実家は畳屋、「ダイエー」のサラリーマンが40年にわたって収集した6500点のコレクション 群馬:大川美術館

アートな場所

こんにちは。アーティストとコレクター、このブログでは切っても切り離せない存在としてご紹介してきました。そんなコレクター、一部の富豪の趣味と思っていませんか?

美術品の収集…一般人、ましてやいちサラリーマンが行ってもいいのです。そんなことを教えてくれる美術館が今日ご紹介するところです。では早速。

このブログで紹介する美術館

大川美術館

・開館:1989年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県観光協会HPより転載)

・場所
大川美術館 – Google マップ
→コレクターの生まれ故郷、群馬県桐生市に立地しています。

実家は畳屋、「ダイエー」のサラリーマンが40年にわたって収集した6500点のコレクション

・大川美術館は,桐生市出身の大川栄二が約40年にわたって収集した日本・海外の作家のコレクションを中心に,市の支援を得て、1989年(平成元年)に市内を一望できる水道山の中腹に開館。

大川栄二とは

・1924(大正13)年3月、群馬県桐生市に生まれ。桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)卒業。
・1946(昭和22)年、三井物産株式会社入社、エフワン株式会社代表取締役。
・1969(昭和44)年、ダイエー株式会社入社、副社長、サンコー(現・マルエツ)社長、ダイエーファイナンス会長を経て勇退。
・1989(平成元)年4月、桐生市に財団法人大川美術館を設立。理事長兼館長。
・2008(平成20)年12月、逝去。

→若い頃から芸術に興味があり、1949年(25歳)から1952年(28歳)にかけて肺結核のための入院療養の間、画家が描いた週刊誌の表紙を収集、これがのちの美術作品コレクションの原点となったそうです。

建物について

・建物は、山の中腹の5階建で、奥が深い構造。また、小さい展示室が多数連続する、美術館としてはユニークな建築との事。階段を下りながら、迷路を巡るように作品を鑑賞します。(このような作りになっている理由は、元々あった企業の社員寮を改装して美術館として活用しているからとの事)
→さすが元サラリーマン、社員寮を改修して美術館にしたというところがユニークですよね。大川さんならではという感じがします。

収蔵方針

・日本の美術史に大きな足跡を残した松本竣介(1912~48年)※1・野田英夫(1908~39年)※2のコレクションと、二人を軸に、彼らと人間的なつながりのあった画家の作品を中心に企画。(靉光、麻生三郎、国吉康雄、鶴岡政男、中村彝、難波田龍起、舟越保武、山口長男、脇田和、等)。
(更に竣介と野田に強い影響を与えたピカソ、ミロ、ルオー、モディリアーニ、ベン・シャーンらに代表される海外作品、清水登之の滞欧デッサン300点、日本の抽象画のパイオニア難波田龍起と二人の子供の作品群など)

※1 松本竣介…1912年東京都生まれ。幼少期から岩手県盛岡市で過ごし、盛岡中学校1年生の時に聴力を失う。中学3年生だった1929年に盛岡中学校を中途退学し、上京。その後、太平洋画会研究所に通った。1935年、鶴岡政男らが創設したNOVA美術協会の展覧会に出品し、同人に推薦。また同年秋には、二科展で《建物》(1935年)が初入選する。36年には雑誌『雑記帳』を創刊するも、売れ行きが伸びず37年12月号(通巻14号)で廃刊している。戦時中、雑誌『みづゑ』の1941年1月号に軍人が参加した座談会「国防国家と美術―画家は何をなすべきか―」が掲載された際は、同誌4月号に「生きてゐる画家」の題名で論考を発表。画家の精神の自立を説いた。《Y市の橋》(1943)や《立てる像》(1942)など、都会の風景や、そこで生きる人々を数多く描き、昭和前期の近代洋画史に足跡を残すも、1948年に結核が原因で死去。享年36歳。

※2 野田英夫…1908年カリフォルニア州サンタクララ郡アグニュー村生まれ。英語名はベンジャミン・ノダ。3歳のときに父の郷里熊本の叔父・羽島徳次に預けられ、熊本師範付属小学校、旧制熊本県立熊本中学校卒業後に帰国、1929年にアラメダ郡のビードモント高校を卒業、アメリカ人家庭のスクールボーイとして働きながら絵を学び、カリフォルニア・ファイン・アーツを中退、1931年にニューヨークに出てウッドストック芸術村で開かれていたアート・ステューデンツ・リーグの夏季講座に参加、同校教授アーノルド・ブランチや国吉康雄の支援を受け、壁画・テンペラ画を研究。共産党系の革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」に参加し、スコッツボロ事件(1931年に起こった黒人少年に対するでっち上げ裁判事件)を題材にした作品「スコッツボロの少年たち」で注目。1933年(昭和8年)にはニューヨークでディエゴ・リベラの壁画制作の助手を務めたが、翌年には再び来日、二科展に出品。一時アメリカに戻った後は新制作派協会会員として活動を続けるが、1938年、制作中に目の不調を訴え、翌年帝大病院で脳腫瘍のため早逝。享年30歳。

展示方針

・絵を「人格」であると考え、その「人脈」をたどるユニークな展示をコレクションの中から試み、常設展示(年4回入替)。特に松本竣介については「松本竣介記念室」を開設、油彩からデッサン、カット、資料までを展示しているそうです。各展示室にはソファーを配置するなどの工夫で、自宅で絵を見ているような、暖かい雰囲気でゆっくり過ごせるような「逢いたいときにいつでも逢える名画の館」を目指しているとの事。

