現代美術界の鬼才、80歳の頃に寄贈した作品群が開館のきっかけ 神奈川:川崎市岡本太郎美術館

神奈川県

こんにちは。今日から神奈川県です。残すは東京、京都、長野、香川の4県になってしまいました。(といってもこの神奈川県もたくさんの美術館が立地しています)

これまで多くの美術館をご紹介してきましたが、意外にもこの方の名前は挙がっていなかったかもしれません。私の印象だと東京方面に行って地下鉄やJRなどに乗ると、通路の壁などにこの方の作品のプリントやチラシが並んでいるような記憶があります。大阪にある太陽の塔が超有名ですが、どちらかというと関東方面のイメージです。そんなイメージ通りと言ったところでしょうか、生まれも育ちも実は川崎市民なのですね。それでは早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

静岡県立美術館

・開館:1999年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、市観光協会HPより転載)

・場所
川崎市岡本太郎美術館 – Google マップ

現代美術界の鬼才、80歳の頃に寄贈した作品群が開館のきっかけ

・岡本太郎の生誕の地である川崎市にある、川崎市市民ミュージアムで回顧展が行われたことをきっかけに、1991年に岡本太郎氏の所有する主要作品352点が川崎市に寄贈されたことをきっかけに、生田緑地内に美術館建設が決定。(生田緑地内には、岡本太郎美術館だけではなく、日本民家園、かわさき宙(そら)と緑の科学館、伝統工芸館などの施設が設置されています。)

岡本太郎美術館は、「自然と融合した美術館」をコンセプトに、展示室を始めとするほとんどの施設を地下に据え、地上にはシンボルタワーである「母の塔」を中心とする公園スペース、カフェテリアや湧水を利用した池や滝など、美術館機能だけでなく生田緑地の自然を取り入れた、市民の憩の場となる設計となっています。

岡本太郎とは

・太陽の塔など、多くの作品を残した日本の芸術家。1911年、マンガ家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の間に神奈川県に生まれる。1917年、小学校に入学するが、1学期で退学。翌年4月に慶應義塾幼稚舎に入学。1929年に慶應義塾普通部を卒業し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
この年、両親に同行してヨーロッパへ渡航し、約10年にわたってフランスで過ごす。在欧中にピカソの絵を初めて見て影響を受ける。1937年、初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クルチオン序文)を刊行。

1940年には第2次世界大戦のため、マルセイユから帰国し国内で活動を開始。1941年、二科会に「傷ましき腕」(油彩)、「コントルポアン」(シルクスクリーン)などを出品し二科賞を受賞。1942年から中国戦線に出征、1946年に復員。自由の国フランスと日本軍国主義の違いに苦しんだとされる。また、戦時中にアトリエや作品は全て空襲で失われる。

戦後は、花田清輝らと「夜の会」を結成、前衛美術運動を始める。旧態依然とした日本の美術界に対し、自由で前衛的な芸術活動を展開する一方、縄文土器に美術的価値を見出し、日本の伝統や風俗にも目を向ける。作品は、絵画、彫刻から、舞台、建築、プロダクトデザインなど多岐にわたり、ピアノ、スキーにも取り組むなど、活動は幅広い。マスコミに積極的に登場し、「芸術は爆発だ」などの名言でも知られる。

1970年に大阪で開催された万国博覧会で、シンボルタワー「太陽の塔」を制作。博覧会終了後は取り壊されることとなっていたが、市民による保存運動により保存され、今日では高度成長期の日本を象徴する建造物となった。1996年没。

→ところで、皆さんも東京にいると目にしたこともあるかもしれませんが、東京・渋谷駅のJR線と京王井の頭線を結ぶマークシティ内連絡通路に公開・恒久設置された太郎氏がメキシコで制作した壁画「明日の神話」(現在は修復版)、この作品に2011年5月、アート集団「Chim↑Pom[チン↑ポム]」によって東日本大震災による福島第一原発事故を思わせる落書きが付け加えられたことが話題になりました。良くも悪くも人を今でも人々を惹きつける魅力にあふれていると言えるのかもしれません。
(※Chim↑Pomは、フロントウーマンのエリイ、リーダーの卯城竜太ほか、林靖高、水野俊紀、岡田将孝、稲岡求から成る6人組の現代アート集団です。 消費社会や震災、原爆といった社会の課題をテーマに、映像作品を織り交ぜたインスタレーション作品を中心に制作・発表している。)


