大阪に貢献するため、中之島にて、ひと・こと・ものが、歩みを共にする空間 大阪中之島美術館

大阪府

こんにちは。さて、今日は前回からの続き、と言ってもいいでしょう。
天王寺にある大阪市立美術館の開館から数えて85年、大阪に新しい美術館がオープンしました。1988年から足かけ30年かかりました。その経緯、背景については前回述べたとおりです。紆余曲折ありましたがこうやって新しくオープンしたのですから、これからは大阪を代表するような特色ある美術館として市民に愛されてほしいですね。そんな美術館、それでは早速。

このブログで紹介する美術館

大阪中之島美術館

・開館:2022年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、市観光協会より転載)

・場所
大阪中之島美術館 – Google マップ

大阪に貢献するため、中之島にて、ひと・こと・ものが、歩みを共にする空間

・大阪市北区中之島にある美術館。19世紀後半から21世紀の現代までの近代美術・現代美術を収集・保管・展示。古代美術・東洋美術コレクションのほかに、19世紀以降の近代美術・現代美術のコレクションを所蔵。

美術館のコンセプト

歴史をつなぎ、未来を創造する

・美術館の基本を「いま」に結び、「これまでにない」をめざす
(19世紀後半から現代までの美術とデザインを専門とし、収集・保存、調査・研究、展示・公開・普及という美術館の本格的機能を果たすとどもに、既存の枠にとらわれない大阪の進取の精神にならい、新しい創造活動を発掘し、支える。)

情報や知識、発見や感動の循環をうながす

・美術館の扉を開くだけに留まらない。さらに先へ、進みひらいていく
(誰でも気軽に立ち寄ることができる「パッサージュ(遊歩空間)」を中心に、魅力的な「場」として、知識や経験が交わる「機会」を生み出す美術館として、情報・人的資源の芽を育み、社会へと送り出し、その循環と活用を促進する。)

つながりを原動力とする

・「足りないこと」を可能性としてとらえ、手をとり合う相手を探す
(多様な第三者との連携によって機能や事業の発展を図る「協働する美術館」、市民と共に学び合う「共育する美術館」として、大阪・中之島をはじめ、さまざまなコミュニティの一員として社会と共に変化し続ける。)

大阪に貢献する

・大阪の「これまで」を活かし、世界に「これから」を発信し、中之島にて、ひと・こと・ものが、歩みを共にする
(大阪の歴史が培ってきた文化的土壌に根を下ろし地域文化を育み、中之島の芸術文化ゾーンの中心的かつ大阪の新しいシンボルとなる美術館として、大阪から全国へ、また世界に向けて、人々の心を動かす創造力を発信する。)

→一番最後のコンセプトが本館の特長だと感じましたので今回のブログタイトルにしました。「大阪に貢献する」…なかなか深いです。

主なコレクション

・19世紀後半から今日に至る日本と海外の代表的な美術作品を核としながら、地元大阪で繰り広げられた芸術活動にも目を向け、4900点を超えるご寄贈作品と購入作品をあわせた6000点超のコレクションを所蔵。(2021年4月現在、寄託品を除く)。

コレクションは、洋画、日本画、海外の近代絵画、現代美術、版画、写真、彫刻、デザインなどの領域にわたり、とりわけ佐伯祐三の名作、モディリアーニの裸婦像、具体美術協会のリーダー・吉原治良の作品、海外作家の代表作などは、国内外で高く評価。2012年にはサントリーポスターコレクション(約18000点)が寄託品として加わることで、すでに収集している家具や食器などとともに世界有数のデザインコレクションを形成。

佐伯祐三

・北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)から東京美術学校(現・東京藝術大学)へ進み、卒業後フランスへ渡るも、30歳の若さで病没。佐伯芸術の真価を最初に見いだしたのは、大阪の実業家で美術コレクター・山本發次郎だったそうです。戦災を免れた収集品のうち、代表作を含む33点が1983年にご遺族から大阪市へ寄贈。その後の購入と寄贈により、現在では約60点の佐伯作品を所蔵。
   

大阪と関わりのある近代・現代美術

・大阪は、小出楢重や赤松麟作、北野恒富や木谷千種などの芸術家が豊かに活動し、優れた作品を残した土地で、戦後日本を代表する芸術運動の一つである「具体美術協会」(具体)の活動拠点であった「グタイピナコテカ」もかつて中之島に所在。コレクションには「具体」のリーダー・吉原治良と会員の作品が多数含まれるとともに、大阪や関西を拠点とする優れたアーティストや、国際的に活躍する日本の現代作家の作品も重要なコレクションとなっています。
<島成園>

<北野恒富>

<木谷千種>

<村上華岳>

<小出楢重>

<国枝金三>

<赤松麟作>

<田中敦子>

<白髪一雄>

<吉原治良>

近代・現代美術の代表的作品

・西洋近代美術では、モディリアーニの裸婦像、パスキン、キスリング、ブランクーシなど、エコール・ド・パリなどのコレクションを収蔵。また、野獣派、キュビスム、ダダ、シュルレアリスム、未来派、構成主義など、20世紀前半にヨーロッパを中心に展開した前衛的な芸術潮流を語る作家の代表作を所蔵しています。日本の近代美術では、岸田劉生や福田平八郎など、明治から昭和の時代に活躍した芸術家の作品と、第二次世界大戦から今日に至る代表的な日本人作家に加え、アメリカの抽象表現主義やミニマル・アート、ヨーロッパから国際的な広がりを見せたアンフォルメル、アルテ・ポーヴェラをはじめ、個性的な創作で時代を築いた海外作家の作品などを所蔵。
<ジョルジオ・デ・キリコ>

