100年を生きる画家、野見山暁治 人はどこまでいけるか ②

アートな人

こんにちは、マウスです。
梅が咲き、だんだんと春の訪れを感じられる季節になってきました。
一方で北海道はまだ雪が降っているようです。日本は四季の国といえど北と南でずいぶん気候が違うのだなあと自然の神秘を感じます。

自然の神秘といえば、先日テレビで九寨溝(中国四川省)の映像が流れていました。
世界遺産や観光にはそこまで詳しくないのですが、このエメラルドブルーに輝く湖を見て、ブラウン管を通してでもこんなに綺麗なのだから、直接目にしたらどんなに綺麗だろうなと思いました。早く気軽に海外に行ける時代になってほしいものですね。

※(株)HISホームページより転載 https://www.his-j.com/tyo/zekkei/kyusaikou/

九寨溝…何よりもまずこんな中国の山奥で人間がこれを発見したことに驚きを感じますね。
蛇足かもしれませんが念のためお伝えしておくと、ここは中国というよりチベット自治区です。
中国とチベットの関係は長くなるので割愛しますが、九寨溝のような素晴らしい風景は世界共通のものとして大切に残していきたいものですね。

さて、前回2/27のブログで野見山暁治さんのご紹介をはじめたところでしたがだいぶ間隔が空いてしまいました。では早速、炭鉱で幼少期を過ごした野見山少年、その後どのように100年を生きる画家となっていったのかその続きをはじめたいと思います。

私自身もこれまで様々な習い事をしてきましたし(そのおかげで一介の文章がかけるようになりましたが…)、また子育てしている関係で教育や人の成長について考える機会が多くあります。
いろんな方と話をする中でやはり先生との出会いというのは非常に大切なもので、子供達にとって一期一会、特別な縁だと感じます。

今回、野見山少年がプロの画家になるにあたって出会った先生の名前と彼らの野見山少年に対する絵の指導方法について端的に記したいと思います。

①今中利身先生…好きなように描け、絵は対等。
②鳥飼竜海先生…絵は省略の方法なり。
③小林萬吾…石膏の重さを描いている。

恐らくこの方々がいなかったらいまの野見山暁治という偉大な画家は誕生しなかったであろう、人生の岐路で出会った先生達を順に並べました。

では、まず①から。(100年近く前ですから…「先生」という存在は当時その地域を代表するようなとぉーっても偉い方という前提で聞いていただけるとイメージしやすいかも)

小学5年生で水彩画から描き始めた野見山少年、その最初の大きな出会いは小学校6年生の時のクラス担任でした。この担任の先生、本当は絵描きになりたかったらしいのですが、師範学校を出ると優先的に故郷の近くに学校に勤められたそうです。それが①の野見山少年にとって「絵は面白いもの」という原点をつくってくれた今中先生です。

今中先生は、やはり時代は100年前ですから、本当は絵描きになりたいという夢を持ちながらも、代々炭鉱近くの山持ちだったらしく、絵はうまくても長男だからゆくゆく家を継がなきゃならないという理由で近くの小学校に赴任していたようです。

当時を振り返って、野見山少年は、「ぼくよりうまいのは周りに何人もいたし、自分に才能があるとは思わなかった。」(野見山 暁治著「のこす言葉 ひとはどこまでいけるか」平凡社 2018年)と述べています。

今中先生は、細かく描くのが好きな先生で、生徒を校庭に連れ出しては、葉はみんな同じ緑じゃないよ、陽のあたるところと陰になっているところでは色が違う、そういうのを描き分けていかないと木のもつ厚みは出ない、というような教え方をしていたそうです。

一方で野見山少年。そんな今中先生の横で一色でばーっと塗っていたそう。それを横で見ながら「絵に強さが出ているからお前は私の言うことは聞かなくていい。好きなように描きなさい、これは対等なの」と言ってくれたそうです。

もちろんそう言わせた野見山少年ののびやかな絵もあったのでしょうが、今中先生のそれを見抜く力、自分とは違う考え・手法であっても柔軟に受け入れ、それを伸ばそうとするやり方はむしろ現代にも通ずる素晴らしい指導力だと感じます。

この時のことを野見山さんは以下の通り振り返っています。
・このときぼくは、ほかの勉強ができなかった劣等感から救われたんです。数学も体育もなんにもだめで、妹がつけたあだ名は「低脳」。うちのなかではそう呼ばれてましたから。(野見山 暁治著「のこす言葉 ひとはどこまでいけるか」平凡社2018年)