※明日の神話 保全継承機構HPから転載(https://www.asunoshinwa.or.jp/introduction/

(参考)岡本太郎年表

・1911(明治44年)
2月26日/大貫家にて漫画家・岡本一平、歌人で小説家・岡本かの子の長男として、かの子の実家のある神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)に生まれる。
・1917(大正6年)6歳
4月/青山の青南小学校に入学するが1学期で退学し、私塾・日新学校、十思小学校と転校を繰り返す。
・1918(大正7年)7歳
慶応幼稚舎に入学し、寄宿舎に入る。
・1925(大正14年)14歳
2月/野口富士男ら同級生との同人誌のため、春のボートレース対抗試合に負けた悔しさを表現した《敗惨の歎き》を制作。
・1929(昭和4年)18歳
3月/慶應普通部を卒業し、翌月東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。12月/一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し渡欧するため、一家で箱根丸にて神戸港を出発。
・1930(昭和5年)19歳
1月/マルセイユを経由してパリに到着。一平、かの子は取材のためロンドンに向かい、太郎は一人パリに残る。7-8月/ロンドンのハムステッド・ヒースの両親のもとで夏休みを過ごす。
・1931(昭和6年)20歳
3月/パリ郊外にあるセーヌ県ショアジー・ル・ロワのリセ「パンシオン・フランショ」(市立学校寄宿舎)で生活。9月/パリ大学ソルボンヌ校でヘーゲル美学を受講する。
・1932(昭和7年)21歳
1月/両親は帰国の途につく。夏、ラ・ポエッシー街のポール・ローザンベール画廊にて、ピカソの作品《水差しと果物鉢》(1931年)に感動する。10月/サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に《空間》を出品する。以降、何年かにわたり出品する。
・1933(昭和8年)22歳
12月/非具象芸術グループ「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造協会)」の展覧会に出品する。
・1935(昭和10年)24歳
「アプストラクシオン・クレアシオン」のメンバーであるクルト・セリグマンと「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱し、手に届く実感のあるものを追究する。7月/ジュンヌ・ユーロップ画廊で太郎とクルト・セリグマン、スイス人のウィリアミがグループ展を開く。
・1936(昭和11年)25歳
1月/マックス・エルンスト、パトリック・ワルドベルグとグラン・ゾーギュスタン街の屋根裏で開かれたコントル・アタックの集会に参加し、ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受ける。 「アプストラクシオン・クレアシオン」を脱会する。
・1937(昭和12年)26歳
6月/G.L.M.社より初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クールティオン序文)が刊行される。10月/サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に《傷ましき腕》を出品し、アンドレ・ブルトンに評価される。
・1938(昭和13年)27歳
1月/国際シュルレアリスム・パリ展に《傷ましき腕》を出品。アンドレ・ブルトンらシュルレアリストらとの親交が深まる。7月/バタイユからの推薦により、秘密結社「アセファル(無頭人)」に参加する。パリ大学でマルセル・モースに師事し、民族学を学ぶ。
・1939(昭和14年)28歳
2月18日/母・岡本かの子没(享年49)。
