紅白歌合戦に8回出場の人気歌手・女優の地位を捨て設立 静岡:ねむの木こども美術館

静岡県

こんにちは。マウスです。
静岡県、次は女優:宮城まり子さんが1968年に肢体不自由児(身体障害者)・孤児・拒食症(精神疾患者)などの救済・支援を行う日本初の民間社会福祉施設として設立したねむの木学園が源流の美術館のご紹介です。

…宮城まり子さん、ご存知でしょうか?ピンとこない方もこれを聴けば分かると思います。

→もしかしたらこのCDジャケットを見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。この方が宮城まり子さんで。なんと紅白歌合戦に8回も出場され、その後福祉事業に専念するため芸能界から引退されました。

日本の流行歌スターたち(36) 宮城まり子

このブログで紹介する美術館

ねむの木こども美術館

・開館:2007年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
ねむの木こども美術館 – Google マップ

紅白歌合戦に8回出場の人気歌手・女優の地位を捨て設立

・女優:宮城まり子氏が「すべてのこどもたちに教育が受けられる権利を与えたい」との強い思いから1968年に設立した日本で初めての肢体不自由児のための養護施設が源流。本施設「ねむの木学園」の子どもたちが描いた絵を集めた美術館で、ねむの木村内に2007年に開館。「ねむの木子ども美術館」(どんぐり)には、ねむの木学園の子どもたちの絵画が約120点展示。のどかな山里の風景に溶け込む外観は、浜松市秋野不矩美術館も建造した建築家:藤森照信さんの設計です。

→そういえばこのようなコンセプトの美術館…福島県でご紹介した「はじまりの美術館」もありましたね。覚えていらっしゃいますか?あそこは2014年の開館でしたが近頃はこのような擁護施設のアートも見直されてきています。

宮城まり子さん 年表

・1955年、ビクターレコードより「ガード下の靴みがき」で歌手としてデビュー。東宝劇場出演中スカウトされ、ミュージカル等の舞台に立つ。1958年「12月のあいつ」にて芸術祭賞受賞。1959年「まり子自叙伝」にてテアトロン賞受賞。その後、舞台、テレビと活躍を続ける。
・1968年、日本最初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」設立。
・1973年、吉川英治文化賞受賞
・1974年、映画「ねむの木の詩」製作監督。
・1977年、映画「ねむの木の詩がきこえる」製作監督。
・1979年、「ねむの木養護学校」設立(小学部、中学部) ねむの木学園設立以来、10年余の実績が認められ、成人に達しても必要であればとどまれる「肢体不自由児療護施設」という新しい制度が生まれた。 総理大臣表彰を受ける。
・1980年、女性の地位向上に対して「アデライデ・リストリ賞」受賞。映画「虹をかける子どもたち」製作監督。
・1982年、ねむの木養護学校高等部開校。
・1984年、映画「A Big Hand for All Children」(英語版)製作監督。ねむの木のこどもたちによる劇団「虹」結成、コンサート活動等始める。
・1986年、映画「Hello Kids!」製作監督。
・1987年、手描友禅の指導を始める。パリ市立近代美術館にて美術展「Nemunoki」開催。
・1989年、本格的にコーラスの指導を始める。ビクターより、子どもたちのコーラスなどを集めたCD「ねむの木」発売。こどもたちの劇団「虹」とともに芸術祭賞受賞。
・1991年、ニューヨーク、ケルン、ローマにて「ねむの木学園美術展」および「シンポジウム:障害児教育における美術教育」開催。辻村教育賞、エイボン女性大賞受賞。
・1992年、広島大学から、第一回「ペスタロッチ教育賞」受賞。
・1993年、「東京都文化賞」受賞。
・1994年、「博報堂教育特別賞(文部大臣奨励賞)」受賞。
・1996年、日本肢体不自由児協会より高木賞受賞。
・1997年、長年住み慣れた浜岡町より掛川市へ移転、同年身体障害者療護施設「ねむの木のどかな家」を設立。
・1998年、子供たちの実習場所として「森の喫茶店MARIKO」、「がらす屋さん」、「雑貨屋さん」、「毛糸屋さん」、地域交流としての「インフォメーションセンター」設立。
・1999年、文化施設として「吉行淳之介文学館」、「ねむの木こども美術館」を開館。
・2000年、第5回尾崎行雄咢堂賞受賞。静岡県都市景観賞最優秀賞受賞。
・2003年、「NEMUNOKIガラス工房」を開設。
・2004年、「石井十次賞」受賞。障害児教育に取り組み、高校・大学への進学の道を切り開いてきたことにより受賞。「東京都名誉都民」の顕彰を受ける。「掛川市特別有功賞」受賞。児童の教育・学術文化の発展に尽くしたことにより受賞。宿泊施設として「MARIKOガーデンハウス」をオープン。(2004年春)
・2020年3月21日、宮城まり子氏(本目眞理子)永眠。満93歳。従五位を授与。

