酒のまちで発信される「諷刺とユーモア」、伊丹の、私の、みんなのミュージアムI/M(アイム) 兵庫:市立伊丹ミュージアム

兵庫県

兵庫県伊丹市…今では空港があるまちとして有名ですが、実はここ、市北部の鴻池一帯は「清み酒」発祥の地で、酒づくりが盛んに営まれてきたまちだということはご存知でしょうか?
江戸時代、「伊丹酒」と呼ばれ、大量消費地である江戸市場に運ばれ、領主である近衛家の保護のもと、将軍の御膳酒としても献上されました。そんな高級酒としての歴史をもつ伊丹市、今日はここに立地する風刺画のユニークなコレクションをもつ美術館です。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

I/M(アイム) 市立伊丹ミュージアム

・開館:1987年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)

・場所
市立伊丹ミュージアム – Google マップ

酒のまちで発信される「諷刺とユーモア」、伊丹の、私の、みんなのミュージアムI/M(アイム)

・兵庫県の南東部に位置する伊丹市、江戸時代には酒のまちとして繁栄し、文人墨客が訪れる文化の香り高いまちとして発展。昭和59(1984)年、その中心市街地である宮ノ前地区に柿衞文庫が開館、建物を増築するかたちで昭和62(1987)年に伊丹市立美術館、平成元(1989)年に伊丹市立工芸センターが開館、さらに平成13(2001)年には江戸時代に建てられた旧岡田家住宅と旧石橋家住宅からなる伊丹市立伊丹郷町館が加わり、これら4つの施設が集う文化ゾーンをそなえる「みやのまえ文化の郷」として運営されていました。

令和4(2022)年には、ここに博物館機能を移転、柿衞文庫、伊丹市立美術館、伊丹市立工芸センター、伊丹市立伊丹郷町館、そして伊丹市立博物館を統合し、歴史・文化・芸術の総合的な発信拠点「市立伊丹ミュージアム」を開館。コレクションは「諷刺とユーモア」をテーマとする約9,000点の美術作品資料、伊丹市の歴史・民俗などに関する郷土資料約160,000点を基礎に、公益財団法人柿衞文庫が収集する俳諧・俳句の作品資料なども展開しています。

ミュージアムは、美術・工芸・俳諧・歴史の各分野におよぶ資料の収集保存と活用、幅広い世代が楽しめる様々な展覧会をはじめ、講座やイベントなどの教育普及活動、伊丹の酒造りを伝える旧岡田家住宅・酒蔵(国指定重要文化財)と旧石橋家住宅(県指定有形文化財)の継承と公開など、多彩な芸術文化を市内外に広く発信。「I/M(アイム)」という略称は、伊丹の、私の、みんなのミュージアムとして親しまれることを意味し、芸術文化を通して「人」と「まち」をつなげることを目指しているそうです。

主なコレクション

<ドーミエ・オノレ>
 
→風刺画で有名ですね。
<ギルレイ・ジェイムズ>

<ホガース・ウィリアム>

<デュフィ・ラウル>

(参考)I / M収蔵品データベース:https://db.itami-im.jp/museweb/

旧岡田家住宅・酒蔵 / 旧石橋家住宅

旧岡田家住宅・酒蔵

・建立時期は、店舗が江戸前期の延宝2(1674)年、酒蔵は少し遅れて正徳5(1715)年頃。建立者は、江戸前期の酒造家松屋与兵衛と推測。蔵の所有は享保14(1729)年に鹿島屋清右衛門に移り、明治に入り安藤由松を経て岡田正造へと渡り、昭和59(1984)年まで(株)大手抦酒造の北蔵として酒造りが行われていました。ここで醸造されていた酒は、江戸時代には松緑、岡田家の所有となって以後は富貴長・大手抦が主要銘酒へ。旧岡田家住宅は、伊丹の町家としてもっとも古く、全国的にも数少ない17世紀の町家のひとつで、伊丹の酒造りを今に伝える遺構とし貴重な建物です。