・1940(昭和15年)29歳
6月/ドイツ軍によるフランス侵攻により、最後の引き揚げ船・白山丸で帰路につく。
・1941(昭和16年)30歳
9月/第28回二科展に滞欧作品《傷ましき腕》《コントルポアン》など4点を特別出品し、二科賞を受賞。11月/「岡本太郎滞欧作品展」を銀座三越にて開催。横光利一、藤田嗣治、岡鹿之助らがパンフレットに執筆。
・1942(昭和17年)31歳
1月/現役初年兵として兵役につき、中国戦線へ。
・1946(昭和21年)35歳
6月/約半年間の中国・洞庭湖近くの俘虜生活を経て復員。戦火により青山の自宅にあった作品の全てを焼失したことを知る。一平の疎開先である岐阜県加茂郡西白川村を訪ね再会する。鎌倉の川端康成宅、かの子の実家などを転々とする。
・1947(昭和22年)36歳
4月/二科会員に推挙される。上野毛にアトリエを構える。9月/第32回二科展に《夜》《憂愁》を出品。
・1948(昭和23年)37歳
花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を開始する。安部公房、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らが参加。2月/日本アヴァンギャルド美術クラブの主催で「モダン・アート」展が開催される。8月/「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足。花田清輝、瀬木慎一、池田龍雄、勅使河原宏、山口勝弘、福島秀子、北代省三、平野敏子らが参加し、東大赤門前喜福寺を会合の場所とする。9月/第33回二科展に《夜明け》を出品。10月11日/父・岡本一平没(享年62)。一平のデスマスクを描く。以後、一平の後妻と3人の子供は太郎が引き取り生活の面倒をみる。
・1949(昭和24年)38歳
2月/第1回日本アンデパンダン展に《赤い兎》を出品。 9月/第34回二科展に《重工業》を出品。 『新しい芸術の探求』(夜の会編)が月曜書房から出版される。
1950(昭和25年)39歳
1月/読売新聞社主催の「現代美術自選代表作十五人展」に前年再制作した《傷ましき腕》《露店》等を出品。2月/第2回日本アンデパンダン展の開会日に食堂で「対極主義宣言」を読み上げ、対極主義美術協会の結成を呼びかけるが、賛同を得られず流会となる。9月 第35回二科展に《森の掟》を出品。
・1951(昭和26年)40歳
11月/戦後に制作された作品を集めた「岡本太郎展」が日本橋三越で開催される。東京国立博物館にて縄文土器を見て衝撃を受ける。
・1952(昭和27年)41歳
2月/縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。2月/第4回日本アンデパンダン展にモザイク・タイルによる壁画の第1作《太陽の神話》を出品。3月/地下鉄日本橋駅に26メートルのモザイク・タイル壁画《創生》を制作。 常滑焼による作品《顔》を制作。5月/パリでの「サロン・ド・メ」展に《夜明け》《堕天使》を出品。10月/大阪・高島屋にて「岡本太郎展」渡欧記念展を開催。11月/翌年にかけてヨーロッパを再訪し、マックス・エルンスト、ジャン・アルプらと再会。この頃よりスキーを始める。
・1953(昭和28年)42歳
1-2月/パリ・クルーズ画廊にて個展。当時パリにいた海藤日出男、菅井汲、今井俊満、田淵安一らが手伝い、ヴェルニサージュにはザッキン、ソニア・ドローネー、バタイユ、ラゴン、ミショー、スーポーらが来訪。4月/南仏・ヴァロリスのピカソのアトリエを訪ねる。7月/日本のアヴァンギャルド芸術家約50人と瀧口修造、植村鷹千代ら批評家が加わって国際アート・クラブ日本支部が結成され、その代表に選出される。9月 ニューヨークのヒューゴー画廊にて個展。10月 日本橋・高島屋ショウウィンドーのディスプレイを担当。東京国立博物館表慶館で開催された「ルオー展」を日本テレビで会場から生中継で解説。初のテレビ出演と思われる。第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表の1人として出品。『青春ピカソ』(新潮社)を出版。
