凄惨の地で心を落ち着け静かに想うー「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」 沖縄:佐喜眞美術館

沖縄県

こんにちは。実は、本ブログでは震災こそあれ、あまり「戦争」をテーマとしたアート作品はご紹介してきませんでした(平山郁夫シルクロード美術館の回で広島生変図については触れましたが)。

それは私個人的な想いもあるのですが、アートが見て触れて楽しみ、観覧者にとって温かい気持ちになるようなものであって欲しいと願っているからです。ただ、東日本大震災津波伝承館リアス・アーク美術館でも触れたとおり、芸術作品と言うものが常に「幸福」を描いたものではないということは皆さんもご存知の通りです。時には人々の心に訴えかけてくるような、心にズーンと突き刺さり、人類が犯してきた過ちについて考えさせられるものもまた芸術の一方で魅力の1つです。

今日はそんな「戦争」について、太平洋戦争時に最大の地上戦がおこなわれた沖縄にある1つの美術館を通して考えさせてくれる場所のご紹介です。

このブログで紹介する美術館

佐喜眞美術館

・開館:1994年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)

・場所
佐喜眞美術館 – Google マップ
→アメリカ軍普天間基地の一角にくい込むように立地しています。創設者(現館長)はご先祖の土地が米軍基地として買い上げられ、その地代をもとにコレクションを集めてこられた方です。

凄惨の地で心を落ち着け静かに想うー「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」

・以下は館長:佐喜眞道夫さんの本美術館創設に関してのコメントです。

「もの想う空間へ」

・家族の疎開先の熊本で生まれ育った私は、両親から故郷沖縄がどれほど素晴らしいところであるかをたくさん聞いて育ちました。

その憧れの故郷沖縄に、私が初めてきたのが1954年、小学2年生の時でした。沖縄戦から10年も経っていない沖縄では、地上のすべてが吹き飛び白い石灰岩がむき出しになっていました。米軍車両が砂煙をあげて走る道路でバスを待つ人たちは、電柱の影にかくれて熱い日差しを避けている。緑り深い熊本から来た私は本当に驚きました。つくづくこの沖縄に「緑陰」がほしいと思いました。

先祖の土地が米軍基地となり、その地代で上野誠、ケーテ・コルヴィッツ、ジョルジュ・ルオー等のコレクションをしてきた私にとって、1983年の丸木位里さん、丸木俊さんとの出会いは運命的な出来事となりました。

ご夫妻は、「沖縄戦の図」を沖縄におきたいと願っておられました。 鉄の暴風だと呼ばれるほどの熾烈な戦争だった沖縄戦以後の変化はあまりにも急激で、いまなお翻弄され続けている沖縄の状況のなかで、私はなんとしても、心を落ち着けて静かに「もの想う場」をつくりたいと思いました。
私たちの願いが、一つになって、先祖の土地の一部を取り戻し、1994年11月23日に美術館を開館しました。

コレクションをつらぬくテーマは、「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」です。建物は、沖縄にこだわり、庭にある私の先祖の270年前の亀甲墓と統一感をもたせるように、また屋上の階段は6月23 日(慰霊の日)の太陽の日没線にあわせてつくりました。1995年に国連出版の『世界の平和博物館』にも収録されています。

私は、この美術館が訪れる皆様にとって深々とものを想い、魂の緑陰として感じていただける場となることを願っています。(佐喜眞美術館 館長 佐喜眞道夫)

丸木位里、丸木俊「沖縄戦の図」

→この作品は丸木夫婦が沖縄で入念な取材をもとに描き上げた大作です。生存者と現場を訪れ、沖縄線に関する参考文献を160冊以上も読破されました。人物の一人ひとりが実際に存在した人で、沖縄線を経験した人もその描写に「実際に体験した描けない」とコメントを残しているそうです。

丸木夫妻は、「日本人の多くは体験した「空襲」を戦争と思ってしまっている。世界で起こっている戦争は地上戦なんだ。空襲と地上戦は全く違う。日本人は戦争に対する考え方は甘い、こういう国はまた戦争をするかもしれない。」と述べられました。

「沖縄戦の図」は、地上戦を国内で唯一体験した沖縄の人々に沖縄戦のことを教えてもらいながら戦争で人間がどのように破壊されるかを描きそのことをしっかり見て、戦争をしない歴史を歩んでいってほしい、という丸木夫妻の願いが込められているそうです。

※詳細は佐喜眞美術館 常設展解説ページを参照:https://sakima.jp/about/permanent.html

丸木位里 概略

・1919年(大正8年)、大阪の精華美術学院で日本画を学び、1923年(大正12年)に上京。画壇では独自の日本画の前衛を自負。1939年(昭和14年)、シュールリアリスム集団・美術文化協会創立と同時に加入。1941年(昭和16年)、洋画家の赤松俊子と結婚。1945年(昭和20年8月)、広島の原爆で4人の親族を失い、以来、反戦の祈りを込めて夫妻で「原爆の図」「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「水俣の図」などを描き続ける。「原爆の図」は世界24ケ国で巡回展示され、1952年(昭和27年)、国際平和文化賞を受賞。1966年(昭和41年)、埼玉県東松山市に移り住み、翌年、自宅隣に“原爆の図丸木美術館”を開設。1982年(昭和57年)、「原爆の図第15部・長崎」を完成。

丸木俊 概略

・1909年(明治45年)、北海道秩父別町の寺に生まれる。1938年(昭和13年)、モスクワに留学。帰国後二科展などに出品。1941年(昭和16年)、シュールリアリスム集団・美術文化協会に参加、同年日本画家丸木位里と結婚。1945年(昭和20年8月)、原爆投下の直後に位里の故郷広島市に帰り、悲劇を目撃。1948年(昭和23年)から位里とともに大作「原爆の図」共同制作に入る。1950年(昭和25年)、日本美術会のアンデパンダン展に「原爆の図・第1部 幽霊」を発表、以後連作を続け、1952年(昭和27年)、国際平和文化賞金賞を受賞。(以降は上記丸木位里概略を参照)

また、俊は童画の著作も多く、絵本「ひろしまのピカ」は世界13ケ国で翻訳出版、1971年(昭和46年)、チェコの世界絵本原画展で国際賞を受賞。1995年(平成7年)、位里没後も創作を続け、1996年(平成8年)、スケッチ旅行でヨーロッパに3ケ月間滞在するなど最後まで創作意欲を失わなかった。1999年(平成11年)、姪で養女のひさ子と絵本「どんぶらっこ すっこっこ」を出版した。

主なコレクション

丸木位里、丸木俊

ケーテ・コルヴィッツ

ジョルジュ・ルオー

上野誠

草間彌生

沖縄出身の作家

照屋勇賢

日本版画作家

深澤幸雄

…いかがでしょうか。丸木夫婦の「空襲と地上戦は全く違う。」という言葉が印象的でした。この美術館の存在が二度と戦争をおこさないための原点になることを私も願いたいと思いました。

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