世界一のコレクションを所有、国民的日本画家の芸術が育った故郷への寄贈がきっかけ 長野県立美術館(東山魁夷館)

長野県

こんにちは。個人の作家を紹介する美術館や私設美術館が多かった長野県、いよいよ本ブログでは残り県立美術館2館だけになりました。そのうち今日ご紹介する1館は県立でありながら1人の作家のためだけに建てられた美術館です。恐らくこれまでご紹介してきた美術館で同様のものは、横尾忠則現代美術館(兵庫県)、公立というくくりで言うと浜松市秋野不矩美術館(静岡県)くらいかもしれません。それほどまでに長野:信州にとって、またこの作家にとっても長野という土地がいかに大切であったかがこれだけでも解ります。

そんな県立美術館の重要な部分に位置づけされている場所、早速ご紹介していきましょう。

このブログで紹介する美術館

東山魁夷館(長野県立美術館)

・開館:1990年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市、観光協会HPより転載)

・場所
東山魁夷館 – Google マップ

世界一のコレクションを所有、国民的日本画家の芸術が育った故郷への寄贈がきっかけ

・日本画家・東山魁夷(1908〜1999)から作品の寄贈を受け、1990年に本館に併設しオープン(2019年10月リニューアル)。東山魁夷にとって信州は自身の芸術を育ててくれた故郷で、学生時代にこの豊かな自然に出合って以来、《緑響く》《白馬の森》《夕静寂》などの代表作をはじめ、初期の連作、スケッチや《唐招提寺御影堂障壁画》の試作などを発表しました。それら東山作品・資料970余点を収蔵し、およそ2ヶ月に1度展示替え。美術館HPには「『風景は心の鏡である』と語った東山の芸術を楽しんで欲しい」と記載されています。

東山魁夷とは

・1908年(明治41)、横浜生まれの日本画家。1931年(昭和6)東京美術学校(東京芸大の前身)を卒業して研究科に進み、1933年から1935年までドイツに留学。1947年(昭和22)の第3回日展で『残照』が特選。1950年から審査員となり、1956年の第11回日展出品作『光昏(こうこん)』で1日本芸術院賞を受ける。1965年には日本芸術院会員、日展理事となり、1969年に文化勲章を受章。1974年に日展理事長となる。この間、60年に東宮御所壁画『日月四季図』、1968年には皇居新宮殿壁画『朝明けの潮』を完成させ、翌年毎日芸術大賞を受ける。また1973年から唐招提寺御影堂障壁画の制作に携わり1981年に完成。1987年に所蔵していた自作を長野県に寄贈。1990年(平成2)には、長野県にそれらを所蔵した長野県信濃美術館・東山魁夷館が開館。著作では『わが遍歴の山河』『風景との対話』など多数。1999年(平成11)死去。

《残照》東京国立近代美術館 蔵

《光昏 》日本藝術院会館 蔵


東山魁夷―わが遍歴の山河 (人間の記録)


風景との対話 (新潮選書)

