知の巨人が愛した桜の名所、白樺派とスペイン現代美術家の足跡を訪ねて 山梨:清春芸術村 白樺美術館

アートな場所

山梨県、実は美術館だけでなく、「芸術村」と呼ばれるアートスポットが存在します。
こちらも中村キース・へリング美術館や先日の平山郁夫シルクロード美術館と近い範囲にありますので是非。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

清春芸術村 白樺美術館

・開館:1983年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
清春白樺美術館 – Google マップ

白樺派の足跡を訪ねて

・1980年頃、その桜の美しさに感銘を受けた小林秀雄※1が、東京銀座で画商を営んでいた吉井長三(1930〜2016)※2へ働きかけ山梨県北杜市の旧清春小学校跡地に「芸術村」を創設。5500坪もの広大な敷地に、今日ご紹介する、文学者であり芸術家であった白樺派の活動に関連する「清春白樺美術館」が立地しています。

その白樺派の代表者、武者小路実篤が雑誌「白樺」の中で語った以下の一節が有名です。
「ゆくゆくは美術館を機縁として何か人類の平和と愛と喜びと理解と友情の運動を日本にも起こしたいものと思ふ」

自身はこの夢を果たせませんでしたが、後にそれを実篤やその同志と親交のあった銀座吉井画廊の吉井長三が実現したのでした。

※1小林秀雄…昭和期の文芸評論家。1902年東京生れ。東大フランス文学科卒業。1929年、雑誌《改造》の懸賞評論《様々なる意匠》で文壇にデビュー、翌30年4月から1年間にわたって《文芸春秋》に文芸時評を連載。西欧的知性と日本的感性とが重なり合う日本の近代の現状を基にした批評を展開、また、作品の文体を通じて想像力としての作家の自己意識を論じ、日本における本格的な近代批評創始者の1人となった。

※2吉井長三…吉井画廊元会長。1930年広島県尾道市に生まれ。画家を志して東京美術学校入学を目指すが、父親の反対により、48年中央大学法学部に入学。同年、絵画修学の夢を捨てきれず、東京美術学校の授業に参加。中央大学法学部を卒業した後、三井鉱山に入社するが、2年目に退社して弥生画廊に勤める。64年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。翌年、株式会社吉井画廊を東京銀座に設立。79年に武者小路実篤から白樺美術館の構想について聞いたのを契機として、83年清春白樺美術館を設立、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。

→うーん、小林秀雄の方は難しいですね。私もうまく説明できずにすいません。。でもいまの世の中便利になったものです。以下の動画サイトで小林秀雄と日本数学史上最大の数学者と言われる岡潔の対談本「人間の建設」について解説している動画がありましたので、そちらご参照ください。

 

・なお、美術館の館内はこんな感じだそうです。※ごめんなさい、所蔵品の画像はHPに載っておらず。

・山梨県の観光スポット紹介オマツリジャパンより転載(https://omatsurijapan.com/spot/m/8693/

白樺派とは

最後に白樺派について少しご紹介して終わりたいと思います。(すいません、そんなに詳しくないですが…受け売りです)
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[白樺派とは]
・1910年(明治43年)創刊の文学同人誌『白樺』を中心にして起こった文芸思潮の一つ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のこと。大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となる。白樺派の主な同人には、作家では志賀直哉、有島武郎、正親町公和、園池公致、木下利玄、里見弴、郡虎彦、長與善郎、美術家では柳宗悦、有島生馬、『白樺』創刊号の装幀も手がけた美術史家の児島喜久雄ら。彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々であった。
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文芸と美術、こんなところで出会いが生まれていたんですね。小林秀雄と白樺派の文人たちが「ほんもの」を探して、訪れたであろう清春の地、ぜひ足を運んでみて下さい。
次回は、本芸術村のもう1つの見どころ、光の美術館についてご紹介したいと思います。

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