日本一長い木造校舎の廊下、ぞうきんがけレースから日本文化の変遷をたどる 愛媛:宇和米博物館

愛媛県

愛媛県最後は西予市にある歴史博物館です。
平成3年(1991)創立。米作りの過程などを紹介する目的で建てられましたが…今は違ったところが有名になりました。今日は私も肩の力を抜いて、日本一長い木造校舎の廊下でくり広げられる熱戦の様子を伝えたいと思います。それでは早速。

このブログで紹介するアート施設

宇和米博物館

・開館:1991年
・アート施設内・外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)
 
・場所
宇和米博物館 – Google マップ
→愛媛県西予市、行ったことありますでしょうか?真珠の養殖日本一で有名な宇和島市の近くにあります。

日本一長い木造校舎の廊下

・愛媛県西予市にある歴史博物館。平成3年(1991)創立。米作りの過程などを紹介する。国内外の稲の実物標本や地域で使われてきた農耕具などを展示。建物は昭和3年(1928)に建てられた旧宇和町小学校の木造校舎を移築。

…一般的なアート施設の説明は上述の通りですが、こちら日本一長い廊下を持つことで知られています。その長さなんと109メートル(!)そんなながーい廊下を活かし、ぞうきんがけレースが開催されています。今ではこちらが有名となり来館者のほとんどがこれ目当てとの事。その様子がコチラ。

動画も。

…は、はやい…。
ちなみに最速レコードは20代の消防士さんが達成した18秒17との事…中学生女子の100mの平均タイムが15秒40、小学6年生男子の平均が17秒06らしいので、それを考えるとぞうきんがけしながらですからどれだけ早いのかが分かりますね。

主な所蔵品

・一応再度お伝えしますと、こちら「国内外の稲の実物標本や地域で使われてきた農耕具などを展示する」博物館です。館内の様子も掲載しておきます。
 

〇Youtubeに4K動画もあがっていました。どんな雰囲気か堪能してみて下さい。

(付録)ぞうきんがけレースから日本文化の変遷をたどる

・ぞうきんがけ、これを書きながらふと思ったのですが、ぞうきんという存在は恐らく木造建築と対になる存在で、その中でも手でぞうきんを掴んでゴシゴシとする文化は世界広しといえど日本を含めそんなに多くないのではないかと。少しぞうきん、ぞうきんがけの歴史が気になりましたので調べてみました。ここからは付録ですが気になる方はどうぞ。

ぞうきんとは

・雑巾(ぞうきん)とは、拭き掃除用の繊維製品。汚れや、こぼれ落ちた液体を拭い取るなど、拭き掃除に用いられる布片のこと。ウエスに似ているが、ウエスは不定形で複数回使用が困難なのに比べ、雑巾は複数回使用を前提として耐久性のある平面形状の製品。拭き掃除用でも繊維製品でなく樹脂多孔体のものはスポンジ、セーム皮などと呼ばれる。なお、雑巾を「雑布」とも書く(世界大百科事典 第2版)

日本のぞうきんの歴史

平安時代

・記録としてさかのぼれるのは、平安時代。『扇面(せんめん)法華経』という12世紀の装飾経に、棒雑巾(ぼうぞうきん)で貴族邸を掃除する舎人の姿が描かれているそうです。長柄の先にT字型の横木がついていて、そこに50〜60cmほどありそうな長い布を挟んだもので、池にせり出した板縁の上で使っていました。おそらく桶(当時は曲物)の水に浸して拭き掃除に使用していたのではないかと推測されます。

古代の雑巾は、意外にも手で直接持って拭くものではなく、現代のモップのような形状だったそうです。その理由は、平安時代の建物が「寝殿造」といって壁がほとんどない開放的な構造で、屏風や簾などで必要に応じて空間を仕切って利用していたため、広い板敷きの広間を掃除するには棒雑巾で走り回るのが合理的だったと言われています。

鎌倉時代

・鎌倉時代になると、仏教寺院において掃除が重要な意味をもつことに。もともとはインドで、一心に掃除をすることが悟りにつながるという思想が起こったのが発端です。その思想が中国に渡って、中国の寺院に掃除が習慣として根づき、それが天台宗の最澄や曹洞宗の道元によって、日本にもち込まれます。ただし、これも鎌倉時代にはやはり棒雑巾だったと言われており、手持ちの雑巾にかわっていくのはもう少し先の時代です。