・1954(昭和29年)43歳
6-10月/第27回ヴェネチア・ビエンナーレに日本代表として、坂本繁二郎とともに選出される。8月/光文社より『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』が刊行され、ベストセラーになる。10月/坂倉準三設計によるアトリエが青山(現・岡本太郎記念館)に完成し、現代芸術研究所を設立。一平の七回忌に多磨霊園にある墓碑へ陶の作品《顔》を設置。
・1955(昭和30年)44歳
4月/淡交社主催の「実験茶会」の亭主として茶会を催す。9月/第40回二科展に《瞬間》を出品。二科会第9室に若手作家を集めた特別室ができ、「太郎部屋」と呼ばれ注目される。12月/現代芸術の会の第1回例会が開かれる。出席者は太郎のほか、丹下健三、亀倉雄策、柳宗理ら。以降毎月例会がもたれ、花田清輝、安部公房、丹下健三ら様々なジャンルの講師を迎える。原爆と人間を象徴する大作《燃える人》を毎日国際展に出品。ヘリコプターで東京・銀座の夜空に光で絵を描く。
・1956(昭和31年)45歳
1月/島耕二監督のSF映画「宇宙人東京に現わる」の宇宙人等のデザイン、及び色彩指導を務める。8月/東京・中央区築地にある松竹セントラル劇場にモザイク・タイル壁画《青春》を設置。9月/東京大手町・大和証券ホールに陶板レリーフ壁画《踊り》を制作。10月/丹下健三設計の(旧)東京都庁に11面の陶板レリーフを制作。11月/日本橋・高島屋にてアート・クラブ、朝日新聞社主催の「世界・今日の美術」展を企画し、ジョルジュ・マチュー、サム・フランシス、ジャン・フォートリエらアンフォルメルの作家を多数紹介する。縄文土器論を収録した『日本の伝統』(光文社)を出版。
・1957(昭和32年)46歳
4-12月/「日本再発見―芸術風土記」を『芸術新潮』に連載し、日本各地を精力的に取材する。ミシェル・タピエが来日の際にジョルジュ・マチューを太郎に紹介。太郎はマチューの公開制作のためにアトリエの庭を提供する。アンフォルメルがブームとなる。7-11月/第11回ミラノ・トリエンナーレに陶版画《陽》を出品。
・1958(昭和33年)47歳
4月/国鉄(現在のJR)神田駅地下道に3面のモザイク・タイル壁画を制作。5月/第3回日本現代美術展に《ドラマ》を出品。9月/『日本再発見―芸術風土記』(新潮社)を出版。
・1959(昭和34年)48歳
8月/武智鉄二演出のオペラ「ローエングリン」(東京国立競技場)の美術を担当する。 9月/第44回二科展に彫刻《動物》を出品。 11月/沖縄に旅行し、「御嶽」に感動する。 12月/長野県戸倉スポーツランドにモニュメント《動物》を制作。 東京都庁の壁画に対し、フランスの雑誌『今日の建築』の国際建築絵画大賞が授与される。『画文集・黒い太陽』(美術出版社)を出版。
・1960(昭和35年)49歳
6月/東京・銀座松坂屋中央ホールに《真夏の夢》をディスプレイする。3-12月/「沖縄文化論」を『中央公論』に連載する。
・1961(昭和36年)50歳
1月/『忘れられた日本<沖縄文化論>』(中央公論社)を出版し、毎日出版文化賞を受ける。 4月/草津白根山でスキー中に骨折。ギプスのはめられた足に想を得て、彫刻《あし》を制作。6月/東京宝塚劇場・東宝劇団歌舞伎旗揚げ興行「寿二人三番叟」の美術を担当する。8月/二科会を脱会する。11月/東京・銀座、東京画廊にて個展。 カルピス相模原工場に、モザイク・タイル壁画《初恋》を制作する。
・1962(昭和37年)51歳
4月/東京・後楽園ボウリングセンターにモザイク・タイル壁画《赤》《青》の2面を制作する。11月/川崎市多摩川河畔に岡本かの子文学碑《誇り》を制作する。12月/東京・池袋駅前広場にアルミ製クリスマス・モニュメント《メリー・ポール》を制作する。 アントニン・レーモンド設計のデッブス邸茶室(東京・渋谷)の浴室構成を行う。