<キスリング>

<サルバドール・ダリ>

<アメデオ・モディリアーニ>

<ウンベルト・ボッチョーニ>

<マリー・ローランサン>

<ルネ・マグリット>

<福田平八郎>

<小磯良平>

<岸田劉生>

<石崎光瑤>

<森村泰昌>

<フランク・ステラ>

<ジャン=ミシェル・バスキア>

<アルベルト・ジャコメッティ>

大阪と関わりのある近代・現代デザイン

・大阪北区野田(現在の福島区)に生まれたグラフィックデザイナー:早川良雄(1917–2009)の作品を収蔵。大阪三越の装飾部、大阪市文化課を経て、戦後は近鉄百貨店宣伝部に所属。大阪で独立後、東京事務所を開設、活動拠点を完全に東京に移します。カロン洋裁研究所や近鉄百貨店の秀彩会のポスターをはじめ、代表する作品の数々を所蔵。
  

近代・現代デザインの代表的作品

・19世紀後半のアーツ・アンド・クラフツ運動から、アール・ヌーヴォー、20世紀のウィーン工房、デ・スティル、バウハウス、北欧のアアルトなど、西洋近代の芸術思潮と相まって地域的な広がりを見せたモダンデザインの流れを示す作品を所蔵。2012年には、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやアルフォンス・ミュシャなどの貴重な作品を含むサントリーポスターコレクション(約18000点)が寄託、世界と日本のグラフィックデザインの優れた作品群が加わりました。
<アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック>

<アルフォンス・ミュシャ>

<チャールズ・レニー・マッキントッシュ>

<コロマン・モーザー>

<ヘリット・リートフェルト>

<倉俣史朗>

(付録)中之島の歴史

・最後に多くの美術館が集まる大阪:中之島の歴史を振り返ってみましょう。(そういえば、前にもこういう川の三角地帯にある美術館をご紹介した気が…(新潟県立万代島美術館石ノ森萬画館を参照)人は川と川に挟まれた場所にアイデンティティを感じるのでしょうか…。(以下はインターネット情報からの抜粋です)
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・中之島の開発は大坂の陣後、大坂屈指の豪商、淀屋(淀屋常安)によって1615年(元和元年)に開始。淀川(現:旧淀川)本流の中洲であることに加えて、大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島には諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担う。米市は淀屋橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島川を挟んだ堂島へ移り、1730年に米の中央市場である堂島米市場が設置。

明治になると、諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心としての役割だけでなく、国の重要文化財の大阪府立中之島図書館や大阪市中央公会堂(中之島公会堂)等の文化施設や大阪帝国大学(現:大阪大学)をはじめとする学校や病院が市民の寄付などで建設、近代商都大阪においては情報と文化の発信地となった。
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…ずいぶんとあっさりしていますよね。もっと中之島の歴史について文献はないのかと探してみましたが…難儀でした。。誰か年表などここだよ、と教えてくれる方がいらっしゃれば後日書き加えたいと思います。とりあえず、江戸初期の豪商:淀屋常安が開発をしたというのはわかりました。

※ 江戸初期の大坂の豪商。豊臣秀吉が明の使節を謁見するため、完成を急いだ伏見城の築城工事に参入し、散在する巨石処分を格安で請け負い、大穴を掘って巨石を埋めるという奇策で名を上げる。さらに秀吉が進めた巨椋池改修、宇治川の付け替え、太閤堤の築堤、伏見港の整備など大がかりな淀川の洪水対策を手がけた。

 常安は山城国岡本荘の出身。慶長伏見大地震(1596年)のあと、桂川、宇治川、木津川の合流点の淀津から大坂の十三人町(大阪市中央区北浜4丁目)に移り、「淀屋」と称して吉野杉や木曽檜を扱う材木商を開いた。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣では、徳川方に付き、得意の土木技術で家康の茶臼山本陣、秀忠の岡山本陣をつくった。大坂城落城後は、戦場の処理を手がけ、鎧や兜、刀剣などの処分を引き受け、莫大な富を手にした。

 徳川の天下統一後、家康は常安を召し出し、冬の陣、夏の陣への功によって苗字帯刀と岡本三郎右衛門と名乗ることを許した。そのうえ山城八幡の山林300石を与え、八幡の侍格に取り立てた。さらに家康から望みのものはないかと問われ、常安は「諸国から大坂に入る干魚の品質に応じて市価を定める独占権と干魚の運上銀(関税類似のもの)を欲しい。米穀の相場を自分一手で立てたい」と願い出て、いずれも許可される。

 常安は土佐堀川の河原で、淀屋の蔵に集まってくる米を店頭に出し、私設の米市場を開いた。そこに仲買人が集まり、米相場が発展することに。次いで幕府に中之島の開拓を出願し、常安請地として整備を進め、元和5年(1619年)に完成。大坂が「天下の台所」として発展する基盤を築いた。

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