旧石橋家住宅

・江戸時代後期に建てられた町家です。平成13(2001)年、県指定文化財に。17世紀後期に初代弥兵衛が昆陽口村で八百屋(よろずや)を開業したのが始まりであるとされており、明治以降は紙・金物等の小売業と酒造業を兼業し、その後、日用品の雑貨商を営みました。

日本庭園

・施設内には日本を代表する作庭家、重森完途氏が作庭し、完途氏の跡を継ぐ重森千靑氏によって一部改修された日本庭園があります。これは、江戸初期頃より「伊丹酒」と称し最上酒とされ珍重されたこと、また、元禄頃伊丹の人であった池田宗旦が中心となり「伊丹風」と云われる口語を自由に用いた新しい俳諧の一風・一派が創案されたことから着想を得、現代風に多彩なアレンジをしたとの事。設計にあたっては、全く手を付けない部分と新規部分との繋がりを大切にし、美しく豊かな水景を表現しているそうです。

(付録)伊丹市、清酒の歴史

さいごに、そんな酒と文化のまち、「伊丹市」の清酒の歴史を振り返っておきましょう。(以下はミュージアムHPからの抜粋です)
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・戦国時代の武将山中鹿介幸盛の子である新六幸元が、戦乱を逃れるため大叔父を頼って現伊丹市北部の鴻池に落ち着き、酒造業を始めました。そして、1600(慶長4)年頃に清酒の醸造法を発見したと伝えられています。新六幸元は鴻池で造った酒を馬で江戸まで運んで販売し、大きな利益を得たといいます。新六幸元の八男善右衛門は大坂に出て酒造業を営み、後には両替商として成功しました。
鴻池児童遊園地内には、「亀趺」(仙人の乗り物とされる亀蛇という空想上の生きものの台座)の上に古代中国の貨幣である「布貨」をかたどった鴻池稲荷祠碑があります。碑文は大坂の私塾「懐徳堂」で活躍した儒学者・中井履軒(積徳)が鴻池村山中本家からの依頼を受けて作成したもので、大坂の鴻池家が山中鹿介の末裔であること、初めて諸白澄酒を造り、江戸に送って富を築いたことなどが記されています。

伊丹の酒はそのほとんどが江戸へと送られました。内陸である伊丹からは、まず馬借によって神崎(尼崎市)まで運ばれ、神崎から伝法や安治川口(ともに大阪市)まで船で運び川口の問屋に集積、そして伝法や安治川口から江戸までは、酒樽専用の船である樽廻船によって輸送されました。酒造家は荷主としての権益保護を主張していく必要がありました。たとえば、馬借による運送の際、「重量が不足していれば馬借に弁償させる」「暴れ馬には駄賃を払わない」ことなどが定められ、さらには「樽の中の酒を抜き取ってはいけない」といったユニークな取り決めもありました。江戸時代、美酒を運んだ人々のリアルな情景が浮かぶようです。

幕府成立後、江戸の人口は増え続け、江戸時代後期には100万人以上であったと言われています。全国商品の集散市場として展開していた大坂からは、様々な物が江戸へと運ばれました。上方の酒造業はこのような状況下で商品生産として円熟し、伊丹郷町の酒はそのほとんどが江戸へ送られました。文化・文政年間(1804-30)はそのピークで、とくに1804(文化元)年には1年間で27万7704樽(10万石)が江戸へ積み出されています。伊丹郷町で醸された酒は「丹醸」と称され、江戸の人々から人気を博し、偽物までつくられるほどでした。
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いかがだったでしょう。美術だけでなく、総合ミュージアムとして、工芸・俳諧・歴史の各分野も楽しめる市立伊丹ミュージアム「I/M(アイム)」、伊丹の、私の、みんなのミュージアムとして今後も市民に親しまれるミュージアムとなり続けるといいですね。

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