主なコレクション

<松本俊介>

<野田英夫>
 

(付録)ダイエーとは

・もしかしたらこのブログを読んでくれている人の中には「ダイエー」の歴史をそこまで詳しく知らない方もいるかもしれませんね。最後に付録として一時代を築いたスーパーマーケットをご紹介して終わりとします。この歴史も何か皆さんのお役に立てるかもしれません。

<ダイエーとは>
・1957年実業家の中内が大栄薬品工業として設立。1959年主婦の店、1962年主婦の店ダイエー、1970年ダイエーに商号を変更。関西地方を中心に店舗を増設しながら全国展開、良質で安価な商品をモットーに成長し小売業界のトップとなった。1975年コンビニエンスストアのダイエーローソンを設立(→ローソン)。1988年よりプロ野球球団福岡ダイエーホークスを経営。1999年財務再建のため、多角化部門を持株会社の傘下へと分離を進めた。2001年、ローソンを三菱商事に売却。2002年、持株会社を清算。その後も自力再建の努力を続けたが,2004年10月産業再生機構に再建の支援を要請。再建策の一環として、2005年福岡ダイエーホークスをソフトバンク(→ソフトバンクグループ)に売却。2006年に丸紅が筆頭株主に。2007年イオンが参入し 3社による資本・業務提携を締結。2013年イオンがダイエーに対する株式公開買付 TOB(→株式公開買付制度)によって筆頭株主となり、ダイエーを子会社化。

…と、ここまでが表面上のざっくりしたダイエーの歴史です。この創成期に当館コレクターの大川栄二さんはどっぷりと浸かって、最後は副社長としてかじ取りを担うことになります。

(付録)ダイエーの趨勢

・20世紀の日本の流通・小売業界を発展させた代表的な企業、ダイエー。ショッピングセンターやゼネラルマーチャンダイズストアを日本で初めて導入しました。ライバル店の西友ストア(現・西友)などと苛烈な価格競争を繰り広げました。小売業に関しては、創業以来一貫して「価格破壊」をスローガンとする拡張路線を展開。1970年にカラーテレビの価格が10万円前後であった時期に、クラウン(当時存在していた電機メーカー)を巻き込み5万円台で発売するなど話題を集めた。価格破壊とともに質への需要などニーズが多様化すると、「ダイエー」のほかに「トポス」「ビッグ・エー」「Dマート」「グルメシティ」「Kou’s」「プランタン」など業態ブランドを拡大化し多様化する消費者ニーズに応えながらも流通革命により価格破壊を志向する「よい品をどんどん安く (GOOD QUALITY BEST PRICE)」「お客様のために (For the Customers)」の方針で事業が進められた。小売業以外にもホテル、大学、プロ野球、出版、金融など事業分野の多角化に乗り出し、特に、創業者の故郷である神戸市内と所属球団福岡ダイエーホークスの本拠地に定めた福岡市内で、グループ子会社とともに事業を数多く手がけた。

1990年代後半から業績悪化が表面化するもダイエーは不採算店舗を閉店させない方針へ、1995年の阪神・淡路大震災による創業以来初の赤字決算の際に緊急措置として店舗の閉店をとったことはあったが、それ以外では原則は店舗を閉店させることはなかった。しかし1997年2月にも再度の赤字決算となり収益改善が急務に。その結果これまでの方針を転換し、1998年から同社初の店舗の大量閉鎖に踏み切る。収益向上のために100店舗では改装費用では最高額となる400億円を投じて改装を行った。その後も様々な改革を行うも赤字決算となる。経済産業省出身の雨貝二郎会長から引き続いて、高木邦夫社長時代の2004年から産業再生法の適用及び産業再生機構からの支援を経て、丸紅およびイオンとの連携のもと、非主力事業の譲渡やコア事業である小売部門の縮小などの再建策が行われる。この再建策により経営破綻(倒産)は回避される。

2013年には、イオンがダイエー株の株式公開買付けを行い、ダイエーを完全子会社化することを発表。事実上の筆頭株主であった丸紅は、この買付けに対し、約24%のダイエー株を応募することでイオンと合意。ダイエーも子会社化に同意し、イオンと丸紅の間で資本提携契約を解消、2015年に完全子会社化が成立。

経営不振後は「バブルの負の遺産の象徴」として語られることもあるが、高度経済成長下の時代においては、新しい業態を開発し、流通業界を牽引する役割を果たしていた。また、流通革命や価格破壊の結果、これまでメーカーが握っていた価格決定権を小売業者に移行したこともあり、これらが無ければ1990年代後半から小売業の主役になっているコンビニエンスストアを始め、ディスカウントストアや家電量販店、ドラッグストアなどの安売り店は日本に存在しなかったとする識者もいる。(マウス調べ)
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(ここからは私の雑感です)
・ダイエー…上でマーカーもしましたが、業績悪化が表面化した後も不採算店舗を閉店させない方針をとり続けたことが後々倒産手前の危機にまで追い込んでしまったとの見方もあります。これは大川さんがいた時から続くある意味でダイエーの最も大事にしていた部分であったのかもしれませんが、結果的にこれが決定打となってしまったのは皮肉な話です。

大川栄二さん…1969年にダイエーを勇退されていますので、現役として勤められた頃はまさに創業者(中内㓛氏)の生まれ育った阪神地区から全国区に拡大していた時期と重なります。その後、2008年に亡くなられるまで、自分のいた組織の窮地をずっと目の当たりにすることになります。

大川さんはどのような想いでそれを眺めていたのか、それはもはや知る由もありませんが、「ダイエー」という看板が無くなっていく過程で、何か少しでも自分の残してきたものを今後未来を担う若者たちに伝えていきたいと強く思ったはずです。

そんな時代の寵児が抱いた想いを胸にそのコレクションを観覧されるとまた違った視点で見えてくるかもしれませんね。群馬県桐生市:大川美術館、ここもまた勉強になりました。

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