アートはどこからきてどこへむかうのかー10万年前の地球から辿るアートの軌跡 後編

アートな人
チームラボHPより抜粋

こんにちは。甘いみかんを食べるとカルピスの味がするマウスです。
冬季五輪はじまりましたね。スノーボード男子ハーフパイプで見事金メダルを獲得した平野歩夢さん、代名詞の「トリプルコーク1440(フォーティーン・フォーティ)」を見事に決めましたね。
この技、知らない人は以下のURLで解説が載っていましたので是非拝見してみて下さい。

〇スノーボード・男子ハーフパイプ平野歩夢選手、金メダルの“カギ“となる超大技、さらに驚きの新技にも挑戦!?スノーボード元日本代表・岩垂かれんさんが解説
https://news.yahoo.co.jp/articles/435bb140d9ef3d3df5427b98058033f1a93d4d42?page=1

…さて、金と言えば、よく日本では「沈黙は金」という言葉が聞かれますよね。
これ、日本オリジナルのことわざかと思いきや、実は外国由来の言葉だそうです。
<由来>
19世紀のイギリスの評論家トーマス・カーライルの著書『衣装哲学』に記された一文。
カーライルが自らの思想を述べたこの本の中に、「Speech is silver, silence is golden(雄弁は銀、沈黙は金)」が登場する。沈黙を銀より高価な金に例え、「説得力のある言葉を持つことは大事だが、黙るべき時を知るのはもっと大事である」と表現したことから広まった。

元々はイギリスの言葉なんですね。ただ、恐らくこれが日本の独自の価値観と相まって、日本のことわざのように広まったのかもしれませんね。

ただ、私いつもこれを聞くと思うことがあるんですよね。

「沈黙は金」はあくまで言語表現での話で、言語表現以外(音楽や美術含め)についてはなぜ表現過多でも疎まれない、というかむしろ評価されるのだろうと。これはもしかすると言語が二次的な媒体であるが故の制約からくるものなのかもしれませんね。

音や絵(一次的表現)に比べ、言葉(二次的表現)は相手に自分の想いを伝えるという意味では、直接的で非常に便利な道具です。ただこのような便利なものとして要素的であるが故に逆に多すぎるとマイナスになるのかもしれないなーと、そんなことを最近考えながら過ごしています。

ちなみに、落語なんかは日本独自の文化として根付いていますが、海外ではあのような言葉遊びを芸術にまで高めた分野はほとんどありません。
もしかしたら言語という便利で要素的なものをあそこまで曖昧で、感覚的なものとして、沈黙せずにむしろめちゃくちゃ喋っても「金」に値するものとして、その表現性を昇華してきたというのは古今東西世界をみても日本人が大切にすべき自国の文化なのかもしれません。

本編に戻りたいと思います。
2022年がはじまって、1/12の前編1/24の中編と10万年前の洞窟絵画からアート表現の歴史を辿ってきました。

最後の後編ではインターネット出現以降のアートについて、つまりネットという集団間のデジタルな接触がより盛んになることで、どのような斬新な発想や「集合脳(知性)」が発生しているのかについて述べていきたいと思います。

では、それこそ難しいことを言語で表現するよりもまず、以下の現代の表現者集団たちの作品をご覧ください。
※なお、本ブログで載せている動画は全て彼/彼女らの公式HPに掲載されているものを転載しています。

〇チームラボ


〇タクラム・デザイン・エンジニアリング


〇ライゾマティクス


〇寒川裕人とザ・ユージーン・スタジオ

いかがだったでしょうか。
皆さんの心の中はいまどのような気持ちでしょうか。

本ブログを前編から読んでいただいている方は、10万年前の洞窟絵画から、インターネットの出現を経て、人間の表現活動は随分と変容したなぁと感じられている方もいらっしゃるかと思います。


―ところで、私が何故古代の誰彼も分からない洞窟絵画から、この2022年現在で最先端のアートを同じブログ軸上でお見せしたかったか―

それは読者の皆さんに本ブログを通じて何か少しでも現代社会を生きるヒントを得てほしいと思っているからです。

もう少しかみ砕いて言えば、この洞窟絵画からこれら現代のメディアアートに至るまでの幅の中に、美術史を中心に連綿と語り継がれてきた表現活動はもとより、人間が知りうる限りの難題・課題やそれを解決する方法が全て包含されるからです。