「絵は楽しい」ー100年経ってもそれをやり続けられている野見山さんの原点には、それを身体で理解させてくれた今中先生の素晴らしい指導力があったことは言うまでもありません。

②の鳥飼先生も野見山少年にとって人生の指南となった人物です。
この方は野見山少年が中学校の美術部で出会った顧問の先生です。
今中先生からは少し専門性が増したせいか最初はなにを言っているのかさっぱり分からなかったと当時を振り返っています。鳥飼先生はこんなことを言っていたそうです。

自然とはすべてが調和して成り立っている。よーく見なさい。物ごとの調和が一つの世界をつくっている。一つの美しい風景、これが調和です。
「窓から街が見えるだろう、家があって、道の向こうにまた屋根瓦の家が見える、その向こうに山があって…そんなものが一枚の絵の中に入ると思うか?…君たちはそれらをみんな一枚の絵の中に入れようとしている。でも道やセメントの家や、あんなに距離があるものが一枚の絵の中に入るわけがない。入るわけがないのに入れなきゃいけない。どうやったらそれができるか…それが絵だよ。やりかたは自分で考えなさい。」

いかがでしょう。絵をかじっている方にとっては鳥飼先生が何を言いたいのかなんとなく分かるかもしれませんね。「好きに描け」とはまた違う教え方に野見山少年も最初は戸惑ったのは容易に想像がつきます。

そのヒントになったのが学校の講堂に飾られてあった三文字くらいの書だったそう。
それを鳥飼先生と見ながら
「字は気品であり、力だ。二、三文字ぐらいでも欄間全体にぐわっと広がっていくだけの、外へはみだそうとするくらの力を持っているか。大きく書いていなくても紙が狭いと思えるぐらいの字もあれば、何にも働きかけていない、紙を支配していない字もある。」と語ったと伝記には載っています。

「ものがここに『ある』ことをどう表現したらいいか。図形を描いているんじゃない、絵を描いてる。力強く『ここにある』ことを示す」

100年後の今にも通ずる野見山暁治の画風を決定づけたと言っても過言ではないかもしれません。

後に回顧録で野見山さんはこう語っています。
・美大の受験が近づいてくると鳥飼先生は「絵は省略の方法なり」という中国の偉い絵描きの言葉を教えてくれた。距離から、重さから、それらを絵の中に入れるには、どのように省略すればいいのか。方法は自分で考えろと。それから折あるごとに「ああ、省略とはこのことか」と気づいていった。自分なりの省略の方法を見つけ出していくことが絵を描くことーこの発見はとても大きかった。(野見山 暁治著「のこす言葉 ひとはどこまでいけるか」平凡社2018年)

この鳥飼先生、実は絵の描き方だけではなくて、当時美大受験に反対していた例の炭鉱経営者の怖い野見山さんのお父さんのもとへ行って、受験を説得してくれたというエピソードが残っています。
当然ですよね、当時はまだ世襲が残っていた時代。後継の一家の長男が「画家(というものになるかも分からないような職)を目指すため東京にいきたい」と言うのですから。

また、鳥飼先生はお寺のお坊さんも兼任していたようで、日本画しか習っていなかったそう。
美術学校の油画科に入るには木炭での石膏デッサンが試験として課されています。(おそらく今でも)
野見山少年も数週間日本画を試してみたものの、経験者なら分かる通り、油彩画と日本画は水と油のように似て非なるもので、向き不向きが如実に表れます。

野見山さんのようにいまここにあるものを力強く描くということに関しては日本画だと確かに不向きだったかもしれません。そんな中でも鳥飼先生は必死に見よう見まねで石膏デッサンの描き方を自らも学び、教えてくれたそうです。

今中先生と鳥飼先生、劣等生と自称していた野見山少年をこんなにも熱意をもって教えてくれた人がいたこと、心温まる話です。ちなみに野見山さんは100年後のいまでもこの2人の墓参りのために毎年欠かさず故郷の飯塚に帰省し、手を合わせているそうです。

最後は③の小林萬吾先生です。
この方は野見山さんをいわゆる画家の玉子として見出した人物です。美術学校(現:東京藝術大学)で教鞭をふるう傍ら、同舟舎という画塾をひらいていました。
※画家としても有名ですからご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。