・1963(昭和38年)52歳
2-3月/フランス、イタリア、アメリカ、メキシコを旅行する。12月/東京・池袋駅前広場に東京オリンピックを記念して《ヴィクトリー・ポール》を制作する。
・1964(昭和39年)53歳
1月/池袋・西武百貨店と銀座・東京画廊で個展を開催。会場構成は磯崎新による(名古屋、川崎、仙台、福岡、千葉、大阪を巡回)。8月/東京オリンピック参加記念メダルを制作する。10月/丹下健三設計による代々木国立競技場に陶板レリーフとモザイク・タイル壁画を制作。 12月/韓国に取材旅行に出かける。『神秘日本』(中央公論社)を出版。
・1965(昭和40年)54歳
1月/「岡本太郎の眼」を『週間朝日』に連載する。8月/銀座・東京画廊にて梵鐘とろうそくの作品による「鐘と炎」展を開催する。10月/名古屋・久国寺に梵鐘《歓喜》を制作。
・1966(昭和41年)55歳
1月/旧正月行事取材のために香港、マカオへ取材旅行。7月/伊豆・富士見ランドに高さ7,3メートルの彫刻に吊るした《太陽の鐘》を制作する。 11月/銀座・数奇屋橋公園に《若い時計台》を制作する。12月/沖縄を再訪し、12年に1度行われるイザイホーの神事を取材する。
・1967(昭和42年)56歳
6月/日本万国博覧会のテーマ館展示プロデューサーに就任する。7-9月/テレビ映画「岡本太郎の探る中南米大陸」撮影のため、中南米に旅行する。
・1968(昭和43年)57歳
1-2月/万国博へ国際協力の要請をするため、パリ、プラハ、ロンドンを歴訪。グルノーブル・オリンピックを視察する。2月/メキシコのホテル、オテル・デ・メヒコの大壁画《明日の神話》制作のため、現地にアトリエを構える。3月/万国博テーマ館展示の基本構想を発表。6月/東京・銀座松屋にて「太郎爆発」展が開催される。会場構成は磯崎新。9月/東京・大田区山王にマミ会館の建築設計をする。『原色の呪文』(文藝春秋)、『画集・岡本太郎』(美術出版社)を出版。
・1969(昭和44年)58歳
2月/ライター《火の接吻》が売り出される。犬山ラインパークにシンボルタワー《若い太陽の塔》を制作。8月/別府駅前サンドラック・ビルの外壁に陶板レリーフ壁画《緑の太陽》を制作。メキシコにて《明日の神話》の制作を続ける。
・1970(昭和45年)59歳
「わが世界美術史」を『芸術新潮』に1年間連載する。3月/日本万国博覧会シンボルゾーン中央に《太陽の塔》《母の塔》《青春の塔》を含むテーマ館完成。テーマ館館長を務める。7-9月/「TARO爆発」展がパリ、アルジェ、チュニスを巡回。泉靖一との対談からなる『対談・日本列島文化論』(大光社)を出版。
・1971(昭和46年)60歳
2月/日商岩井音羽マンションのインテリア構成を行う。7月/パリ、フォーブル・サントノーレ芸術祭「街の美術館」に《樹人》を出品し、祭りの王様に選ばれる。11月/名古屋のオリエンタル中村百貨店正面外壁に光る大壁画を完成。『美の呪力―わが世界美術史』(新潮社)を出版。
・1972(昭和47年)61歳
2月/札幌オリンピックの公式メダルを制作。 3月/山陽新幹線開通にあわせ、新幹線岡山駅に陶板壁画《躍進》を制作。 3-5月/ミュンヘン市ハウス・デル・クンストで開催された「シュルレアリスム」展に《傷ましき腕》を出品(パリ・ルーブル美術館内装飾美術館を巡回)。5月/ミュンヘン・オリンピックの公式メダル制作。
・1973(昭和48年)62歳
7月/飛行船(積水ハウス、全長56メートル)に絵を描く。
・1974(昭和49年)63歳
