こんにちは、マウスです。
私、大学生の頃は東京に住んでおりまして随分と色んな美術館を見て回ったことは前にお話しました。その中でも日本画は何となく敷居が高そう…というが言葉を選ばずに言うと「おじいちゃんが見てそうな立派な絵」というイメージが強く、足が遠のいていた時期があります。
ただ、当時付き合っていた方が日本画が好きなのもあり、今日ご紹介する美術館へ連れて行ってもらったのが日本画との距離感が埋まったきっかけです。日本画専門というとなかなかに国内の美術館の中では珍しい方なのですが、こちらは国内初の日本画専門美術館で、日本画各々の見せ方(キュレーション)が素晴らしく、若年層でも十分に楽しめる展示空間でした。(日本画特有の岩絵の具の絵肌に見入ってしまいました)
そして、何より日本画って和紙に描いたりしますので、非常に光(紫外線)に弱く、館内はどちらかというと薄暗い感じ…でもそれが大学生の私には何となくライブハウスみたいな雰囲気もあり「日本画ってカッコいい!!」と初めて感じた思い出の美術館でもあります。
そんな東京は広尾にある美術館、実は証券大手5社の中の実業家が創設した館でもあります…あれ、証券大手5社という響き…そう、埼玉県でご紹介した遠山記念館もありましたね。歴史の不思議な縁で、元々は別の証券会社でしたが、合併を経て今はどちらもSMBC日興証券という国内外を代表する証券会社に成長しました。
そんな総資産12兆円(⁈)を超える大企業の創業者がつくった美術館、早速見ていきましょう。
このブログで紹介する美術館
山種美術館
→美術館名称は創立者・山崎種二(山種証券[現SMBC日興証券]創業者)の苗字、名前の1文字ずつをとったものです。
・開館:1966年 ※兜町で開館、2009年に広尾に移転しました
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)
証券大手5社の一角を生んだ実業家が設立、国内初の日本画専門美術館
・創立者・山崎種二(山種証券[現SMBC日興証券]創業者)の「美術を通じて社会、特に文化のために貢献したい」という理念のもと、1966(昭和41)年に全国初の日本画専門の美術館として開館。種二氏は「絵は人柄である」という信念のもと、横山大観(1868-1958)や上村松園(1875-1949)、川合玉堂(1873-1957)ら当時活躍していた画家と直接交流を深めながら作品を蒐集し、奥村土牛(1889-1990)のように、まださほど知名度は高くなくとも将来性があると信じた画家も支援しました。そして、「世の中のためになることをやったらどうか」という横山大観の言葉をきっかけとして、美術館を創設するに至ったそうです。
その後も、二代目館長・山崎富治(1925-2014)とともに、旧安宅コレクション※の速水御舟(1894-1935)作品を一括購入し、東山魁夷(1908-1999)らに作品制作を依頼するなど、さらなるコレクションの充実を図り、約半世紀にわたり、近代・現代日本画を中心とした収集・研究・公開・普及につとめています。
一方で、若手日本画家を応援するために「山種美術館賞」を設け(1971年から1997年まで隔年で実施)、受賞作品を買い上げ新たな才能の発掘と育成にも努めてきました。
21世紀に入り、グローバル化や情報化、技術革新が急激に進むなど、私たちを取り巻く社会や環境はめまぐるしく変化している現代社会において、山種美術館は、日本独特の自然や風土の中で、岩絵具や和紙など自然の素材を用い、自然の美しさや季節感などを主題とする日本の伝統美:日本画の魅力を、年齢、性別、国籍を問わず、一人でも多くの方に伝えていきたいとして運営されています。
※旧安宅コレクション:当時、日本の10大総合商社の一つであった安宅産業が蒐集した、東洋陶磁器と速水御舟作品を中心とするコレクション。1976年、安宅産業の経営破綻により、安宅コレクションの内の御舟作品を山種美術館が一括購入した。なお、東洋陶磁器は大阪市立東洋陶磁美術館で所蔵。
山種美術館:館長コメント
・美術館には山種美術館:館長の山崎妙子さんのコメントが載っていました。山崎妙子さん…創業者のお孫さんでして、ここも言葉をあえて選ばずに言うと「大証券会社創業家のボンボン…いや正真正銘の箱入り娘」が一般人に向けてそんな人が大したコメント残せるわけないだろうと(真に失礼ながら)私個人は思っていたのですが、このコメント、この美術館紹介ブログの館長コメントの中でもトップクラスに良いことを述べられているのでここに記しておきます。(山崎さん、ごめんなさい!)