東山魁夷 略歴

・明治40(1908)年7月8日、東山浩介、くにの次男として横浜に生まれる。本名新吉。
・明治44(1911)年 3歳、一家で神戸に転居。
・大正10(1921)年 13歳、兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高等学校)に入学。
・大正15/昭和1(1926)年 18歳、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学。夏、信州を旅し、山国の雄大な自然に強い感銘をうける。
・昭和4(1929)年 21歳、最初の展覧会出品作《山国の秋》が第10回帝展に入選。
・昭和6(1931)年 23歳、東京美術学校日本画科を卒業。引き続き研究科に進み、結城素明に師事して「魁夷」を雅号とする。この年、東京美術学校の同窓生と研究グループ「六篠社」を結成。また西洋美術研究のため、ドイツ留学の準備を始める。
・昭和8(1933)年 25歳、東京美術学校研究科を修了。8月、渡欧の途につく。10月、ベルリンに到着。ベルリン大学外国人語学部でドイツ語を学ぶかたわら、足繁く美術館に通う。
・昭和9(1934)年 26歳、ヨーロッパ一周の旅行に出発。10月、第1回日独交換学生に選ばれ、以後2年間の留学費をドイツ政府から支給されることになる。11月、ベルリン大学哲学科美術史部に入学。
・昭和10(1935)年 27歳、父危篤の報に、なお1年を残す留学期間を断念して帰国。
・昭和12(1937)年 29歳、結城素明・川崎小虎・青木大乗を同人に「大日美術院」が創立され、その第1回展から出品する。11月、初めての個展「東山魁夷滞欧スケッチ展」を神戸で開催。
・昭和14(1939)年 31歳、川崎小虎らを中心に結成された「日本画院」の第1回展に《冬日》を出品し、日本画院賞第一席を受賞。同展では1940年の《季節と高原》、41年の《自然と形象》で3年連続して第一席に輝いた。6月、第3回大日美術院展で《山三題》が大日美術院賞第二席を受賞、新設された院僚に推挙される。
・昭和15(1940)年 32歳、大阪毎日・東京日日新聞社主催日本画大展覧会に《山》《海》を出品、佳作賞を受賞する。11月、川崎小虎の長女すみと結婚。
・昭和18(1943)年 35歳、美術団体「国土会」の結成に参加。4月から5月にかけて中国を旅行。
・昭和20(1945)年 37歳、召集をうけて熊本の部隊に配属となる。8月、敗戦。12月、千葉県市川市に移って制作を再開する。
・昭和22(1947)年 39歳、第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞する。この作品によって、以後、風景画家として立つことを決意する。
・昭和25(1950)年 42歳、1931年の東京美術学校卒業生有志による「六窓会」の結成に参加。7月、東京で「東山魁夷個展」を開催。10月、第6回日展に《道》を出品、好評を得る。
・昭和29(1954)年 46歳、第1回現代日本美術展に《晩照》を出品、佳作賞を受賞する。
・昭和30(1955)年 47歳、東京で「東山魁夷新作展」を開催。
・昭和31(1956)年 48歳、前年の第11回日展に出品した《光昏》によって日本芸術院賞を受賞する。9月、神戸で「東山魁夷個人展」を開催。
・昭和34(1959)年 51歳、東京で「東山魁夷『東京』展」を開催し、冬の東京に取材した連作を発表する。
・昭和35(1960)年 52歳、かねて宮内庁から依頼されていた東宮御所の壁画《日月四季図》が完成。
・昭和36(1961)年 53歳、初めての回顧展「東山魁夷自選展」を東京で開催。11月、皇居吹上御所の新築にあたり、かねて宮内庁から依頼をうけていた作品《萬緑新》を制作する。
・昭和37(1962)年 54歳、4月から7月にかけて、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドをめぐる写生旅行をおこなう。
・昭和38(1963)年 55歳、東京で「東山魁夷北欧風景画展」を開催し、前年の北欧旅行の成果を発表する。11月、神戸で「東山魁夷代表作品展」を開催。
・昭和40(1965)年 57歳、日本芸術院会員に任命される。3月、日展理事に就任。
・昭和41(1966)年 58歳、かねて宮内庁より依頼されていた新宮殿壁画制作のため、日本各地の海岸の写生と下図作成にほぼ一ヵ年をついやす。
・昭和43(1968)年 60歳、東京で「東山魁夷展-新宮殿壁画《朝明けの潮》下図/京洛四季-」を開催。
