100年を生きる画家、野見山暁治 人はどこまでいけるか ③

アートな人

こんにちは、マウスです。
私の子、もう4歳になりますが、たこ焼きが最近ブームらしく、近くの大型ショッピングモールに行ってはたこ焼きをせがんできます。そして先日買ったたこ焼きのタコが小さかったことに腹を立ててぶりぶり言っていました。
<イメージ>

※IT mediaビジネス 世界初「たこ焼きロボット」は、“プロ”を超えることができるのか https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1809/05/news002.htmlから転載

…うーん、美味しそうですね。
ただ私、恐らく人生で一度もたこ焼きのタコの大きさを気にしたことがないということにそこで気づいたのですが、たこ焼きってタコ必要なんですかね?あのゴムみたいな弾力ある無味に近い物体の大小によってそこまで情熱を注げる子供にえらく感心していました。(全国のタコ漁師さんごめんなさい!)

調べてみると、日本国内では毎年約3万7千トン前後のタコが収穫されており、それだけで足りず、毎年モーリタニアやモロッコ、中国などからも輸入しているそう。日本のタコ年間消費量は世界全体の約60%を占めているそうです。ご存じの方も多いかもしれませんが、タコは欧米はじめ多くの国で「悪魔の魚」と忌み嫌われており、タコを食用と考える文化を持つ国はごく少数です。アジア圏でも日本以外では韓国やタイで食べられている程度で、収穫量が世界一の中国でも消費量は多くないのが現状です。

そんなタコ…ある意味食べ放題の状態の日本人ですが、それを最大限に消費するたこ焼きのタコが小さくなってきているのも原油高やコロナ禍による経済の落ち込みなんかも影響あるのかなーと横で考えていました。

このブログって自分で言うのもあれですが、滅多に宣伝みたいなこと載せません。(それでブロガーとしていいのかというのは置いといて)ただ、先日大阪に行ったときに美味しくて衝撃を受けたたこ焼きお菓子がありましたので、本題に入る前に少しそれをご紹介しておきます。


たこパティエ(12個入)

たぶんご存じの方も多いのではないかと思いますが、こちら瓢月堂さんの「たこパティエ」というお菓子で、たこ焼きとパイという美味しいものをドッキングしたらマズイわけないやんっていう(安直な…)発想で生まれたお菓子だそうです。

※瓢月堂HPより転載

1933年に世に生まれたたこ焼き、
本ブログの主人公、野見山暁治さんは13歳でちょうど今中先生に出会い、鳥飼先生と絵を修練していた頃かもしれません。(そう考えると今や日本の伝統食みたいになっているたこ焼きすら歴史に勝てない野見山さんってとんでもなくすごいですが…)

では3/21のブログの続きを。

…小林萬吾という稀代の洋画家に見出されて無事に東京美術学校(現:東京藝術大学)に入学した野見山暁治さん、実は入学後は南薫造の教室に入ったそうです。
「恩師の誘いを断ってまで何故⁉」と思われた方が多いと思いますが、ここも野見山さんらしいエピソードが残っています。(以降、野見山さんの回顧録は「野見山 暁治著『のこす言葉 ひとはどこまでいけるか』平凡社 2018年」を参考にしています)

・結果的に美術学校には入れたけれど、小林先生の塾で感じたのは、多くの門下生を抱え、その指導に沿って皆が似たような絵を描いている。浪人すればするほど、マニュアルみたいな技術は身について上手くなっても絵に魅力がないということ。美術学校というのは浪人してまで行くほどのものかと思うようになった。鳥飼先生の言っていた「省略の方法」を見つけようと描くのとはどうも違う。これは受講してもしょうがないと思い、一学期を終えたときに「つまらないから辞める」と同級生に言うと「お前は浪人しなかったから簡単に考えているんじゃないか」と呆れられた。

…うーん、身につまされる言葉ですね。
別に美術大学に限らず、その他の高校・大学受験にも言えることかもしれませんが、受験勉強に明け暮れるあまり「大学に行く」ということが目的化してしまうのは何も画家の玉子に限った話ではないかもしれません。

現在に至るまで肩書ではなく、物事の本質を追及し続けている野見山さんらしい言葉だと感じます。

大学でいろんな文献をあさって自分の考えを確立しようと励んでいた若き日の野見山さんですが、次第に時代は戦争へ突入し、国策に沿わないものは没収されるようになったそうです。
当時の心境について野見山さんは戦争後にこう語っています。(ちょっと長いですが、当時の状況が伝わってきますので全文読んでみてください)