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<開館55周年を迎え>
・山種美術館は、全国初の日本画専門の美術館として1966(昭和41)年に開館し、2021(令和3)年7月7日、創立55周年を迎えることができました。
創立者である私の祖父・山崎種二(山種証券[現SMBC日興証券]創業者)は、15歳の時、無一文で群馬の田舎から上京し、親戚の米問屋で丁稚奉公しました。その奉公先のご主人が床の間の掛け軸を季節ごとに取り替えるのを手伝いながら、日本画の素晴らしさに目覚め、「いつか自分も独立して店を持ったら床の間にこのような掛け軸を掛けたいものだ」と思っていたそうです。
大正末期に、種二は念願の店兼自宅を持ち、日本美術の収集を始めたのでした。それ以来、90年近くにわたる種二、そして私の父である富治と親子2代で築き上げた日本美術のコレクションは、浮世絵、江戸絵画から近代、現代の日本画まで幅広いものとなっております。その中には、種二・富治親子と親しい交友関係にあった画家たちの作品も多く、その親しさゆえに生まれたコレクションともいえるでしょう。
この90年間には、さまざまな出来事が起こりました。世界大恐慌、第二次世界大戦という最も辛い時代、その後の戦後の高度成長期、バブル期、バブルの崩壊、今世紀のリーマンショック、東日本大震災、そして現在も続くコロナ禍などです。日本画家たちが食料にさえ困る戦時中でも日本画を制作し続けたこと、種二が彼らに食料を届けたりしながら作品を購入して、彼らを支えたことを我が祖父ながら心より尊敬しております。
また、種二と富治の発案により当館が1971(昭和46)年から1997(平成9)年まで続けた「山種美術館賞」は、若手画家の登竜門として多くの画家を世に送り出しました。応募の形式を多少変更した公募展「Seed山種美術館賞」を開館50周年にあたる2016(平成28)年より再開し、新しい時代に合った画家たちを応援しております。この取り組みは今後も継続してまいります。
昨年から続く新型コロナウィルスのパンデミックでは、前例のないほどの長期休館を余儀なくされました。まだ、先行きの見えない危機の最中ではありますが、この危機は、50年以上にわたって展示という形でのみ公開してきたコレクションを、より多くの国内外の人々に伝え、そして未来に繋いでいくためにはどうすべきかという当館にとって目下の課題を明らかにしてくれる機会ともなりました。次の5年、そして10年の間は、皆様のお力添えをいただきながら、これらの課題に真摯に取り組み、時代を超えて愛される美術館としての変革が必要だと強く感じております。
当館にとっても厳しい状況が続いている中で創立55周年を迎えることができましたのは、皆様のあたたかいご支援の賜物と改めまして心より御礼申し上げます。今後もなお一層皆様に愛される美術館を目指し、展覧会、ならびに教育普及活動の企画・実施、作品の調査・研究、修復に加えて、時代に合わせた新たな取り組みも充実させてまいりたいと存じます。創立者の「美術を通じての社会貢献」という理念を受け継ぎ、当館では幅広い層の方に日本画を楽しんでいただけるよう教育普及活動や地域との連携にも力を入れております。具体的には、地域の小学校の生徒を休館日に招待して、小さな頃から日本画に親しむ機会を設けております。また、さまざまな年齢層の方を対象とした講演会、特別鑑賞会、コンサートなどのイベント、本年からはオンライン講演会なども行っております。近隣に各国大使館が位置する土地柄から、日本にお住まいの外国人の方々にもご来館いただいております。
デジタル化が進み、それによって生まれる新たな楽しみ方、そして時を超えた力強さを持つリアルな作品の双方を通じて、日本文化に触れることのできる時代が到来しております。グローバリゼーションの中で、日本の文化を世界のより多くの方に知っていただくことも当館の使命の一つと考えております。これからも日本の文化や歴史、日本の風景、草花などの自然を、日本画を通じて再発見する機会を提供し続けるべく、努力してまいります。