つまり、(これは気持ちの持ちようかもしれませんが)洞窟絵画から最新のメディアアートまで、その一端を知ることができれば、私も含め皆さんも、「自分はこの社会でうまく生きれるのだろうか」と不安になる必要は全くありません。だって表現活動という人間の根本をつかさどるものの既に始点と終点を知っている皆さんは、何かに迷ったときは、いずれかの入り口からその変遷を辿っていけばいいのですから。(時間の長短は個人差があるかもしれませんが、その入り口さえ間違えなければ明確にその処方箋を見つけることができるでしょう。)

以上のことから、私は一刻も早く、その始点と終点を読者の皆さんと共有したいと考え今回のブログの企画としました。

…既にこの前編、中編、後編を通じて言いたかったことは伝えてしまった気がしますが、せっかくなので、これら現代のメディアアートの特徴を「テトラッド」というメディア論の考え方を軸に触れて終わりたいと思います。

※久保田晃弘、畠中実著「メディア・アート原論(2018年、フィルムアート社)」から転載

この図は、メディア論の大家、マクルーハンのテトラッドという考え方を現代のメディア・アートに置き直したものです。なお、テトラッドとは、マクルーハンが唱えたメディアの変容について、対立する4つの軸から考えるフレームワーク的概念です。
(メディア論については、とっつきづらい方もいるかと思いますが、現代のアートシーンを分析する上では必須の知識になりつつあるなと感じていますので、興味ある方は是非知識を深めていってもらえれば。)

いきなりだと少し難しいので少し図について説明すると、「強化」の軸の先にあるのはGoogleが思い描くようなデジタリズム―つまり、社会のあらゆるものがデータ化され、AI・ロボットを駆使した私たちが一般的に映画などで空想する未来世界です。

逆に「衰退」の軸は物質や物体、伝統的なクラフトや手業の世界です。日本の伝統工芸や手描きの絵画などもこの世界に入ると思います。

そして、「回復」の軸にあるのは、オカルト(宗教)やエコロジー(自然)で、これは昔の神秘主義のような価値観がメディアの力を借り、新たな姿で復活してくる世界です。

最後、「反転」の軸は、身体や人間そのものです。ポストインターネット時代に訪れるであろう仮想空間(昔、セカンドライフってありましたね)では、人間や身体そのものを媒体に、また異なる世界の窓口になるであろうという考え方です。この世界では、人間や身体は、これまでとはまた違った形でより重要な役割を果たすものとしてスポットライトが当てられるかもしれません。

少し分かりづらい方もいるかもしれませんが、このテトラッドの考えはこれからのポストインターネット時代を生きていくうえで結構需要になるものですので、覚えておいても損はないかと思います。大切なので再度要約します。

№  軸   例
① 「強化」→Google、appleなどの世界
② 「衰退」→伝統工芸、手描きの絵画の世界
③ 「回復」→宗教、神話の世界
④ 「反転」→マッチョ、スポーツ、人体などの世界

「シンギュラリティ」という言葉は皆さんも聞いたことがあると思います。
これは日本語で技術的特異点といわれ、人間の脳と同レベルのAIが誕生する時点を表しています。早ければ2040年代にはそれを迎えると言われており、それ以降はAIの知性が人間を超えることになります。

その時代において、アートがどのような形態をとるのか、2022年の私たちには想像ができませんが、このテトラッドの考え方はヒントになる部分を含んでいます。たとえば、これまでアートの歴史上、いくつか影響が大きかった3つの分岐点を考えてみればわかりやすいでしょう。
それが印刷、写真、そして映像です。

私も専門家ではないので詳しいことは言えませんが、先ほどのテトラッドの例で考えると、これらの技術が社会で①強化される一方、少なくとも②の伝統工芸や手描きの絵画、④のマッチョ、スポーツなど人体への興味関心はまったく無くなってはいません。また、③の宗教、神話にしてもそれら新しい技術の影響を受け、12~13世紀のキリスト教全盛期のような時代に逆戻りしたこともありません。

つまり、人間は新しい技術(テクノロジー)に対して、比較的冷静のその動静を見極めてきたと言えるでしょう。

では、このインターネットとそれ以降の先端テクノロジーがもたらす、まさにGoogleを筆頭とした社会はどうでしょうか。

私は、将棋の電王戦でAIロボットponanzaが名人棋士にどんなに勝とうと、現:藤井聡太五冠がタイトルを手にしたというニュースが誰よりも人々を沸かせ、ニュースとして取り上げられるのを見るにつけて、人間は結局どこまでいっても人間が好き…人間が行った業、その行動というものが何よりも興味があるのだろうと感じています。