→生前、「やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ」と何度も述べられていたそうです。深い言葉ですね。

宮城まり子さん 遺した言葉

・あまりHPなどで絵画の画像は出てきませんでしたが、最後に、宮城さんが遺した言葉が印象的でしたのでこちら掲載しておきます。
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・ねむの木学園と名前をつけた、とにかく、手足にハンディキャップを持ち、精神におくれを持ち、家で、家族がめんどうをみることの出来ない子が、小学校、中学校に、通うことが免除される就学猶予という法のもとに学校に行かなくてもいいことを知り、私は、自分の幼い頃からなにかを学びたいという心と、小・中学は義務教育ではないの、その義務を放棄してしまうなんて、許せない、そんな思いつめた心から、又、自分が、自立できていることの申しわけなさみたいななにか、許せない心で日本にまだ、法律もなかった障害を持つ子のお家をつくってしまった。まだ、制度もないこの仕事は、許可を得るまでが大変、そして本当に大変だったのはこども達を受け入れたときからだったんです。

めんどうを見てもらう職員さえ、どこで、どうさがしたらいいかわからない私。町の小学校から、分教場として、何人かの先生が、来て下さるようになったことの喜びと、とまどい。特に私は幸せな自由な教育を受けていましたので、なおざりの教師への怒り、考えに考えた末、事務職員も未だおちついていない時、学校の独立を考えてしまいました。
なにか一つ出来ればいいじゃないの。
心が集中すれば、なにかが出来るのじゃないの。そんな学校あってもいいじゃないの。
私の本当の心でした。

海岸にかにがたくさんいるわけないのに、こどもから見せられた絵は、海と砂浜でした。砂浜に蟹がたくさん遊んでいました。
蟹をこの子は、みたことがない、すぐ感じました。「蟹ね、自分で書いたの?」きつい心の言葉でした。「ううん、先生が二つかいてくれて、これみたいにかきなさいっていたのよ」それは、素直な言葉でした。
私は、率直答えたこの、その頭をなぜてあげながら、いかり狂っていました。その蟹は足が六本でした。ハサミもありませんでした。目玉は少し出っぱって二つ、知恵がおくれているから、足も足りない、はさみも足りない知恵おくれのこは、数がわからないから、わざと、おくらしたのでしょうか?
「ちがうよ」言葉になりそうになったのを、ぐっとこらえました。
人間を尊重していない・・・お友達の谷内六郎さんに遊びに来てもらって、私たちは、放課後、美術クラブをつくりました。砂丘とカニなんて題をつけるから、束縛されるんです。自分の思ったまま、感じたまま、谷内さんも私も同じ意見でしたので、そばで別のことしながら絵をかく雰囲気をつくることにしました。二人とも、決して教えませんでした。

ロックをかけたり、おかしをたべたり、ねっころがったり、それは、楽しいクラブでした。今も、ねっころがってかく習慣は残っていて、大きくなった男の子が大の字にうつぶせになって大きな紙に絵をかいていると、それだけで、いっぱいになるような気がします。○と□と△これだけは、はじめて絵をかく子の基本ね、私は幼稚部の先生達にいいます。

或る日、例によって、谷内さんは、うたい、私はお菓子の支度をしていた時、花が一つ、その中にまり子さんが手を広げている絵が出ました。谷内さんも私もデターとさけびました。そして、その後、ドンドンとこども達は絵をかき出したのです。学校を、独立させて丸十数年みなさんのおすすめで、始めの頃、中頃、近頃となんとなく、わけて大切にしてある三千点あまりの絵を全部フィルムにとり、この一冊をつくりました。もう一冊つくりたいよ、私はいいます。これ落とすのかわいそうだよ、いいんです。ふえすぎます。スタッフはいいます。ツカ見本と色校が出来た時、この本がいとおしいと思いました。このこたちの絵は、ニューヨーク、パリ、スウェーデン、スイス、イタリー、ドイツ、と大きな展覧会をしていただき、国際交流をしています。「ねむの木学園は、絵の上手な子だけ選んで入学させるんですか」そう聞かれる時がよくあります。私は、胸をはって答えます。「いいえ、どの子もいっしょです。選んでなんかいません。」

こども達、次から次から入園してくる小さいこも私一人で、ワァーとさけぶような絵をかき出します。無限のこども達そして才能、いいですね。あなたの本箱に、ずっとおいて下さい。まり子の命と願いとありったけ愛が入ってます。

「ねむの木子ども美術館」(1995年刊)より
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