歴史を結ぶアートの架け橋ーベネッセアートサイト直島(地中美術館、豊島美術館) 中編

アートな場所

こんにちは、マウスです。
あけましておめでとうございます。

色々なことがあった2021年。
新型コロナ感染も終息が見えたかに思えた矢先、オミクロン株という変異型に晒されることになりました。一難去ってまた一難、なかなか思い通りにはいかないものです。

このブログでは、絵本やアート情報・アーティストの考え方を中心にご紹介することで、読者の皆さんにとって、仕事や私生活における閉塞感の解決や、また、そのようなアート型発想のハウツーとして見ていただけたらと考えています。今回は、先日12/18のブログ前編に続き、ベネッセが本島しょ地域において果たしてきた役割について述べたいと思います。

…という前に、少し雑談を。(雑談しながらじゃないと前に進めない性格…)
前回12/18のブログで牡蠣小屋に行った話を書きましたが、牡蠣を焼きながらぼんやりと炭火を眺めていると、とても心が落ち着くということに今更ながら気づきました。(これって私だけなんですかね?)

「炭火」と言えば、この一節が有名ですよね。

・冬はつとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、また、さらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。(清少納言 枕草子)
[現代語訳]
・冬は早朝がいい。雪が降っている朝は言うまでもない。霜がおりて白くなっている朝も、またそうでなくても、とても寒い朝に火などを急いで起こして、炭を持って運びまわるのも、冬の朝にたいへん似つかわしい。しかし、昼になって寒さがゆるんでくると、火おけの火も白い灰になってしまってよくない。

清少納言が春夏秋冬について読んだ一節ですが、春夏秋冬のうち「美しくないこと」について詠んだのはこの冬の一節だけらしいです。清少納言さん…私も当然会ったことはないのですが、この冬の炭火の美しさについてなんか自分と通ずるものがあって嬉しくなりました。(ちなみに牡蠣小屋で網を持ち上げて炭火を撮影している客は自分だけ、店員さんに変な人認定されたのは言うまでもありません)

私の知る限り、恐らく炭火の美しさについて日本で初めて触れたのは清少納言が初めてです。
「炭火=日本」というイメージはここから全てきてるんじゃないかなって思うくらいの影響力なので、この枕草子でその美しさを内外へ発信した清少納言は現代でいう大変なイノベーターだと言うことができると思います。

ちなみにですが、現代に至る炭焼きの技術をもたらしたのは空海との事。
(参考:The MIDORI Press)https://www.aeon.info/ef/midoripress/jp/japanese/20160329_post_16.html

さすが3ヶ月で阿闍梨になっただけあります。

空海がひらいて清少納言がそれに美意識を吹き込んだ「炭火」、いいですね。

先ほど清少納言が日本美意識のイノベーターと言いましたが、冷静に考えると欧米圏内においても例えば暖炉では木炭が必需品ですし、油彩画の訓練などでよく実施される石膏デッサンも木炭を使って描くので、そもそもこの黒いコロコロした木炭は実は人類文化史においても最大クラスの発見だったのではないかと感じています。

またまた前置きが長くなりましたが、このような歴史あるものに美意識を吹き込むという革新的な出来事を現代において地方の島しょエリアで実施したイノベーターを今回ご紹介したいと思います。

それは「進研ゼミ」でよく知られる総合出版・教育会社「ベネッセコーポレーション」とその創業者、福武哲彦氏と、その子福武總一郎氏、そして香川県直島町において9期36年にわたって町長を務めた三宅親連氏です。

直島と豊島におけるその歴史については前回12/18のブログにて記載しましたが、なぜこのエリアにおいてベネッセという巨大企業がアートを軸に取組みをはじめたのか、実はその詳細はそこまで知られていません。
(WEBで調べてみても「1980年代に福武哲彦と三宅親連が直島を文化的な観光地にしようと意気投合」くらいしか書かれてありません)

そのため、実は直島と豊島が経済と環境という大きな歴史的な背景を抱えている中で、福武氏はじめ関係者がそれについてどのような想いをもって活動をはじめたのかというのは2022年に生きる私たちにとっては推測していくしか方法はありません。

・福武哲彦
・福武總一郎
・三宅親連

…と関係する言葉を並べてみました。当然わからないですよね。

では、このように各々の故郷を記載するといかがでしょうか。

・福武哲彦(岡山県)
・福武總一郎(岡山県)
・三宅親連(香川県)

つまり、直島・豊島という経済と環境の各領域において別々の道をだどってきた島同志と、そしてそれを結びつける原動力となったアートをもたらしたベネッセという企業体の出自は、香川県・岡山県という(行政区画だけ見ると)まったく別の組織体です。

多分、「いや、そうはいっても物理的な距離は近いんだしそんな大したことではないんじゃないか」と考える方もいらっしゃるでしょうが、行政区画が異なれば、美術館建設にしろ、アートの催しを実行するにしろ、事務的な申請作業はそれぞれ別の自治体となるためそのハードルは高くなります。
(前に東京ディズニーランド内で千葉県浦安市の成人式が開催されているニュースを見ましたが、あれを「東京」だからという理由で例えば隣の東京都江戸川区の住人にも開放するとなったら、恐らく東京・千葉両方に許認可手続きが必要となるため労力は2倍になるとかいうそんなイメージです)

では、そんな中、当時の町長であった三宅親連氏が岡山の文化・経済的な象徴になりつつあったベネッセを受け入れ、また逆に福武氏がそのような高いハードルがあったとは言え隣県香川のために尽力しようと心を決めた理由は何だったのでしょうか。