・昭和44(1969)年 61歳、《朝明けの潮》の制作および前年の「東山魁夷展」によって毎日芸術大賞を受賞。2月、大阪で同賞受賞記念「東山魁夷展」が開催される。4月より9月にかけて、夫妻でドイツ、オーストリアを旅行。11月、文化勲章を受章。あわせて文化功労者に選ばれる。
・昭和46(1971)年 63歳、かねて打診のあった奈良・唐招提寺御影堂障壁画の制作を受諾。11月より東京、大阪、名古屋、神戸、京都で「東山魁夷新作展」を開催し、ドイツ、オーストリアの古都を描く制作と「窓」の主題による連作スケッチを発表する。同じく11月より東京セントラル美術館、兵庫県立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。
・昭和47(1972)年 64歳、この一年を鑑真和上と唐招提寺の研究にあてる。奈良・大和路の自然と歴史、文化の探究につとめ、障壁画の構想を練った。
・昭和48(1973)年 65歳、唐招提寺障壁画の準備のため、日本各地の山と海を取材する。11月より東京、神戸、名古屋で「東山魁夷『白い馬の見える風景』展」を開催し、幻想の白い馬を主題とする連作を発表する。
・昭和49(1974)年 66歳、日展理事長に就任(~1975年)。4月、岩手県民会館で「東山魁夷展」を開催。
・昭和50(1975)年 67歳、エリザベス英女王の訪日にあたり、昭和天皇から贈られる作品《春の曙》を制作。5月、唐招提寺御影堂の第一期障壁画《山雲》《濤声》が完成、6月3日に奉納される。奉納の前後、東京、大阪、名古屋、神戸で「東山魁夷唐招提寺障壁画展」を開催。昭和天皇のアメリカ訪問に際し、フォード米大統領に贈られる作品《夏山白雲》を制作。
・昭和51(1976)年 68歳、日本文化界代表団の一員として中国を訪問。北京、西安、南京、揚州、上海を歴訪ののち、代表団一行と別れて太湖、桂林を写生する。8月、詩画集『コンコルド広場の椅子』の原画を制作。西ドイツ大統領から功労大十字勲章を贈られる。9月、熊本および石川県美術館で「東山魁夷展」を、また神戸で「東山魁夷五十年の歩み展」を開催。
・昭和52(1977)年 69歳、パリ日本大使館大使公邸のために《青い谷》を制作。4月、パリのプチ・パレ美術館で開催された「唐招提寺展」に障壁画《山雲》《濤声》が展示されたのにともなって訪仏。5月、東京で「東山魁夷展」を開催。8月、中国対外友好協会の招きで再び訪中。新疆ウイグル自治区の古代遺跡を写生する。
・昭和53(1978)年 70歳、千葉県立美術館で「東山魁夷展」を開催。5月、北京と瀋陽で「日本東山魁夷《夷画展覧》が開催されたのにともない三たび訪中。洛陽、南京、揚州を歴訪後、黄山に登り写生をおこなう。11月、パリで詩画集『コンコルド広場の椅子』原画展が開催され、シラク・パリ市長から金牌を贈られる。
・昭和54(1979)年 71歳、三ヵ年にわたる中国での水墨スケッチをもとに第二期唐招提寺障壁画の構想をまとめる。6月に試作が完成し、本制作にとりかかる。4月、東ドイツのベルリン、ライプツィヒで「東山魁夷展」が開催されたのにともない訪独。11月、広島、岡山で「東山魁夷近業展」を開催。
・昭和55(1980)年 72歳、第二期障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》が完成。東京、名古屋、大阪で「東山魁夷第二期唐招提寺障壁画展」が開催される。6月、障壁画を唐招提寺に奉納。7月、ドイツ、オーストリアを旅行。
・昭和56(1981)年 73歳、1月より福岡、下関、鳥取で「東山魁夷唐招提寺への道展」を開催。3月、神戸で「東山魁夷・東と西を結ぶ展」を開催。8月、東京国立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。11月、唐招提寺鑑真和上像厨子絵《瑞光》を奉納する。
・昭和57(1982)年 74歳、新潟で「東山魁夷唐招提寺への道展」を開催。3月、東京で「東山魁夷唐招提寺全障壁画展」を開催し、第一・二期障壁画と厨子絵《瑞光》がはじめて一堂に展示される。4月、国立国際美術館で「東山魁夷展」を開催。6月、パリで「白い馬の見える風景」展を開催。7月、佐野美術館で「東山魁夷展―山河遍歴―」を、また11月には神戸市立博物館で「東山魁夷・中国の旅展」を開催。
・昭和58(1983)年 75歳、4月より大阪、名古屋で「東山魁夷『樹々は語る』展」を開催。5月より西ドイツのミュンヘン、デュッセルドルフ、ブレーメンで「東山魁夷展」が開催されたのにともない、3回にわたって渡欧。
・昭和59(1984)年 76歳、日展顧問に就任。6月、西ドイツのプール・ル・メリット学術・芸術院の外国人会員に選任され、翌85年6月、ボン大学にて徽章を受ける。7月、清春白樺美術館で「東山魁夷展―三つのシリーズ―」を、11月には長野県県民文化会館で「山河遍歴・東山魁夷展」を開催。