3月/パリで版画集『アプストラクシオン・クレアシオン・アール・ノンフィギュラティーフ1931-36』が刊行され、アルプ、カンディンスキー、モンドリアンら代表作家30人の中に選ばれる。NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》制作。8月/きもの柄をデザインし、《TAROきもの》として発売される。11月/パリのエディシオン・ポール・ネムーより、最初の版画集『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー)を刊行する。12月/信州・野沢温泉にシュナイダー記念碑を制作。 諏訪大社近くにある「万治の石仏」に出会い絶賛する。
・1975(昭和50年)64歳
1月/《太陽の塔》の永久保存が決定される。3月/晴海の店舗システム・ショーに岡本太郎そっくりの人形(製作・七彩工芸)が出品され話題となる。 7月/パリ大学民族学教授ジャン・ルーシュのインタビューと撮影による「岡本太郎―マルセル・モースの肖像」が、イタリア・アゾロの映画祭で芸術家の伝記大賞を受賞。10月/パリ国際センターに5枚の壁画を制作。
・1976(昭和51年)65歳
1月/著作『美の呪力』の仏訳がパリのセゲール社より出版される。1-2月/「TARO展―挑み・燃え・ひらく岡本太郎」が日本橋高島屋で開催される(パリ市ガリエラ美術館を巡回)。3月/キリン・シーグラム社のロバート・ブラウン発売2周年記念に《顔のグラス》を制作。4月/ガリエラ美術館での展覧会を記念して、版画集と画集が出版される。11月/スペインに旅行し、翌年報知新聞に紀行を連載。
・1977(昭和52年)66歳
スペイン国立版画院に、日本人で初めて銅版画が収蔵される。12月/ベルギーで制作した創作デザイン・トランプが講談社より発売される。『岡本太郎の挑戦するスキー』(講談社)を出版。
・1978(昭和53年)67歳
9月/テレビ番組「もう一つの旅」撮影のため、パリ、マジョルカ島を経て、バルセロナにガウディの建築を見に行く。10月/福山市・日本はきもの博物館中庭に《足あと広場》を制作。
・1979(昭和54年)68歳
1月/「人生相談・にらめっこ問答」の連載を『週刊プレボーイ』(集英社)にて始める。 2月/札幌雪まつり30周年を記念するシンボル、大雪像《雪の女神》を制作。9月/『岡本太郎著作集』(全9巻・講談社)が翌年にかけて出版される。 10月/作品集『岡本太郎』(平凡社)を出版。
・1980(昭和55年)69歳
2月/新宿・小田急グランドギャラリーでの「挑む―岡本太郎」展を記念して、新宿駅西口広場で、絵画文字《挑む》の公開制作を行う。 4-5月/諏訪の御柱祭を取材する。
・1981(昭和56年)70歳
3月/極彩色の鯉のぼり《TARO鯉》が発売される。6月/テレビセミナー「マイコン時代」(TBS)に出演し、初めてコンピューターで絵を描く。7-9月/山梨県立美術館で「岡本太郎」展が開催される。11月/極彩色の絵のような文字100字が収録された画集『遊ぶ字』(日本芸術出版社)が刊行される。「日立マクセルビデオカセット」のコマーシャルに出演。《梵鐘》を叩きながら叫ぶ「芸術は爆発だ!」の言葉が流行語大賞の語録賞を受賞。
・1982(昭和57年)71歳
7月/青森県古牧温泉渋沢公園に、日本カッパ龍神祭りのシンボル《カッパ神像》を制作。 12月/オリジナルデザインのテレホンカードとして《遊ぶ字》のシリーズが日本電信電話公社(現在のNTT)より発売される。『美の世界旅行』(新潮社)を出版。
・1983(昭和58年)72歳
2月/山形県の観光スキー映画「山形は白い国、岡本太郎のスキー」に出演。8月/京都じゅらくより、振袖・帯など発売される。
・1984(昭和59年)73歳
4月/フランス香水フェアシンボル《香りの塔》を原宿ラフォーレ前に展示。12月/フランス政府より芸術文化勲章を受ける。
・1985(昭和60年)74歳
3月/筑波科学技術博覧会にシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。9月/横浜そごう屋上・太陽の広場にシンボルモニュメント《太陽》を制作。11月/青山・こどもの城にシンボルモニュメント《こどもの樹》を制作。12-2月/イギリス・オックスフォード近代美術館における「日本の前衛芸術」展に出品。