・正直あの頃の気持ちとしては、戦争をすればいいと思っていた。狭い土地にうようよ人がいる日本には、わけてくれる土地やそこから奪う富は必要かもしれない。国がそう思わせたということはあるでしょうねえ。日本はこういう立場に置かれているんだよ、と国民に吹き込んで。ヨーロッパの国々がインドやベトナムなどアジアに足をのばして資源や労働力を吸い上げているように、日本もそうすべきじゃないか。たまたま日清戦争や日露戦争で勝っちゃって、武力を持てば植民地を得られると目覚めた。ようしおれたちも欧米並みにやろうじゃないか、とどんどん軍備を強くした。すると、よその国が干渉してきた。軍縮会議で日本の軍備を取り上げようとする。ぼくたちにすれば、ヨーロッパに怒りが芽生えるのと同時に、彼らは東洋から奪っているのだから、いま日本が盾となって東洋を守らなければ—そんなふうに、どこかで戦争をしなければならないと真剣に考えるようになったんです。
一方で、「日本に、よその国まで守れる力があるのだろうか?」、「そもそも戦争ではたして東洋が守れるのだろうか?」という不信感もあった。戦争にはなにか嘘が隠されていないか―そんな葛藤を抱いて美術学校の仲間とずいぶん議論をしました。
そうこうするうちに文部大臣直轄の現役軍人が、「ロダンの彫刻は敵性だから壊す」と宣言したんです。ぼくら油画科は、西洋芸術を批判されたらおしまいです。校長はおろおろするばかりなので、学生たちが「それだけはやめてくれ」と陳情に行きました。そうしたら今度は美術学校をつぶすと迫ってきて、そんなことになれば元も子もない。戦争への不信感がぬぐえないほど募っていきました。

いかがでしょう。
野見山さんはじめ誰よりも視る訓練をしてきた画家の玉子たちが当初は「戦争を必要」と感じたのですから、当時の世論の状況も想像できます。そしてその嘘を誰よりも早く気づいたのも彼らだったのかもしれませんが…もはや進み始めた時計の針を逆戻しすることはできません。

実は野見山さん、大学二年生の時に肺炎を患って、出席日数が足りず留年しています。
これが結果的に幸運だったのか、当時学籍がある者は卒業してから兵役に行くと定められていました。
留年した野見山さんは一年据え置きでみんな「さよなら」と去ったのに自分だけが残ったそうです。その後、戦争が激化し学徒出陣が叫ばれると、卒業を控えていた野見山さんのみを残し下級生達は出征。野見山さんは繰り上げ卒業となったそうで、図らずも野見山さんの履歴書は立派にできていると本人も後日談で述べています。

・だって中学のときは、「学校を辞めたい」と親父に頼んだら「じゃあ明日からおれと一緒に弁当をもって炭鉱に行くぞ」と言われるのが恐ろしくて学校に行ったんだし、無理と言われた美術学校に現役で入れたし、ちゃんと卒業もできた…

卒業後、野見山さんのもとへも出征命令が届きます。
それをもって野見山さんは奈良を旅したそう。寺や仏像など、過去の先人達がつくったものを一度見て死のうと考えた行動だったと野見山さんは当時を振り返ります。

・大げさでなくて、死ぬと思っていた。藤田嗣治のアッツ島の絵があるでしょう。もう実際にアッツ島は玉砕してるんだよ。あのなかへ何か月かしたら自分が入っていく、そう思うと身の毛がよだちました。自分が生きているはずがない、まさか生きて帰れるわけがない。自分の命も、絵を描くということも、ぜんぶ終わるんだ、と。
奈良の風景というのはいいもんだなあと思ったし、古いお寺や仏像を見ていると下界がみんな遠くなって、それとだけ相対しているような、すうっと別の世界に連れていってくれるようで引き込まれました。あれを感動というのか。信仰なんて何にもないけど。

藤田嗣治 「アッツ島玉砕」※This is mediaホームページより転載

中途半端かもしれませんが、少し長くなりそうなので、今回はここまでにします。
次回は野見山さんが戦争の現地で感じたこと、そしてあまり知られていませんが(知られる必要もないのかもしれませんが)、皆さんは「無言館」をご存じでしょうか…ここは長野県上田市にある戦没画学生の絵が展示されている日本で唯一の美術館です。このあたりについて記載をしていきたいと思います。

これを書きながら今も昔も人間の愚かさというのは変わっていないような気もしていますが、懲りずに書いていきたいと思います。(悪魔の魚と言われながらもたこ焼きをもぐもぐできる時代が実は一番幸せなのかもしれません。)
引き続きよろしくお願いします。

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