作家が45年間住み続けた豊島区の旧宅跡地に開館、娘の父への想いが詰まった美術館 東京:豊島区立熊谷守一美術館

東京都

こんにちは、マウスです。
今日ご紹介する美術館の主人公は既に1度、生まれ故郷である岐阜県の熊谷守一つけち記念館としてご紹介しましたが、その熊谷守一さんが家族と共に45年間暮らした豊島区の旧宅跡地に開館しています。

 熊谷守一さん、もしかするとこれまでご紹介してきたどの作家よりも自身の信念(無一物の道)を貫いた方かもしれません。以前のブログ記事でお伝えの通り、「これ以上人が来てくれては困る」として、1967年の文化勲章も辞退されています。これは今のところ画家では熊谷さんだけ、芸術全般に範囲を広げても陶芸家の河井寛次郎氏(民藝運動をリードした人として京都の河井寛次郎記念館の回でご紹介しましたね)、小説家の大江健三郎氏、舞台演劇の杉村春子氏の4人だけです。いずれも「名利を求めない信条」という姿勢は共通しており、熊谷家もこの大黒柱の信念と引き換えに多くの苦労をしたこと(貧しかったこと、次男、三女、長女と3人の子に先立たれたことなど)をお伝えしました。

 そんな父の背中を見て育った次女の熊谷榧(かや)氏が建てたのが本日ご紹介する美術館です。現在では豊島区立として運営されていますが、当初は「父の作品を常設でみられる美術館を」と個人美術館として開館したもので、どんな状況に陥っても信念を貫いた父の姿をある意味で苦労しながらも良き理解者として傍で見てきた娘の愛情や、尊敬のまなざしを感じる美術館だと個人的には感じています。

 そんな熊谷守一さんとその生き方までも感じ取ることができる美術館、早速ご紹介です。

このブログで紹介する美術館

豊島区立熊谷守一美術館

・開館:1985年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都・区、観光協会HPより転載)
・場所: 豊島区立熊谷守一美術館 – Google マップ

作家が45年間住み続けた豊島区の旧宅跡地に開館、娘の父への想いが詰まった美術館

・熊谷守一氏が45年間住み続けた豊島区千早の旧宅跡地に、1985年(昭和60年)5月、守一の次女・熊谷榧(かや)氏が「父の作品を常設でみられる美術館を」と個人美術館として開館。その後、作品の散逸を防ぎ末永くこの場所で守一の作品を観ていただきたいという次女:榧氏の思いから、榧氏所有の守一作品153点を豊島区に寄贈、2007年(平成19年)11月に豊島区立となりました。

<館内の配置>
・1F 第1展示室[常設展示]・・・熊谷守一氏の油絵 「アゲ羽蝶」「自画像」「白猫」など油絵を中心に、掛軸・ブロンズ・絵付けした器など30点余を展示。生前に熊谷守一が使っていたイーゼルやチェロも見ることができます。
・2F 第2展示室[常設展示]・・・熊谷守一氏の墨絵・書 墨絵の「蟻」「がま蛙」や、書「寂」「五風十雨」を中心にオイルパステル画など30点余を展示。
・3F ギャラリー[貸しギャラリ-・企画展示]貸しギャラリーのご案内 油絵・水彩画・陶作品など様々な作家の個展や企画展示が週替わりで実施。

熊谷守一とは

(再度熊谷守一さんを振り返っておきます) ・岐阜県生まれの洋画家。1904年(明治37)東京美術学校西洋画科を青木繁らと卒業、翌年から農商務省の樺太(サハリン)調査隊に加わる。1908年、第2回文展に初入選、翌年の文展で自画像『蝋燭(ろうそく)』により褒状を受ける。その後数年間を郷里に過ごし、1915年(大正4)上京して第2回二科展に出品、翌年二科会員。第二次世界大戦後の1947年(昭和22)二紀会の結成に参加・出品するが、1951年に退会。昭和初めの『陽の死んだ日』などに独自のフォーブ風を示したが、戦後は澄明な色彩による平面的装飾画風に移り、『鬼百合に揚羽蝶』などに独特の詩境を開いた。

娘からみた父:熊谷守一

・以下は本美術館の館長を務めた次女:熊谷榧氏が綴った父:守一氏への想い、コメントです。美術館HPにも掲載されており転載しておきます。
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・熊谷守一は、明治維新たかだか10余年後に、木曽の片田舎(現中津川市付知町)で生まれた。父親は岐阜の初代市長を務めた人で、家は製糸工場を営んでおり裕福だった。父親の方針で、岐阜市内の町の小学校に通うことになる。小学生の時、先生の教える楠木正成の忠義話は明治になって為政者が持ちだしてきた話だと思ったという。先生の話より、教室の窓から舞い落ちる木の葉に気をとられ眺めているものだから、終始立たされていたそうだ。運動会では、守一が騎馬戦の旗頭になったが、危うく負けそうになると市長の息子という遠慮からか、校長が慌てて終了の呼子を吹いたとのこと 。

 岐阜中学3年の時、上京する。守一を商人にしようとしていた父親の大反対を押して、1900年東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画選科に入学する。藝大の連中とみんなで20世紀の開始を祝って肌色パンツを穿き、御輿をかついで気勢を上げたという。22歳で父親の急死と実家の破産にあう。卒業した時は日露戦争中で、樺太漁業調査隊に写生係りとして雇われ、各地の風物、地形の記録などをスケッチする。小舟で海岸線をまわったとき、1日の食いぶちを捕ると網もそのまま、砂浜にじっと座っているアイヌの人たちに魅せられたという。