・1986(昭和61年)75歳
4月/この月より日本テレビ「テレモンジャ」にレギュラー出演。「なんだこれは」が流行語になる。12月/パリのポンピドゥー・センターで翌年2月にかけて行われた展覧会「日本の前衛美術」展に出品。
・1987(昭和62年)76歳
3月/さよなら国鉄・新生JRの記念メダル《出発》を制作。4-5月/NHK制作のテレビドラマ「ばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演。4月/青森県三沢市古牧温泉、古牧第三グランドホテルに《天平図》《長生夢幻》《端鳥》設置。
・1988(昭和63年)77歳
2月26日/草月会館で岡本太郎喜寿を祝う会が行われる。4月/岐阜未来博にシンボルモニュメント《未来を拓く》を制作。9月/ダスキンのフリーデザインマットのコマーシャルに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。『自分の中に毒を持て』(青春出版社)を出版。
・1989(平成元年)78歳
7月/フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
・1990(平成2年)79歳
8月/岩手県藤沢町の縄文野焼祭・縄文サミットに参加。シンボルとして《縄文人》を展示。
・1991(平成3年)80歳
4月/奥入瀬渓流グランドホテルのラウンジ中央に暖炉彫刻《森の神話》を制作。5月/長野県野沢温泉村・名誉村民第1号を贈られる。5月/東京都庁の新宿移転にともない、丸の内庁舎取り壊しが決定。56年に制作した陶板レリーフの保存運動がおこるが、9月に取り壊される。11-12月/十二指腸潰瘍で慶應病院に入院。12月/川崎市市民ミュージアムにて行われた「川崎生まれの鬼才―岡本太郎」展(4~6月)を機に、川崎市に主要作品を寄贈。翌年、岡本太郎美術館の建設が発表される。
・1992(平成4年)81歳
「岡本太郎の世界」が『美術手帖』5月号で特集される。
・1993(平成5年)82歳
4-7月/浦安市舞浜の運動公園に《躍動の門》《五大陸》を制作。10月/青森県三沢市の古牧チャペルに《歓びの鐘》を制作。
・1995(平成7年)84歳
10月/翌年にかけて「岡本太郎」展の巡回(大阪高島屋、広島市現代美術館)。
・1996(平成8年)
1月7日/急性呼吸不全にて死去。
(享年84)2月26日/草月会館草月プラザにてお別れ会「岡本太郎と語る広場」が開かれる。

TAROちゃんねる

・作品画像は美術館HPには公開されていませんでしたが、岡本太郎氏作品の魅力を伝える動画コンテンツはいくつか公式ページでご紹介されていましたのでこちらにも載せておきたいと思います。

 

 

どこでもTAROアトリエ

 

 

→「どこでもTAROアトリエ」は、2020年4月に出された緊急事態宣言下で、多くの方がご自宅で過ごされている時期に、美術館へ行けなくても、ご自宅で太郎さんの作品を楽しんでもらえるようにはじめたコンテンツのようです。美術館公式サイトいわく、「これまで好評だったワークショップなどから、大人でも子どもでも、気軽に楽しめるアイデアをご紹介していますので、ぜひ、おうちで挑戦していただき、完成した作品は、ぜひフェイスブック、ツイッター、インスタグラム等で公開してみて下さい」との事。

…いかがでしょう。岡本太郎…何となくイメージがつく方も多いかもしれませんが、その生涯における作品は多岐にわたります。岡本太郎が現在に向けて何を伝えたかったのか、何をのこしたかったのか…そんな歴史について一度ゆっくり時間をつくってもいいのかもしれませんね。そんなメッカ、川崎市岡本太郎美術館、皆さんもぜひ足を運んでみて下さい。

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