室町時代

・手持ちの雑巾が広く使われはじめたのは、おそらく室町時代から江戸時代にかけてのこと。室町後期、武家屋敷などは「書院造」の建築様式が主流になってきます。書院造は寝殿造と違って、襖や障子で部屋が仕切られ、畳敷きで、床の間や違い棚などの造作も見られるように。こうなると棒雑巾で大雑把に掃除するわけにはいかず、細かく拭ける手持ちの雑巾の方が使い勝手がよくなります。(このころの文献に、掃除する布として「浄巾」という言葉が初めて出てきます。この時代、日本は一種の技術革新期で、従来にない新しいものに禅林用語から名前をつけるのが流行だったそう。炬燵(こたつ)、暖簾(のれん)などの言葉もこの時期に禅林用語から誕生しました。)

江戸時代

・江戸時代になって、一般の住宅にも書院造が普及すると、掃除に対する人々の関心が高まり、掃除の仕方も丁寧になっていきます。柱や廊下までピカピカに磨きあげるのがよしとされ、掃除が行き届かない家はだらしないと非難されることも。中世以来の禅宗の掃除文化の影響もあり、掃除が道徳的な生活規範としての意味合いを強くもつようになります。

拭き掃除も日常的になる中で、雑巾がけが一般化するにあたっては、素材の変化も大きなポイントとなりました。それまでは棒雑巾も含め、布といえばほとんどが麻や楮(こうぞ)など、布にするのに大変手間がかかるものであった一方で、江戸時代に安価な木綿が出回るようになり、掃除に利用できるようになったのです。雑多なぼろ布を無駄にせず使うことから、その呼び名も「浄巾」から「雑巾」へと変わります。

江戸市内の排泄物などは、幕府公認の処理業者が収集、運搬するしくみができあがっており、また、公共の橋や道路、下水路などをこまめに掃除するよう町人に義務づける町触(法令)も出されてました。こうした公的枠組みと人々の掃除に対する意識の高さから、江戸は世界でも類を見ない衛生的な都市として発展することに。

明治以降

・江戸時代に浸透した掃除の習慣やその教訓的な意義は、そのまま近代へと受け継がれ、その中でもとりわけ近代の掃除のあり方を象徴するのが、学校における掃除教育になりました。明治時代になると、細菌や伝染病などへの知識が深まり、衛生に気をつけるようになります。特に大勢の児童が集まる小学校では、日当たりや換気への気配りとともに、校舎や教室を清潔に保つようにと、早くから国が先導して推進しました。1897年(明治30)の文部省訓令「学校清潔法」では、日常の掃除、定期的な掃除、そして浸水後の掃除、それぞれの方法を細かく規定しているそうです。

ただ、この法令は学校当局にあてたもので、児童あてではありません。にもかかわらず実際には多くの学校で、子どもたちが教室の掃除を行なうようになります。さらに修身科でも、掃除の大切さを教えるように。掃除が、学校教育の一環として位置づけられていきます。

世界のぞうきんがけ事情

・世界105ヵ国を対象にした学校掃除の調査によると、清掃員が行なっているのが61ヵ国、清掃員と児童が行なうのが8ヵ国、日本のように児童が中心となって行なうのが36ヵ国とのこと。やはり、国によって掃除の捉え方にも違いがあるようです。
(以上参考)ミツカン水の文化センターHPより https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no58/03.html

→木造の書院造とぞうきんの普及はワンセットだったのですね。また、学校清潔法っていう法律が制定されていたことに驚きでした。しかもそれは当時の学校に対して(要は大人たちに対して)発布されたものであるにも関わらず、それを教育の一環として児童中心に移行させていったというのは、ある意味で大人のしたたかさというか…まあ、ある意味で工夫が感じられるポイントですね(笑)

…恐らく当時の教員も今の同様、「こんな沢山の教育業務があるのに今さら清潔法って…」とマンパワーに限界を感じていた可能性もありますね(注:マウスの勝手な妄想です)

ただ、鎌倉以降の禅宗の流れもあって少なくとも幼少教育と親和性が高かったのかもしれません。今でも日本人はおもてなしや協調性が得意、特長だと言われますが、良いか悪いかはさておき、このぞうきんがけがそういった素養を育んでいったのかもしれませんね。(個人的には牛乳をこぼしてぞうきんがけした後は、きちんと洗って干さないとびっくりするくらい臭くなるというのは大人になった今でも生きている貴重な経験です)

いかがだったでしょうか。今日は、愛媛県の端っこ、西予市の宇和米博物館から日本のぞうきんの歴史、世界のぞうきんがけ事情を考えてみました。今後もユニークなアート施設があれば積極的に発信していきたいと思います。今後とも本ブログ「絵本と、アートと。」をよろしくお願いします。

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