つまり、どんなに2040年以降、シンギュラリティを迎え、アート表現が豹変する世界が訪れたとしても、葛飾北斎の富嶽三十六景やゴッホのひまわりなど、手描きの名作は以前アートとして残るし、それを支える人たちも消滅することはないだろうということです。

もちろん、人と人との距離や壁をなくすという意味において劇的な効果をつくり出すインターネットやAIの活用により、アートそれ自体の表現の幅が広がり、(既にメディア・アートの分野で起きているように)テクノロジーを支える各分野の専門家が集い大組織化したり、見る側の人ともコミュニケーションが図られるような双方向性を武器とした表現も生まれてくるかもしれません。そして、それが果たして「アートなのか」という議論も、まさに写真が出てきたときと同様に起こると考えています。

しかし、個人的には本ブログで10万年前から辿ってきたアートの根本のところ、

…自分は何者か、どこから来て、どこへ行くのか…

自身のアイデンティティについて、人間固有の能力である、「目の前に『ない』ものを想像し、それを表現しよう」とするアートの本質については少しもぶれることなく2040年以降も続いているのだろうなと予感しています。

これはもっとも重要なことですが、人間の知性・感性や社会、そしてそれをつかさどる新しい表現の鍵は何もテクノロジーだけが握っているのではありません。
インターネットがここまで普及したのは2007年だと言われています。
2007年になにが起こったか…

そう、Apple社によるiPhoneが初めて発売された年です。

iPhoneについての説明は、もはや誰しもが知っている媒体であるため割愛しますが、あの2007年当時、それが携帯型端末として最先端の装置だったでしょうか?

テクノロジーとアート、
そしてそれに対する使い方や生活の一部として人々が共感して初めて、新しい時代や表現は育っていくのです。

いかがだったでしょうか。
最後に私がこの後編のブログを書くにあたって色々とあたった書籍の中から、一番素敵だなと思った箇所を抜粋して終わりたいと思います。

<三井秀樹著「メディアと芸術」(2002年、集英社)より抜粋>
・日本独自の文化に「見立て」という文化があります。日本を代表する総合芸術、茶の湯では、茶室が大宇宙、坪庭は大自然、生け花は野の花、茶碗の釉薬の流れやひび割れは「景色」そのものの見立ての形です。
つまり見立ては、ある形を別の形になぞらえるメタファー(隠喩)であり、人は「見立て」によって自分だけの世界を創りだし、想像をかきたてるのです。
庭は、大自然を自己の望む場所に人工的に再現したい、という人間の欲望から生まれた空間です。日本には枯れ山水という庭の形があるが、これは樹木や花を植えず、石や砂だけで構成した庭です。大石は雄大な山々であり、砂は大海を意味する。
中国の盆石を元祖として、日本で発達した園芸の文化、盆栽も、自然の風景を小さな鉢に再現した、見立ての芸術であると言えるだろう。…(以下略)

※今日からできるインドア趣味情報「趣味時間」HPより転載 https://hobbytimes.jp/article/20180716a.html

このブログでも何度も登場した、借景という考え方(目の前に「ない」ものを想像し、それを表現できるのは人間固有の能力)はもっと日本人が誇りにしてもいい、人間としてAIにも勝る素晴らしい能力だと言えるでしょう。

そんなこんなで、前編、中編、後編とアートの始点、終点(厳密には日々更新されますが)を全速力でご紹介してきました。途中でも述べましたが、これからどんなアートの記事を書こうと、時間軸的にはこの始点と終点の間に必ず位置する表現活動となります。(サッカーのコートで例えると、タッチラインやゴールラインなど、白線を使ってやっとフィールドプレーするエリアを定めた感じでしょうか。)

少し、筆が遅くなってきていますので、今後はもう少しライトに、文字数も減らしつつ皆さんの有益なアート界隈の情報を発信していけたらと考えています。

オミクロン株の出現でますます混迷を深める現代社会ですが、今後も皆さまの生活に少しでも彩りを与えられたらと考えています。今後ともどうぞよろしくお願い致します。

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