100年を生きる画家、野見山暁治 人はどこまでいけるか ④

アートな人

さて、3回にわたって100年生きる画家、野見山暁治さんを特集してきました。
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前回のブログで出征することが決まった野見山さん。戦地に赴きなにを感じたのか、今日も野見山さんの自伝「のこす言葉 人はどこまでいけるか」をもとに、書き綴っていきたいと思います。

<色のない世界>
・1943年秋、東京美術学校を繰り上げ卒業して郷里に帰り、兵隊に出る前日まで一人さまざまなことを考えました。周りでは、母や祖母が、出征祝いの宴会に料理は何を出したらいいかと準備をしている。ぼくは、同級生たちはどうしてるかなあ、と切なくてしようがなかった。電話がないでしょう、これは今とは大きく違うよ。会って話したいけれどそういうわけにはいかない。あんなに狂おしいほど、みんなの声が聞きたかったことはなかった。
・ぼくは親に突然、「やめてくれませんか」と言った。こんなときに皆と酒を飲むとか、ご馳走を食べるようなことはしたくない。一人にしてくれないかと。父親はずいぶん怒りました。あの頃、出征は目出度いことで、近所の手前もあるし、お祝いをしなければ「何を考えてるんだ」となじられる。

…これは当時の回想録ですが、野見山さんはここでも実に正直。
あまり政治論を書くつもりはありませんが、このような若者男子がお国のために身を犠牲にすることを良しとする社会の雰囲気が先の戦争の最大のリスクだったのかもしれません。
※これ聞いて、戦争と比べると怒られるかもしれませんが、何となく現代においてもブラック企業での過労死のニュースを思い出しました。。

さて、続きます。

・陸軍二等兵として歩兵隊に入って、満州の牡丹江に派遣されました。軍隊でも学校でも昔は記憶させられることが多かった。小学校では「教育勅語」を覚えさせられる。「朕惟フニ我皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。」戦争中は「軍人勅論」や「戦陣訓」、今でもスラスラでてきます。ぼくは人前では歌はめったに歌わないけれど、軍歌もほとんど覚えていて、歌詞は忘れないんだね。軍隊では歌で行軍のリズムをとるんです。
~(中略)~
もちろん絵は描けません。我慢するも何も軍隊に入れば当たりまえのことだった。そのうち満州のソ連国境に近いところに連れていかれた。何の色もない世界でした。ブリューゲルの「雪中の狩人」を思い出すのだけれど、一面雪に覆われていて、木には葉っぱがなくて枝だけ。幹の色と地面の色と屋根の色しかない。遠くかすんだ果ては雲と霧でほかには何もない。太陽なんて見えたもんじゃなくて、夜も昼もたいして変わらない。

ブリューゲル 「雪中の狩人」 ウィーン美術史美術館収蔵

・ある日、兵舎のあいだの坂を一人で歩いていたとき、足元にカーキ色が目に入ったんです。ドキドキっとしました。思わず拾おうとしたら、地面が凍り付いて拾えない。軍靴の先でガッガッとしばらく蹴って、かなり削ったら、ようやく見えてきた。――みかんの皮でした。涙が出てきました。世の中には色があったんです。すっかり忘れてしまっていた。どうしておれはその世界から遠ざかったのだろう。こんな色のない世界にやってきたんだろう。今すぐにでも色のある所に帰りたい。そのときもう耐えれなくなったんだ。自分のいるところが牢獄みたいに思えて。それまではただ遠いところに来たと思っていたけれど、遥か色のある世界にどうやったら行けるのか、歩いて行けるところではないとしても、なんとしても、命があったらそこまでたどり着かないと生きられないよと思った。今からすぐにそっちへ向かって走り出したい衝動に駆られました。叶わぬことと知りながら、切なくて、切なくて、とんでもないことになったと思った。
戦後、戦没画学生を哀れに思ったのは、彼らが戦地から生きて帰ったとしても、絵を描いたかは疑問ですよ。だって美術学校の卒業生のほとんどは生涯、描きつづけていない。絵は売れるものではないから。だけど、少なくとも絵描きに憧れて、憧れて、美術学校に入った人たちです。彼らは戦地で一度ぼくと同じ思いに駆られたに違いない、どこかで何かの色を見て「帰りたい」と切実に思っただろうし、ついに色の世界に帰れなかったのは、どんなにきつかったろう。もう死にきれなかったろう。そう思うとなんと慰めていいか、慚愧に堪えない。
ぼくは戦地で病気になってしばらく死にかけていました。生と死は紙一重で、ほとんど差がない。病室で隣のベッドに寝ていた兵隊は死にましたが、それは自分かもしれなかった。とすれば、僕の絵がいま「無言館」に飾られていた。自分の中には「おれは卑怯者だったんじゃないか。逃げてきたんじゃないか。」という後ろめたさがずっと抜けないんですよ。裏切りのような気持ち。それでぼくは今も生かされているのかもしれない。

…いかがでしたでょうか。日本ではもう戦争が終わって70年以上が経ちました。ここまで鮮明に生の声を聞ける機会はないのではないでしょうか。ちなみにこの満州の旧ソ連との国境付近は私の知る限りでは大変に寒いところで、ここに出征した方の証言の中には「体を温めるために灯油でも飲みたかった」というコメントも残っています。私の祖父は戦争から帰ってきて随分と酒に溺れて早世だったらしいのですが、もしかしたらこういう戦争時の心の傷も背景にはあったのかもしれないなとこれを読みながら思いました。

ところで、今回はあえてそんなに私が語るところはありませんが、野見山さんの回顧録で少し出てくる「無言館」、皆さんはご存じでしょうか?
ここは、日本で唯一戦没画学生たちの描いた作品が収蔵されている美術館です。

[無言館]

※無言館HP:https://mugonkan.jp/

戦後、野見山暁治さんは戦没画学生の遺族を訪ねて作品を譲り受け、それらを一堂に展示する戦没画学生慰霊美術館の設立に尽力されました。長野県上田市にありますので、近くを立ち寄られた際はぜひ一度足を運んでみて下さい。

 

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