建物の大半が地下に埋設、自然と人間を考える場所 香川:地中美術館

アートな場所

こんにちは。昨日は豊島美術館をご紹介しました。
豊島美術館、1番好きな美術館とお伝えしましたが、マウス的に日本で2番目に好きな美術館といったらこの地中美術館かもしれません。
ほとんどが地下に埋設されており、その建物の全景は見ることはできませんが、その一方でその中にある作品群が独特の雰囲気を醸し出していると思います。こちらもこのブログを始めた当初、計3回にわたって一度歴史をご紹介しました。(前編中編後編

それではいきましょう。

このブログで紹介するアート施設

地中美術館

・開館:2004年
・美術館外観(以下画像は施設HP、県・観光協会HPより転載)

・場所
地中美術館 – Google マップ

建物の大半が地下に埋設、自然と人間を考える場所

・「自然と人間を考える場所」として、2004年に設立。瀬戸内の美しい景観を損なわないよう建物の大半が地下に埋設され、館内には、クロード・モネ、ジェームズ・タレル、ウォルター・デ・マリアの作品が安藤忠雄設計の建物に恒久設置。地下でありながら自然光が降り注ぎ、一日を通して、また四季を通して作品や空間の表情が刻々と変わります。アーティストと建築家とが互いに構想をぶつけ合いながらつくり上げたこの美術館は、建物全体が巨大なサイトスペシフィック・ワークといえるものだと本館HPでは述べられています。

クロード・モネとは

・フランス印象派の代表的画家。1840年、パリに生まれる。幼いとき一家はル・アーブルに移り,海に親しんで成長する。またカリカチュアを好み,町の名士たちの姿を描いていたところを画家ブーダンに発見され,油彩と戸外制作の手ほどきを受けて風景画家の道を歩むことになる。19歳のとき,親の反対を押し切ってパリに出,グレールM.G.C.Gleyreのアトリエやアカデミー・シュイスに通う。マネに刺激された《草上の昼食》(1865),《庭の女たち》(1866)など、後の印象派のグループと親交を深め、外光の下での微妙な色彩をとらえた風景画を多く描いた。印象派という名称は彼の作品「印象−日の出」(1874)が語源。

※モネ「印象−日の出」

ジェームズ・タレルとは

・アメリカの美術家。ロサンゼルス生まれ。父は航空工学のエンジニア。カリフォルニア州クレアモントのポモナ・カレッジで知覚心理学と数学を学ぶかたわら、有機化学、物理学、美術にも強い関心を示し、1965年に同校を卒業後カリフォルニア大学アーバイン校の大学院に進学して美術を学ぶ。同大学院在学中の1966年にはウィスコンシン州オーシャン・パークのメンドータにスタジオを所有、翌1967年にはパサディナ美術館で早くも初個展を開催、『プロジェクション・ピース』という人工光を投影する作品を発表。1973年にクレアモント大学大学院の芸術学修士号を取得後は、短期間のうちにアムステルダム市立美術館(1976)、ニューヨークのホイットニー・アメリカ美術館(1980)、パリ市立美術館(1983)、ロサンゼルス現代美術館(1985)など主要都市の美術館で次々と個展を開催、国際的な評価を得る。

代表作の1つとして『ローデン・クレーター』があげられる。ローデン・クレーターとは、アリゾナ州のサンフランシスコ火山帯東端に位置する死火山の山頂の噴火口ことで、標高約2500メートルのこの死火山がなだらかな稜線とほぼ円形の噴火口をもっていることに着目したタレルは、噴火口の内部に大規模な土木工事を施し、太陽光や月光を知覚できる11の部屋を設けた。これは、タレルが1970年に飛行機の操縦免許を取得し、空から噴火口を見て以来長年温めてきた壮大なプロジェクトであった。

※タレル「ローデン・クレーター」

一方でタレルのアプローチはよりコンセプチュアル・アートに近い面をもっており、「光は私にとって素材(マテリアル)であり、知覚は媒体(メディウム)である」、あるいは「夢のなかの光はどこから来るのか」と語るなど、光を主要な制作素材として活用することへのこだわりは、屋根を開いて外光を知覚できるようにしつらえた「スカイ・スペース」シリーズ(1974~ )等の作品、人工光や自然光を用いた屋内でのインスタレーション作品、一人ずつ光を体験できる移動可能な部屋「パーセプチャル・セル」のシリーズ(1990年代)などの作品を生みだす。1995年(平成7)には水戸芸術館で、1998年には世田谷美術館(東京)で相次いで個展が開催、2004年に直島(なおしま)に開館した地中美術館(香川県)にも、タレルの作品が恒久設置された。

ウォルター・デ・マリアとは

・アメリカ合衆国カリフォルニア州オールバニ生まれ。1953年から1959年までカリフォルニア大学バークレー校で歴史学と美術を学ぶ。1960年にニューヨークに移り制作活動を始め、初期はダダなどの美術運動に影響された彫刻を作る。こうした影響により、簡素な幾何学的形状や、ステンレスやアルミニウムといった大量生産で作られた素材など、後にミニマル・アートの特徴となるものをデ・マリアは使うようになる。

1960年代半ば以降、デ・マリアは様々な芸術活動に関与。ハプニングに参加し、二つのミュージカルを作曲し(『Cricket Music』1964年、『Ocean Music』1968年)、二つの映画を撮る(『Three Circles and Two Lines in the Desert』、『Hardcore』、いずれも1969年)。また、デ・マリアはニューヨークのロックバンド「ザ・プリミティヴス」(The Primitives)や、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの先駆者となった美術家と音楽家によるグループ「ザ・ドラッズ」(The Druds)のドラマーとなった。

