偉大な英国人旅行家に「こんなにも美しい部屋でなければよいのに」と言わしめた日本を代表する空間 栃木:金谷ホテル歴史館

アートな場所

今日から栃木県です。
いつも初回は少しユニークないわゆる王道の美術館とは異なるアート施設をご紹介しています。
今日もその1つ、栃木が誇る世界的観光地、日光に建つ歴史館です。では早速。

このブログで紹介するアート施設

金谷ホテル歴史館

・開館:2015年 ※金谷ホテル自体は1873年(明治6年)に創業した「金谷カテッジイン」がはじまり
・アート施設外観(以下、画像は美術館HP及び県・市観光協会HPより転載)

注)写真はホテルではなく歴史館です。

・場所
金谷ホテル歴史館 – Google マップ
→栃木が誇る湖、中禅寺湖を入れてみました。
※奥日光の入り口に位置する。周囲約25km、最大水深163mで、およそ2万年前に男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ、原形ができたと言われる。四季折々に美しい姿を見せることから、明治から昭和初期にかけては外国人の避暑地として賑わう。

「こんなにも美しい部屋でなければよいのに」と言わしめた日本を代表する空間

・代々東照宮の雅楽師を勤める金谷家に生まれた善一郎、ヘボン博士※1の進言により自宅を改造して「金谷ホテル」の前身となる「金谷カテッジイン」を21歳という若さで開業します。その後、日光を訪れる外国人が安心して泊まれる宿として評判を高めます。

金谷家の家屋は江戸時代には武家屋敷であったことから、外国人客は「金谷カテッジイン」を Samurai House (侍屋敷) と呼びました。滞在したイザベラ・バード※2は著書の中で”こんなにも美しい部屋でなければよいのにと思うことしきりである。” (完訳 日本奥地紀行Ⅰ金坂清則訳)と書いています。

140年以上の間、同じ場所に保存されてきた「金谷侍屋敷」および「土蔵」は、平成26年(2014年)国の登録有形文化財となり、平成27年(2015年)3月より「金谷ホテル歴史館」として一般公開。本館は日本が急速に西洋文化を受け入れはじめた明治の初期、日光に住むひとりの青年が開いた外国人のための宿泊施設がどのようなものであったのかを現代に伝える貴重な歴史文化財との事。「金谷侍屋敷」は日本最古の西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」発祥の地というだけでなく、江戸時代の武家屋敷の建築様式をそのまま残す建築遺産でもあるそうです。(金谷ホテルHPより)

※1 ヘボン博士(1815年3月13日生まれ – 1911年9月21日)…米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。幕末に訪日、横浜で医療活動に従事。また、聖書の日本語訳に携わり、また初の和英辞典『和英語林集成』を編纂、それによってヘボン式ローマ字を広めた人物としても知られる。東京で明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設して初代総理に就任するなど、日本の教育にも貢献。

※2 イザベラ・バード(1831年10月15日 – 1904年10月7日)…23歳(1854年)のときに、医師の薦めでアメリカ・カナダを訪れる。これを契機に72歳(1904年)まで、通算30年に亘る世界各地への旅行を行う。イザベラ・バードが旅行した地は日本の日光を含み、ロッキー山脈、サンドウィッチ島、マレー諸島、カミュール、チベット、ペルシャ、韓国、中国など。世界各地の旅行記の実績などが認められ、62歳(1893年)のときに英国地理学会(Royal Geographical Society)の特別会員に選出。

金谷ホテル歴史館の空間

      
※写真はブログ「蔭にも日の光」から転載(https://inafan.jp/5205

(付録)金谷ホテルの歴史

以下は金谷ホテルHPからの引用ですが、この歴史館ができるもっと以前、ホテル創成期について触れられていました。最後に日光を代表するホテルがどのような経緯を辿って今に至っているのかをご紹介して筆を置きたいと思います。
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・明治維新から間もない1873年(明治6年)日光の四軒町(現在の本町)に「金谷カテッジイン」を開業した金谷善一郎…20年後の1893年(明治26年)、日光に本格的な西洋式ホテル「金谷ホテル」を設立しました。1923年(大正12年)善一郎が72歳でこの世を去った後は株式会社化され、長男真一が代表取締役として精力的に経営、太平洋戦争中は外国人客はなくなり、多くの従業員が召集されたためにホテルの運営が困難になったこともありました。

1945年(昭和20年)の終戦と同時に始まった米軍による接収は1952年(昭和27年)まで続きます。昭和から平成へと時代は移り、新しい価値観が生まれる中、「金谷ホテル」は善一郎の「創業の精神」を受け継ぎ、「日本最古のリゾートホテル」としての伝統を守りながら今日に至っています。

金谷ホテルの開業を支えた人々

・明治の初期、外国人専用の宿泊施設を作ることは並大抵のことではなかったそうです。当時の日本人には外国人に対する深い偏見があり、外国語や異国文化を簡単に受け入れられる環境ではありませんでした。そのような中、進取の気性に富む善一郎にホテルの開業を勧めたのがヘボン博士でした。英語も話さず、海外にも行ったことのない善一郎が「金谷カテッジイン」を開業し、軌道に乗せることができた背景には善一郎を力強く支えた人々の存在があったからとの事。

ヘボン博士は自分の友人、知人に「金谷カテッジイン」を推薦、博士の薦めで訪れたイザベラ・バードは著書「日本奥地紀行」の中で善一郎や金谷カテッジインについて好意的な感想を述べ、世界的に発信しました。

家族のサポートも重要でした。特に善一郎の姉、申橋(金谷)せんは弟の仕事を影でしっかりと支えました。彼女の温和な性格と美しい立ち居振る舞いは多くの宿泊客に好感をもたれたそうです。

ホテル開業時に多額の資金が必要となった際には、日光の資産家である小林年保が善一郎に多大な融資をして「金谷ホテル」の開業を可能にしました。言葉や西洋文化の理解を助けたのは、アメリカでホテル業を学び帰国後に金谷カテッジインの通訳兼支配人となった坂巻正太郎でした。

※小林年保(ねんぽ)…1848(嘉永元)年に日光田母沢生まれ。やがて静岡経済界の頂点にのぼりつめた人物。江戸末期、日光奉行所同心のひとりとして幕府に仕えていた年保は、明治維新後に実業界に転身、31歳にして静岡第三十五国立銀行の頭取に就任。

来館した主な著名外国人


※1895年(明28)のゲストブック(下から3番目 Mrs. Bishop はイザベラ・バード)

※1922年(大11)のゲストブック(下から3番目 アルバート・アインシュタイン)

おもてなしの原点が生まれた場所

…いかがだったでしょうか。まだ外国人への偏見が強かった時代、英語も話せない青年が外国人を相手にした宿を営む、しかもそれが脈々といまの日光でも息づくというのは、創設者の大変なご苦労とご尽力があったからだと容易に想像できます。私も「英語が話せないから」と海外から目を背けてばかりいないで、善一郎青年を見習わないといけないなと感じました。

栃木県のはじまりとしては相応しいアート施設(場所)だったのではないでしょうか。
ではでは、次回もお楽しみに。

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