、84年目にして2011(平成23)年に誕生しました。
   

「誰にでもわかる明快さ・親しみやすさ」
「シンボリックなイメージ」
「歴史と未来の融合」
「日本をイメージ」

といったキーワードをもとに制作された2種類のロゴマークは、90年近い館の歴史=重厚感と同時に、未来へ向けた可能性を感じさせる、軽やかさが表現されています。(東京都美術館そのものを表すときは色のついた立方体のもの、各事業を表すときは線で描かれた透明性のあるもの、と使い分けているそう)

ロゴコンセプト

・シンボルマークは、1975年に前川國男氏設計による現在の東京都美術館の建物を連想させるキューブのモチーフで、“造形の原点”を象徴するアイコンとしてデザイン。シンボルカラーには、建築の外装に使用されている赤に近い茶色、また日本の和を感じさせる赤を融合させ、新たな東京都美術館の色となっています。美術館そのものを象徴した立方体のデザインと、線で描かれた透明性のあるデザインで、立体感のある2種類から構成され、誰もが東京都美術館のイメージにリンクする歴史と未来が融合したデザインとなっています。

 開館以来85年間にわたりシンボルマークやロゴを持つことのなかった都美術館。イメージカラーもない中、吉岡さんが目指したのは、「永く愛され、世界にも通用するデザイン」だったそうです。吉岡さんは、「誰にでもわかる明快さ」「シンボリックなイメージ」「歴史と未来が融合する」「建物から連想する」「世界の人に愛される」「日本をイメージする」「大人から子どもまで親しみやすい」などをデザインのポイントに掲げ、ロゴタイプとの組み合わせでは30パターンにも上る原案をつくりあげました。

 どっしりと重厚感のある力強い立方体のデザインは85年の館の歴史と伝統を象徴する一方、線で描かれた透明性のあるデザインは、美術館の限りない可能性や親しみやすさなどを表現、その一貫した姿勢は100年先の都美術館を将来にわたり色褪せないものとして表現しているようです。

…さて、いかがだったでしょう。少し長くなりましたが、東京都美術館のHPが充実しており、幅広くご紹介することができました。最後に東京都美術館が特設ページももうけて大切にされている創業時の恩人:佐藤慶太郎氏、について少し振り返って終わりたいと思います。

(参考)東京都美術館の生みの親 実業家:佐藤慶太郎について

・1868年(明治元年)、筑前国遠賀郡陣原村(現・福岡県北九州市八幡西区陣原)出身の実業家。1886年(明治19年)、福岡県立英語専修修猷館(現・修猷館高等学校)に入学、その後、法律家を志し修猷館を中退し、明治法律学校(現・明治大学)に入学する。卒業後、帰郷し筑豊炭田の積出港であった福岡県遠賀郡若松町において石炭商の仕事に従事、独立後に炭鉱経営者として成功を収める。しかし持病の胃腸病が悪化したため経営の第一線から退き、1918年(大正7年)に若松市会議長に就任。

 第一次世界大戦後の戦後恐慌下、石炭鉱業連合会の設立構想を三井、三菱、古河等の財閥や有力者に熱心に説いてまわり、創設に尽力。1921年(大正10年)、連合会創設のために上京した折り、目にした「時事新報」社説で、東京府美術館(現・東京都美術館)の建設計画が資金難のため頓挫しつつあることを知り、面識があった東京府知事阿部浩に即座に100万円(現在の約33億円相当)の寄付を申し出た。これにより、岡倉覚三(天心)や横山大観らの「美術館が欲しい」という明治以来の日本美術界の悲願が実現することとなった。

 1922年(大正11年)、三菱鉱業の監査役に就任したのを契機に、事業を人に任せ20を超える要職から退く。1934年(昭和9年)にそれまで居住していた若松市(現北九州市若松区)の邸宅を若松市に寄付、温泉地である大分県別府市に移住、晩年を同地で過ごした。(なお、若松の旧邸宅敷地は「佐藤公園」として利用され、記念碑ならびに胸像が設置されている。 )

 佐藤は若いころにアメリカの実業家カーネギーの伝記を読んで感銘を受け、彼の言葉「富んだまま死ぬのは不名誉なことだ」( The man who dies rich, dies disgraced )を信条としていた。1935年(昭和10年)、寄付金150万円により、財団法人大日本生活協会を設立し、衣食住、家庭経済、風俗習慣などの改善研究を行い、実験設備として生活訓練所、児童研究所、模範部落建設、教育機関を通じて新生活指導者を養成するほか新興生活実行組合を全国に作るという大掛りな構想を発表した。

 その拠点として1937年(昭和12年)に「佐藤新興生活館」(現・山の上ホテル本館)を建設した。 また、貧困により医薬が購入できない人への救済組織として「財団法人若松救療会」などを設置したり、「福岡農士学校」開設にも協力するなど、「美しい生活とは何か」を希求し続け、食生活や農村の改善、女子教育の向上にも尽力した。優秀な若者には奨学金を提供し、先見性のある医師や社会活動家に支援を惜しまず、日本の芸術文化と生活文化の双方に寄与。その社会奉仕の功績を顕彰し、その精神を未来に継承する芸術文化活動や生活文化活動を奨励しようという「佐藤慶太郎顕彰会」が齊藤泰嘉筑波大学教授らにより設立されている。

→美術界隈では「東京都美術館の生みの親」として有名ですが、食生活や農村の改善、女子教育の向上にも尽力したことは私も知りませんでした。そんな佐藤慶太郎氏、座右の銘にしていた「公私一如」という考えをここに記して終わりたいと思います。

「自分の財産は社会からの預かりものであり、世の中にお返しすることは当たり前のこと。私は若い時から眼前に直面した事柄に、精いっぱい、有りったけの誠と力を尽くしてあたってきた。従って、その結果については、一切、取り越し苦労や愚痴・後悔は言わぬこととしている。今の言葉でいえば『現状充実主義』というのであろうか。実はこんな主義を立てても立てなくとも、人間に与えられた道、我々の尽くすべき方法は、ただ『現在に最善を尽くす』―これ以外ないのではなかろうか。今日という一日のほかはなかりけり。昨日は過ぎつ、明日は知られず。
(参考)booklet_東京都美術館の生みの親_佐藤慶太郎

 異論もはあるでしょうが、このような立派な考え方の実業家の方がいなければ今の東京都美術館、しいては全国にある公立館の見本になるような美術館はずっと後の時代まで遅れていたことは確実です。(官展と在野の団体が切磋琢磨する機会もなかったでしょうし、岡本太郎や赤瀬川原平が既成概念を打ち破ろうと新しい芸術表現を追求する機会もなかったかもしれません)

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