1968年よりデ・マリアは『Erdraum』などミニマルな彫刻やインスタレーションを制作。同じく1968年にモハーヴェ砂漠で制作した1マイルの長さの平行線を描き続ける作品『マイル・ロング・ドローイング』(Mile Long Parallel Walls In The Desert)など、アメリカ南西部の砂漠でランド・アートのプロジェクトを実行。こうした砂漠で、風景と自然、光と天候が、猛烈な物理的精神的体験となるような状況を作ろうとした。1977年にニューメキシコ州カトロン郡の砂漠の只中に作った『ライトニング・フィールド』(『稲妻の平原』)は、デ・マリアの代表作でありランド・アートの代表作となった。日本では香川県の地中美術館に大規模なインスタレーションが常設。2013年7月25日、ロサンゼルスで死去。77歳没。

→タレルがドラマーやってるの知りませんでした;

※デ・マリア「マイル・ロング・ドローイング」

安藤忠雄とは

・・大阪府生まれの建築家。工業高校を卒業後、プロボクサーを経て独学で建築を学ぶ。1960年代に日本一周の旅行と二度のヨーロッパへの旅を行い、さまざまな建築を体験する。1969年(昭和44)安藤忠雄建築研究所を設立。1976年、住吉の長屋を発表し、注目を浴びる。この住宅の特徴は、外部に対して閉ざされた箱を思わせるコンクリート打放しの壁や、部屋を移動する際に屋根のない中庭を通らないといけない平面の構成である。基本的なデザインは、ル・コルビュジエやルイス・カーンLouis I. Kahn(1901―1974)に代表される良質なモダニズムを継承したものと評されている。一方、この住宅では雨の日には傘をさしてトイレに行かなければならないことが大きな話題となり、近代的な素材に明快な幾何学的秩序を与えながら、必ずしも機能的とはいえない動線は、近代を乗り越える試みとして考えられている。

1980年代には、傾斜した地形を生かした六甲(ろっこう)の集合住宅(1期:1983、2期:1993、3期:1999)や川と連続させたタイムズ(1期:1984、2期:1991)など、自然と建築を巧みに調和させた作品によって、建築界において不動の地位を確立。当初の仕事は、住宅と商業施設を中心にしていたが、1980年代末から兵庫県立こどもの館(1989)や姫路文学館(1991)などの公共施設を手がける。その結果、作品のスケールが大きくなり、小規模の住宅で行っていたデザインがバロック的に展開。大胆な開口、劇的な光と水の効果、大階段、地下に掘り下げられた空間などが洗練される。壮大な規模の淡路(あわじ)夢舞台(1999)は、安藤の建築手法の集大成として位置づけられる。

一般的にコンクリートの壁の建築家として理解されているが、1990年代から木を積極的に使う建築も始める。最初の本格的な木造は、セビリア万博の日本館(1992)で、これは間口60メートル、奥行き40メートル、高さ25メートルの世界最大級の木造となった。集成材を使いながら、日本の伝統建築がもつ木組の構成美を感じさせ、規格化された材料により合理的なプレハブ化を行い、日本の伝統を現代の技術で再構成している。その後、豪快な木の殿堂(1994)や繊細な南岳山光明寺(2000)などを実現し、木によるさまざまな表現の可能性も追求。

世界的な建築家として認知されるが、海外から評価される場合、装飾を排した禁欲的なミニマリズムや自然との関係から、禅の庭や茶室など、日本の伝統に言及されることも多い。1990年代後半からは、フォートワース現代美術館やピノー現代美術館などのコンペに勝ち、海外のプロジェクトが増え、実作も手がける。また、エール大学、コロンビア大学、ハーバード大学にて客員教授をつとめ、1997年(平成9)には東京大学教授となった(2003年退官)。兵庫県立美術館(2002)は、大きく張りだした庇(ひさし)とガラスに包まれたコンクリートの箱をもち、新しいデザインの方向性を示す作品。

建築界にとどまらず、社会的な影響力をもつ数少ない建築家で、メディアを通じて積極的に発言も行い、1995年の阪神・淡路大震災の後、緑を増やすグリーンネットワークの植樹運動を開始、その輪を広げている。建物を設計するのではなく、社会改良家としての側面もみせており、2001年9月のアメリカ同時多発テロによって破壊された世界貿易センタービルの跡地についてはビルを再建せず、球体の一部から構成されるランドスケープをつくり、記憶を継承するモニュメントを提案。日本建築学会賞、日本芸術院賞、吉田五十八(いそや)賞、プリツカー賞、イギリス王立建築家協会ゴールドメダル、アルバ・アールト賞などを受賞。アメリカ建築家協会名誉会員、イギリス王立建築家協会名誉会員、フランス建築アカデミー名誉会員。2003年(平成15)文化功労者。そのほかのおもな建築作品に光の教会(1989)、大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館(1994)、直島コンテンポラリーアートミュージアム(1995)など。著書に『安藤忠雄の都市彷徨』(1992)、『建築を語る』(1999)、『連戦連敗』(2001)、『建築に夢を見た』(2002)などがある。

安藤忠雄の都市彷徨


建築を語る


連戦連敗


建築に夢を見た (NHK人間講座)

※少し古いですが、このあたりはまだ購入可能のようです。

恒久展示作品


館内の様子




→モネの庭を模した風景も綺麗ですね。(…モネの庭と言ったら…高知県北川村の「モネの庭」マルモッタンがありましたね。同じ四国内でこことワンセット言ったら面白いかもしれません)

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