・昭和61(1986)年 78歳、日本芸術院第一部長に選任される(~1989年)。7月、北澤美術館で「東山魁夷展―風景遍歴―」を開催。
・昭和62(1987)年 79歳、家蔵の自作を一括して長野県に寄贈することが決定。学生時代から写生旅行を重ね、自ら「私の作品を育ててくれた故郷」とよぶ信州へ、という希望によるもの。9月、本制作、習作・スケッチ、下図等500余点の寄贈作品目録を贈呈。
・昭和63(1988)年 80歳、5月より京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。11月、市川市文化会館で「東山魁夷展―唐招提寺への道―」を開催。
・昭和64/平成1(1989)年 81歳、2月よりベルリン、ハンブルク、ウィーンで「東山魁夷展」が開催されたのにともない、3回にわたって渡欧。6月、オーストリア造形芸術家協会、ウィーン・キュンストラーハウス名誉会員に推挙され、また西ドイツ・バイエルン州功労勲章を受章する。8月、東京で「ベルリン・ハンブルク・ウィーン巡回展帰国記念東山魁夷展」を開催。
・平成2(1990)年 82歳、宮内庁から今上天皇の即位にともなう大嘗祭で皇居豊明殿を飾る《悠紀地方屏風絵(悠紀地方風俗歌屏風)》の制作を依頼される。この作品は同年9月に完成し、11月の大嘗祭大饗の儀で披露された。4月、長野県信濃美術館に併設して東山魁夷館が開館。開館記念「東山魁夷展―寄贈作品による画業の歩み―」が開催される。
・平成3(1991)年 83歳、9月より神戸、京都、東京で「東山魁夷『わが旅の道』展」を開催。
・平成4(1992)年 84歳、ユネスコ芸術賞の創設に対する貢献により、ユネスコ・ピカソ金メダルを贈られる。
・平成5(1993)年 85歳、名古屋で「東山魁夷雪月花展」を開催。9月より北海道立近代美術館、松坂屋美術館、姫路市立美術館で「東山魁夷青の世界展」を開催。
・平成6(1994)年 86歳、東山魁夷館設立の契機となった長野県への自作の寄贈に対して、信濃毎日新聞社から第1回信毎賞を贈られる。10月、長野県信濃美術館・東山魁夷館で開館5周年記念「東山魁夷信州を描く」展を開催。11月、市川市に東山魁夷アートギャラリーが開館し、版画、複製画等を常設展示する。
・平成7(1995)年 87歳、7月より東京、京都および長野県信濃美術館で「米寿記念東山魁夷展」を開催。8月、長野県山口村(現・岐阜県中津川市)に東山魁夷心の旅路館が開館し、前年に村へ寄贈した版画、複製画等を常設展示する。
・平成8(1996)年 88歳、長野県内の高等学校全106校に、近年刊行した画集・展覧会図録を贈呈する。3月、長野県伊那文化会館で「東山魁夷の版画世界」展を開催。
・平成9(1997)年 89歳、3月より神戸、福岡で「東山魁夷『私の森』展」を開催。9月、長野県伊那文化会館で「東山魁夷展-創作の軌跡-」を開催。
・平成10(1998)年 90歳、長野県信濃美術館・東山魁夷館で長野オリンピック文化・芸術祭参加/長野パラリンピック文化プログラム「人と自然、そして祈りin Japan」展が開催され、三部構成のうち第Ⅱ部が「東山魁夷・自然との対話」にあてられる。2月、清春白樺美術館で「東山魁夷青春の滞欧スケッチ1933-35」展を開催。5月より富山県立近代美術館、千葉市美術館で「東山魁夷展」を開催。
・平成11(1999)年 5月6日、老衰のため逝去。従三位、勲一等瑞宝章を贈られる。7月より岡山県立美術館、茨城県近代美術館で「東山魁夷展-永遠の祈り-」を、また11月にはパリで「東山魁夷展」を開催。
・平成12(2000)年、1月より福岡、東京、名古屋で「パリ展帰国記念東山魁夷展」を開催。4月、長野県信濃美術館で東山魁夷館開館10周年記念展「東山魁夷の世界」を開催。
・平成16(2004)年、1月より横浜美術館、兵庫県立美術館で、「東山魁夷展-ひとすじの道」を開催。
・平成17(2005)年、4月より長野県信濃美術館・東山魁夷館(両館)で東山魁夷館開館15周年記念展「東山魁夷の世界-創作の軌跡と同時代の人々」を開催。
・平成20(2008)年、3月より東京国立近代美術館、7月より長野県信濃美術館・東山魁夷館(両館)で「生誕100年 東山魁夷展」を開催。
・平成22(2010)年、7月より長野県信濃美術館(小展示室)と東山魁夷館で東山魁夷館開館20周年記念展「Ⅰ白い馬の見える風景」「Ⅱ信州讃歌」を開催。
・平成24(2012)年、7月より北海道立近代美術館、9月より宮城県美術館で「東山魁夷展」を開催。
・平成26(2015)年、7月より長野県信濃美術館 東山魁夷館で「東山魁夷館25周年記念 日展三山‐東山魁夷、杉山寧、髙山辰雄‐」を開催。

