文化勲章受章をきっかけに設立、慶應を中退し画家を目指した異色の経歴 長野:小山敬三美術館

長野県

こんにちは、マウスです。
現在は長野県の美術館紹介をしています。(今日で何館目だろう…それくらい豊富に点在しています)

今日から数館は作家個人のために建てられた美術館をご紹介します。実は長野県、そんな個人名が冠に入った美術館が多いことでも有名です。今日ご紹介する方も78歳のときに文化勲章を受章、故郷の小諸市に代表作を寄贈したことがきっかけで美術館設立の運びとなりました。それでは早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

小山敬三美術館

・開館:1975年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市、観光協会HPより転載)

・場所
小諸市立小山敬三美術館 – Google マップ

文化勲章受章をきっかけに設立、慶應を中退し画家を目指した異色の経歴

・小諸市出身で文化勲章受章、小諸市名誉市民である洋画家:小山敬三氏が1975年に美術館を建設、作品と共に小諸市に寄贈したもの。小山氏の代表作品、浅間山、城シリーズ、さらに肖像画をはじめとした、油彩、水彩、デッサン画など素晴らしい作品を展示。また建物も建築界で文化勲章を受章した村野藤吾氏の設計によるもので、絵画・建物・眺望の集合美を備えた美術館です。

小山敬三とは

・小山久左衛門の三男として小諸に生まれ、上田中学まで小諸で育ち、慶応義塾大学に入学のため故郷小諸を離れる。その後芸術家への道を志し川端画学校で藤島武二に師事。

大正7(1918)年、二科展に初入選。父と親交のあった島崎藤村のすすめもあってフランスで油絵を研鑽(大正9年~大正17年)、シャルル・ゲランに師事、サロン・ドートンヌ会員となる。大正14(1925)年、春陽会会員。昭和3(1928)年、帰国。

昭和8(1933)年。二科会会員となるが、昭和11(1936)年離脱、有島生馬らと一水会を結成。昭和12〜13年、再渡仏。戦後は一水会、日展に出品。昭和34(1959)年、日本芸術院賞受賞、翌年、日本芸術院会員。昭和50(1975)年、文化勲章受章。同年小諸市に個人美術館を建設、同市に寄贈。

新高輪プリンスホテル壁面に、一水会展に出品した「紅浅間」を制作、4.5m×12mの大壁画を完成させた。最晩年に私財を投じて小山敬三美術振興財団を設立、小山敬三記念賞などもうける。代表作は「浅間山」「白鷺城」の連作。著書に「来し方の記」、訳書にヴォラール「画商の想い出」など。

 

→やはり1975年の文化勲章受章がハイライトでしょうか。ただし、タイトルに「慶應を中退し画家を目指した」としたのはそれくらいの覚悟だったということが伝えたかったためです。実は私も1浪し予備校に通いましたが、慶應に行きたい学生さんは山のようにいるわけです。(実際行けるかは成績次第ですが…)
そんな一般人がやっと入学できるところをいとも簡単に(実際は簡単ではなかったのでしょうが)辞めて、最終的に文化勲章を受章するわけですから、有言実行、何ともかっこいい人生だなと感じました。

→このエピソードを聞いて、熊谷守一つけち記念館を思い出しました。熊谷守一さんも慶應を辞めて、こちらは東京美術学校へ再入学された方でした(しかも熊谷さんは文化勲章まで辞退されています…)。一方で小山敬三さんは「父と親交のあった島崎藤村のすすめもあって~」とあるので、ある程度父親も理解を示してくれていたのかもしれませんね。いずれにしろお2人とも若い時分に思い悩んで人生の岐路を選択するタイミングが訪れたようです。皆さんもそんな視点でこれら作品を眺めてみてもいいかもしれません。

主な収蔵作品



小山敬三アトリエ

・実は本館は、故小山敬三画伯(1897~1987)が1929年に神奈川県茅ヶ崎市の海岸近くに建てたアトリエ兼住居の一部を、小山敬三美術館の隣に移築したものです。この家は、1987年に画伯が89歳で亡くなるまで使われ、遺愛の画材や未完成の作品などを含め全体で約300点の美術品や調度品が画伯生前の状態で保存されています。

画家のアトリエを移設しそのまま美術館にしたものは案外初めてかもしれません。(…後で調べておこう)
皆さん足を運んだ際はそんな作品だけでなく建物も存分に楽しんでいただけたらと思います。案外画家のアトリエって個性が出ていて楽しいですよ。おすすめです。(美術館の後、全国の画家のアトリエ紹介してみようかな…)

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