 守一は自分でも言っているように、いい絵を描いて褒められようとも、有名になろうとも思わず、たまに描いた絵も売れず、長いこと千駄木や東中野の借家を転々として、友人の援助で生きながらえてきた。1932年に、いま熊谷守一美術館になっている豊島区千早に越して来た頃から、ぽつぽつ絵も売れて、なんとか家族を養えるようになった。

 戦争中も本当の時局が分かるから、と新聞の株式欄を見ていたが、株は持ったこともなく、商売やお金儲けとも生涯縁がなかった。戦争画を描くこともなく、なるべく目立たないように、自分の思うまま、そっと生きた。

 写生旅行で名所に連れていかれても、道ばたの草や花、畑の馬や烏を描いたという。晩年も生き物や植物、何気ない身の回りをじっと見つめて、描きたい時だけ描いた。文化勲章は内示を断ったが、もともと権威主義の象徴のような勲章というものが何より嫌いだった。絵を見ていただきたいのは勿論ですが、絵をとおして、守一のものの見方や生き方を、今を生きる人たちにも感じてもらいたいと思います。(豊島区立熊谷守一美術館 館長:熊谷榧)
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…恐らく、当時の風潮を推測するに戦争画などを描くことで当時の日本政府からの支援を受け、家族ともども楽になる道を選ぶことは守一さんの画力なら労せずできただろうと思います。それでもなお「権威」というものから離れ、なるべく目立たないように、自分の思うまま、そっと生きるという姿勢はそうそうできるものではありません(実際に当時戦争画を描いた、描かざるを得なかった作家というのは知られていないだけで相当の数にのぼります)。そんなものとは死ぬまで一線を画し続けた熊谷守一さんの生きざまに魅了されてファンになる方も多いのではないかと思います。

主なコレクション

・豊島区立熊谷守一美術館では、油絵、墨絵、書に分けて展示されています。画像は転載できませんでしたが、各々に対する熊谷榧氏のコメントと URLを掲載しておきます。

油絵

・油絵は、大きなものはなく4号Fの小品がほとんどだ。東京美術学校時代から1910年代前半はアカデミックな暗い色調を好んで描いている。30代に岐阜へ帰郷した約6年間は、ほとんど絵を描かなかったが、再上京してからは、ぽつぽつと描き残している。その後、戦争と貧しさで絵どころではなくなるが、戦後の絵には、守一独特の、線と面で構成された描き方の兆しがはっきり見える。晩年は足腰が弱り、70代後半から20年は自宅の庭でスケッチした植物や、若い頃写生したデッサンを元に油絵を描いた。守一の絵は、抽象画のように言われるが、ものをよく見て具象を突きつめて出きたものだと思う。
http://kumagai-morikazu.jp/art-work/index.html

墨絵

・日本画というのではなく、筆と色墨で和紙に描くものだが、かなり昔から描いている。1943年に奈良の濱田葆光さんに勧められた初の個展も、墨絵の展示だった。これが後に熊谷守一の大コレクターとなった木村定三さんと出会うきっかけとなった。70歳頃までの墨絵は素朴で良いが、晩年、人に頼まれて描いた墨絵は手馴れており新鮮味に欠ける。油絵と違ってさっと描けるので、頼まれてはその場で描いて渡していた。その為、生涯で何枚描いたかは、はっきりわからない。制作年も不詳のものが多い。
http://kumagai-morikazu.jp/art-work/sumi-e/index.html

・父が生きていた頃は、書は余技だからと来た画商さんに差し上げていたものが、今では墨絵とおなじくらい高い評価を受けていてびっくりする。書は絵よりも書いた人の人柄がそのまま出るように思う。美術館をはじめた当初、わたしは父の書に関心がなく展示もあまりしていなかったのだが、守一の書が好きだとおっしゃる方から「書はたったこれだけですか?」と言われて困ったことがある。2005年からは2階を第2展示室にして、墨絵と書を主に飾っている。
http://kumagai-morikazu.jp/art-work/calligraphy/index.html

絶筆「アゲハ蝶」

・父・守一が亡くなる前の年(1976年)に描かれた作品で、その後、墨絵や書は頼まれて描いたが、油絵としては最後のものだ。「ふしぐろせんのう」の花に黒いアゲ羽蝶が止まっているが、絶筆とは思えない力強さがある。熊谷守一の大コレクターだった木村定三さんがご存命の頃に2点の自画像と共に寄贈してくださった。おかげで当美術館のコレクションが充実し感謝している。

熊谷守一「アゲハ蝶」※絶筆

 

この他にも、当時の館長であった熊谷榧氏が父について様々な視点から質疑回答したQAシートが残っていますのでそちらも掲載しておきます。
館長 Q&A 『 榧さんに聞いてみよう! 』

…いかがだったでしょうか。父:熊谷守一さんに対する娘の温かい眼差しがこちらにも伝わるかのような丁寧に解説ですね。残念ながら2022年に逝去されましたが、今なおその絆はこの地に残り続けているような気がします。 そんな、これまでの長い文化勲章の歴史の中で、画家では唯一受章を辞退した作家の生きざまと家族の愛が感じられる豊島区立熊谷守一美術館、皆さんも是非足を運んでみて下さい。

 

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