東山魁夷と長野県

・以下は美術館HPに掲載の東山魁夷と長野県のつながりについて東山魁夷さんが直接コメントした文です。横浜生まれの東山さん、なぜ長野県に作品を寄贈したのかが書かれてあります。
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・私が初めて信州へ旅したのは、今から64年前の大正15年夏のことでした。当時、東京美術学校日本画科の一年生だった私は、友人三人と木曽川沿いに天幕を背負って、10日間の徒歩旅行をし、御嶽へ登りました。横浜で生まれ神戸で少年期を過した私は、初めて接した山国の自然の厳しさに強い感動を受けると共に、そこに住む素朴な人々の心の温かさに触れることが出来たのです。

この旅行の二日めの夕方、麻生(あそう)村(現・岐阜県中津川市山口)に着き、山路にキャンプする場所を探しているうちに、大粒の雨が降ってきました。日はすっかり暮れて雨は益々烈しく、雷鳴が物凄くなってきました。路は滝のようになり、杉木立の下で雨宿りをしていると、バリバリと雷が頭上で容赦なく鳴り響きます。私達は仕方なく麻生へ引き返しました。

とある農家の戸を叩いて、わけを話しますと、老婆が気持よく迎え入れてくれました。土間でよいから泊めて下さいと言ったのですが、座敷へ通してお茶など出してくれました。お婆さんは息子と二人暮しで、息子さんのほうは祭りの笛の稽古で近所に出かけているとのことでした。話をしているうちに雷鳴も遠くなって雨も止みました。この辺には名所もないが公園が出来たからと言いながら、老婆は私たちを誘って外へ出ました。すると、思いがけなく美しい月夜になっていました。公園というのは近くの水力発電所のそばに少しばかりの桜の木が植わっているだけの、ごく簡素なものですが、お婆さんはまんざらでも無さそうな様子でした。

私もこの月明の静かな山峡の眺めは、全く都会の公園では味わえない素晴らしいものだと思いました。夜の大気は澄み切っていて、涼風が爽やかに吹き渡っていました。

この旅はその時は気付きませんでしたが、私に大きな影響を与えたものであることが、ずっと後になりわかったのです。それ以来、山国へよく旅をするようになり、信濃路の自然を描くことが多くなりました。そして、風景画家として一筋の道を歩いてきました。

いつの間にか私も年を重ね、子供がいませんので今の内に、自家所有の作品などの処置について、真剣に考えねばならない時期になりました。いろいろ考えました末に、私の作品を育ててくれた故郷とも言える長野県にお願いしたいと決心したのです。甚だ唐突なことのようですが、それは私の心の中で長い間に結ばれてきた信州の豊かな自然との強い絆が今日のような結果となったわけです。

長野県では私の身勝手な願いを快くお聞き届けになり、このように立派な館を建てて戴き、誠に御礼の申し上げようも無いことと、心から感謝している次第です。東山魁夷(平成2年4月記)
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→何となく故郷というと生まれた場所、育った場所というイメージですが、このような関わり方があるというのは私も新しい発見でした。子供がおらず生涯日本画家としての道を追求した東山さんならではの感覚なのかもしれませんね。

主なコレクション




→これが絶筆です。タイトル「夕星」

いかがでしょう。長野:信州の山を愛し、月夜を愛し、それらを静かに眺め作品に遺し続けた東山魁夷さん、生まれた土地でもなく、育った土地でもなく、作品を通じて故郷を見出したまさに自然の中の画家と言えるかもしれませんね。そんな東山魁夷作品を一堂に観ることができる長野県立美術館(東山魁夷館)、皆さんもぜひ足を運んでみて下さい。

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