これは私の推測になりますが、それは分裂した島しょエリアや地方において過疎化が進む「故郷(の景色)」を愛する気持ちにあったのではないかと感じています。
なぜなら、私設美術館においては、その企業や個人が収集したコレクションを展示するという合理的な目的に沿って建てられたものが多い中で、ベネッセが島しょ地域で主催するアート展示はその地域性を生かしたものが多く、必ずしもコレクション展の枠組みに収まるようなものばかりではないからです。それは合理性よりもむしろ、故郷をより良くしていきたいという感情に根差した活動のようにも受け取れます。

私も何度か引っ越しを経験したことありますが、以前の家の前の近くを通るとき、その時の思い出が走馬灯のように思い出されて胸がキューっとなることがあります。これに似たようなことが直島、豊島などこのエリアを巡ると感じられるのです。(これは上述の『炭の美』と違って結構皆さんも共感してくれるのでは…)

恐らく皆さんの中にも、良い思い出が残っている場所はまたあの時に戻りたいという想いが、逆に悪い思い出が残っている場所はなんとなく複雑な心境、人によってはまたここに住んで次は良いイメージへ記憶を更新したいという想いになる人もいるんじゃないかと思います。

ここで前回のブログを再度振り返ってもらえればと思いますが、三宅親連氏が生まれたのが1908年、福武哲彦氏が生まれたのが1915年、そして福武總一郎氏が生まれたのが1945年です。

そこにベネッセでアート活動が最初にはじまった年、1989年を置いてみると、直島が三菱鉱山によって経済的な発展をしてきた一方で豊島が産廃問題で揺れ動かされてきた歴史と見事に一致します。

これはあくまで私の憶測ですが、三宅親連氏は直島の代表としてその発展を見届けてきた一方で、最終的には豊島の悲劇を目の当たりにし、同じ香川という島しょエリアで発生した格差について悩み、昔のように島しょの人たちが手をとりあって共生していける道を考えていたのかもしれません。

またベネッセはじめとする福武哲彦・總一郎親子も同様に岡山・香川にまたがるその島しょエリアの景色に魅了され、何度も心救われた人の1人なのかもしれません。

当時の教育事情を鑑みると、岡山師範学校を卒業した福武哲彦氏は岡山・香川に限らず、その地域全体の教育普及を考える立場であったことは想像に難しくありません。(最終的には「進研ゼミ」という形で全国的な教育活動として発展していくことになります)
また、總一郎氏もその子として早稲田大学へ進学し、父の事業を継ぐ中でその想いを受け継いでいったことでしょう。

よく、人間のアイデンティティは幼少時代に過ごした街の景色や記念碑的な建造物に影響を受けることが多くあると言います。もしかすると彼らもその責任感と重圧の中で島しょエリアの景色に心動かされることも少なくなかったのかもしれませんね。

福武哲彦氏は同じ同郷の国吉康雄作品を収集していたことからも岡山やそのエリアの風土や景色をベースに励んでいる人たちを応援していたことが伺えます。

※国吉康雄『通りの向こう側』ー福武文化振興財団より転載 https://www.fukutake.or.jp/ec/atoz-column.html

今では、ベネッセアートサイト直島とその周辺の島々で開催されるアートイベントは広く知れ渡ることになりましたが、その根幹には福武・三宅両氏の故郷を想う様々な想いが交錯していたのは間違いないでしょう。

現代においても、地震による熊本城崩壊やサンゴの白化をはじめとする沖縄の海洋環境問題など、その経済的影響を超え、そこに所縁ある人々の心的影響についても多く語られるようになってきています。それは「故郷の景色=自身のアイデンティティ」という不変のテーマに結びつけられるものなのかもしれません。

よく偉大な経営者は私情をはさまないと言いますが、彼らが経営の根幹に置いたのはむしろ逆で、強烈な私情でした。コロナ禍という世界の状況を一変させる現代において、し烈な競合に生き残っていくには、合理性だけで物事を解決することが困難な事象が多く発生してきています。

読者の方の中にも、故郷を離れ、各々の拠点で励んでいらっしゃる方々も多くいると思いますが、福武・三宅両氏のように、合理性ある単なるコレクション展の枠組みに収まらず、故郷の景色を守り、それを飛躍させていくという強烈な私情を軸に経営・活動を展開していく姿勢は、現代においても私たちの生活のヒントになるような示唆に富んでいるのかもしれません。

最後に、2004年に財団法人直島福武美術館財団(後の直島地中美術館)が設立された時の設立趣旨を載せて終わりたいと思います。
[設立趣旨(公益財団法人 福武財団HPより抜粋)]
・世界中の人々がこの瀬戸内海において、いかに自然の素晴らしさを感じ、その中での自らの命を感じ、自然に対して人間が働きかけることで、いかに真なるもの、美しいものを引き出すかを感じる。―― そのための美術館を瀬戸内海につくる。地域の人々と世界の人々とが文化的な交流を図るよう、継続的な企画を行い、瀬戸内海における文化交流の拠点となることを目指す。日本を訪れる海外の方が、都会ではなく瀬戸内海に滞在し、地元の人々とともに美しい環境を共有し、語り合う―― そのような場を瀬戸内海につくる。

いかがだったでしょうか。今回のブログはここまで。
次回はこのエリアで催されたアート作品や美術館のご紹介をしたいと思います。
今回も拝読いただきありがとうございました。
新年最初のブログ、22年も虎のように強くしなやかに過ごしていければと思います。よろしくお願い致します。

(マウス)

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