アートはどこからきてどこへむかうのかー10万年前の地球から辿るアートの軌跡 前編

アートの本

こんにちは。マウスです。
寒くなってきましたね。寒くなると色んなニュースで流れてくるのが「寒中水泳」…読者の中にも試みたことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。

※時事通信HP「JIJI.com」より転載

これ、毎年冬になってくると思うのですが、この寒中水泳こそまさしくいま求められているアートの姿かもしれませんね。

本ブログのテーマにもなっていますが、いまの社会には合理的に考えても解決しない課題が山積しています。合理性よりもむしろ非合理な部分(感情だったり、センスだったり、イノベーションと言われるものもそうですね)が重宝される時代となってきています。

寒中水泳、おそらく医療関係者があれを見て推薦する人は1人もいないんじゃないかと思います。(体温を極端に下げ、心臓疾患的にも相当な負荷が高い、もちろん海での実施は筋肉硬直による溺死のリスクもあり…)

ただ、「寒中水泳」でググってみれば分かるかと思いますが、どの写真も笑顔でとても楽しそうなものばかりです。
合理的に考えれば、こんなにリスクが高く、寒い日にわざわざ寒いことをするという馬鹿げた催しにも関わらず、人々がこんなにも幸せそうなのは何故なのでしょうか。

ここに人間の幸せって何かというのを解き明かすヒントが隠されてるんじゃないかと私なんかは考えています。

非合理で笑顔で楽しげ…と言えばもう1つ。
私の4歳になる子供。
いちごミルク好きなんですけど、先日「いちごミルクのいちごだけ残して飲んで」とグラスを手渡されました。…「いちごミルクのミルク抜き」ってやつですね。
(写真はイメージ)

※採りたて野菜で作る簡単レシピより転載
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どうするかはさておき、やっぱりこういう枠にとらわれない柔軟な発想(?)って少し羨ましくもありますよね。

さて、これまで私のブログでは展覧会を中心に、アーティストやそれに関わる人たちの考え方をもとに執筆してきました。
今回のブログは少し趣向を変えて、どちらかというとアートの本質的な部分、「アートはどうやって生まれたか」というお話、そしてそのような難題に挑んだ一冊の書籍「ナショナルジオグラフィック2015年1月号」をご紹介したいと考えています。

少し古い冊子ではありますが、いまだ色褪せない、アートの真相に迫った名著だと感じています。
表紙の「人類はいつアートを発明したか?」というタイトルはなかなかセンセーショナルな言葉ですが、それに見合うだけの取材量と作品写真が掲載されています。7年ほど前の冊子ですので、もう買えるかはわかりませんが…一応AmazonのURL載せておきます。

NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2015年 1月号 [雑誌]

 

以前、バンクシーの話をブログに載せたときに、このアートのはじまりについて触れることはとても難しいことだという話をしました。

繰り返しになりますが、その理由は、これらからお見せする作品群が人間の根源的な欲求(「何か表現したい、自分を認めてほしい」)に端を発している0→1作品であり、バンクシーなどの1→100現代アート作品とは随分と性質が違うものだと言えるからです。

0→1のアート作品を書くよりも、1→100、100→10000のアート作品を書く方が、元々の1や100というベースを基準に書くことができるので圧倒的に簡単なのです。

では、今回なぜそのような0→1作品を書こうと思ったのか。

それは、単純にそんな分野にチャレンジしてみたいという執筆者精神ももちろんありますが、一番はこれから読者の皆さんが日々社会に点在しているアートを身近に感じ、それを拾い集める上で、その一番根源的な部分をなるべく早く読者の皆さんに知っていただくことが有意義だと感じているからです。
(現実より理想をとったという感じですw)

前置きが長くなりましたので、本日のブログでご紹介したいアート作品をいくつか載せてみたいと思います。(写真は全てナショナルジオグラフィックからの抜粋になります)

※36,000年前 仏ショーべ洞窟にて


※40,000年前 独ホーレンシュタイン=シュターデル洞窟 半獣半人像

…いかがでしょうか。どれも2〜4万年前、保存状態に左右されますが、ものによっては10万年近く前と推定されているものもあります。
これを見て、皆さんはどう感じられるでしょうか。

現代人と異なり野蛮で、未開な表現だと思えるでしょうか?

私は日本の縄文時代(1万年前頃)の火焔型土器を見ても思うのですが、古代の人たちは現代にはない感覚で随分クリエイティブなものを作っていたんだなあと感じます。

※十日町市博物館収蔵 にいがた観光ナビより転載 https://niigata-kankou.or.jp/blog/250

逆にいうと、こういう古代に作られたものが本家本元で、それ以降のアートはすべてそれを模倣したものだと言う人までいるかもしれませんね。

このようなアートの誕生については、その起源を遺伝子の違いによるものとする説など諸説ありますが、今回ブログでご紹介する「ナショナルジオグラフィック2015年1月号」では、それを「人口密度」に起因するものだという言説を展開しています。

それは、人口密度が高くなると集団間の接触が盛んになり、斬新な発想が共有されて「集合脳」とでもいうべき知性のまとまりが誕生する、そしてそのような集合脳を維持するためには象徴や記号をアートとして発信していくことが必要だったと本著では述べています。

逆に人口が減少し、あるレベルを下回ると、集団同士の交流がなくなり、新しい発想が広がらず、それまで培われた成果もすたれて消えていったということです。

これを裏付けるものとして、遺伝子学的にも10万年前のアフリカで人口が爆発的に拡大したことが確認されており、また、カナダのブリティッシュコロンビア大学の研究でも、人口の増加が革新を促すことが統計的に証明されているそうです。

また、4万3千年前のドイツにおいて、移住生活をしていた民族が、定住生活に移行した途端に、マンモスの牙から写実的な動物の彫像を作るというアート活動が誕生したことも本著で触れられています。

つまりまとめると
・人口が多いエリアにおいて、定住を拠としたときに、アートが生まれる

という構図です。
これは逆に言えば、人口が維持でき、移住する必要がないほど「安定した気候や作物が得られる環境」だということができると思います。

これを現代になおすといかがでしょうか。
確かに、一部の奇才を除いてアートは恵まれた環境下で花開くことが多いのかもしれませんね。
つまりアート活動が発達しているエリアは、そこに住む各々にとって斬新な発想が共有され、その「集合脳」とでもいうべき知性のまとまりを持つ集団といえるのかもしれません。

ただし、私も手放しで本著を絶賛するわけではなく、少しひっかかっている部分もあります。
それは古代におけるこのようなアートがあえて人目につきづらい洞窟に偏在していることが多いこと(もちろん洞窟が保存に適していたということもあるでしょうが)、また、インターネット普及以降は一言に人口密度と言っても、メディアリテラシーの多少による影響を無視できないではないかという仮説です。(人口が少なくても情報通信が発達しているエリアでは、集団間の接触が盛んにおこなわれるため集合脳が誕生しやすいと言えるからです。)

特に後者については、このコロナ禍でも読者の方の興味を深いのではないかと思います。

ーでは、この2022年現代においては、どのような環境下であれば、集合脳と言える知性やその成果であるアートが誕生しやすいのかー

このあたりについて、後編では私なりの見解を示していきたいと思います。
少し固い文章になってしまいましたが(ほんとはアートの誕生なんてもっと気軽で面白おかしいものなのかもしれませんが…)、これは私の方でも色々と勉強しながら進めないといけないと感じていますので、少々お時間をいただくかもしれません。

ここまで拝読いただきありがとうございました。
引き続き本ブログ「絵本と、アートと。」をよろしくお願い致します。

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