当時は今のように画家となるための絵が学べる学校は多くありませんでしたから、そのような生徒たちはこぞって美術学校(現:東京芸術大学)を目指していた時代です。

このときの回顧録によると、地元で鳥飼先生と日夜石膏デッサンの勉強に励んでいた頃、たまたま黒田清輝の弟子が絵を売りに里帰りをしていたそうで、その方が中学校にきて「美術学校に入りたいなら、美術学校の先生がやっている塾に入って勉強しないと外からじゃ無理だよ」と紹介状を持たせてくれたそうです。
(ここでも野見山さんの強運というか、様々なフィールドの一線で活躍されている方々にはやはりこのような偶然の出会いというものがあるのだなあと調べながら執筆者の私自身も感嘆させられました。)

おそらく、当時の炭鉱はまだまだ活況さが残っていた時代ですから、炭鉱経営者や海っぱたの網元にはお金持ちがいて、床の間に飾る掛け軸、布袋さんの飾り物など、絵や骨董品を売りにくる人が多くいたのでしょう。

ちなみに当時の美術学校も大変狭き門で、6人に1人くらしか合格しないものだったそうです。
今と同じで受験生には浪人が多く、五浪、六浪、なかには八浪でやっと受かるような生徒も。

当時の美術学校の先生は大御所4人。 ※()内は出身地
・藤島武二(鹿児島)
・岡田三郎助(佐賀)
・小林萬吾(香川)
・南薫造(広島)

このうち南薫造を除く3人が美術学校を目指す生徒を集める私塾をもっていました。
いずれも当時の画壇/美術教育におけるトップオブトップ、雲の上の人だったと、野見山さんは回顧しています。
(…いや、それより何より100年も生きているとこのような歴史上の人物とも直接話したことあるってのが驚きですね)この4人のうち半数が九州出身、4人全員が西日本地域出身であったことは、上京して右も左も分からない野見山少年にとってもしかしたら大きな幸運だったのかもしれません。

では、小林先生の同舟舎ではどのような教育がなされていたのか。
野見山さんの回顧録をみると以下のように綴られています。

・あと1週間で入試という段になって、仕上がったデッサンを提出させられたのを見ると、皆、木炭の使い方がうまい。〜(中略)〜並べてみると、ぼくだけ異質な描き方をしている。それを見た助手が「君は生まれてはじめて石膏を描いたのか?」と言った。あんなに練習してきたのに…と情けなくなりました。成績順に並べられたところで小林先生が入ってきて「ここまでは通る」「ここまでは頑張れよ、来年通るから。しっかり描けよ」と順に見ていく。あるところから先は「ま、続けることだな」と…。
で、ここが肝心なところだけど、最後のほうになって、ぼくのデッサンのところにくると、じーっと見てるんだ。「誰に教わった?」と聞くから「鳥飼先生です」と。「知らんな」、そりゃそうだろう。ふーんと唸ってまたじっと見ている。どきどきしました。
すると小林先生から「みんな、よく見なさい。今年通ると言った絵は立体感が出ている。だけど、石膏の重さを描いたのはこれだけだ」と言ったんです。
そうかおれは石膏の重さを描いていたんだ…
「名前は?」「どんな字を書く?」としつこく聞かれました。
後で考えると、あのとき、ぼくを入れようと思ったんだね。人生の分かれ道でした。
※野見山 暁治著「のこす言葉 ひとはどこまでいけるか」平凡社2018年

一流は一流を見抜く。
まさにこれを表しているような出来事ですね。
野見山暁治、稀代の油彩画家はこれまた稀代の油彩画家、小林萬吾に見出されて日本画壇のトップにさっそうと駆け上がっていく…かに見えました。

ここまで絵が楽しいという一心で努力をし実力をつけ、そしてそれを理解してくれる数々の先生達との出会いとそこに至るまでの強運に恵まれてきた野見山少年でしたが、時代の荒波には逆らえません。

そう、第二次世界大戦です。

次回は80年経とうとしている今なおその影響を現代の日本に色濃く残している先の戦争と、野見山暁治さんはじめ多くの画家の視点を通じてそれを振り返りたいと考えています。

本ブログが読者の皆さんの何か生活のヒントになれば幸いです。
これからもどうぞよろしくお願い致します。

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