今後もより多彩な展覧会や地道な研究、新たな取り組みを通じて、学術文化の振興と社会貢献に努めていきたいと存じます。今後とも皆様からのご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
(2021年7月7日、山種美術館 館長 山崎妙子)
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→いかがでしょうか。館長のコメントのさることながらその創業者の種二さんのエピソードも含め、ずいぶんと皆さんが一般的に思われている証券会社(が建てた美術館)のイメージとは良い意味でかけ離れているのではないでしょうか。美術論とは少し離れますが、恐らくその信念と誠実さこそが証券という厳しい経済競争の世界で成長し続けてきた最も重要な事柄のように感じました。
主なコレクション
・明治から現在までの近代・現代日本画を中心に約1800余点を所蔵。所蔵品は、日本画だけにとどまらず、古画、浮世絵、油彩画なども含まれています。重要美術品としては、岩佐又兵衛(1578-1650)《官女観菊図》、椿椿山(1801-1854)《久能山真景図》、竹内栖鳳(1864-1942)《班猫》、村上華岳(1888-1939)《裸婦図》、速水御舟(1894-1935)《炎舞》《名樹散椿》の6点の重要文化財、酒井抱一(1761-1828)《秋草鶉図》などがあります。 また、120点の御舟コレクションや、川合玉堂(1873-1957)の作品も71点を数え、《鳴門》《醍醐》など戦後の院展出品作の大半を含む、135点の奥村土牛(1889-1990)コレクションでも知られています。他に、横山大観(1868-1958)《作右衛門の家》《心神》、下村観山(1873-1930)《老松白藤》、上村松園(1875-1949)《砧》、鏑木清方(1878-1972)《伽羅》、小林古径(1883-1957)《清姫》(8面連作)、安田靫彦(1884-1978)《出陣の舞》、前田青邨(1885-1977)《蓮台寺の松陰》、川端龍子(1885-1966)《鳴門》、東山魁夷(1908-1999)《年暮る》なども。
岩佐又兵衛
酒井抱一
椿椿山
竹内栖鳳
横山大観
(同作家コレクション参考)足立美術館
上村松園
(同作家コレクション参考)松伯美術館
小林古径
村上華岳
奥村土牛
(同作家コレクション参考)奥村土牛記念美術館
速水御舟
→どちらも美術の教科書に載っていますね。日本人は速水御舟大好きです。私もこの絵柄の入ったカードケース買いました。
いかがえでしょうか。画像からでもキラキラした岩絵の具の情景が感じ取られるようです。山種美術館、面白いのがHPに「日本画とは」という特設ページを設けられているのですよね。さすが国内初の日本画専門美術館としての使命を感じます。最後にこれを掲載して終わりたいと思います。
(参考)日本画とは
・日本の伝統絵画を総称して「日本画」といいます。今日一般に使われている「日本画」という名称は、明治以降に、西洋から伝えられた油彩画と区別するために生まれたものです。つまり「日本画」と「西洋画(もしくは洋画)」の違いは、大雑把な言い方をすれば、描くために使用する素材の違いということになります。当時から、素材がどうあれ、日本人が描く絵は皆日本画であるという意見はすでにありましたが、今日に至るまで、この区別は続いています。
「日本画」の呼称が一般的になるのは、概ね明治20年代から30年代にかけてと言われています。それ以前では「日本画」という概念は無く、近世以来、伝統絵画としての各流派(狩野派、円山・四条派、やまと絵など)に別れていました。
明治20年の東京美術学校創立に前後して、美術団体が生まれ、美術展覧会が開かれるようになると、互いに影響しあい、各流派の混合・折衷がおきました。また西洋画の影響も受けながら、現在の日本画は形成され、発展してきたと考えられます。 しかし、現在では、伝統にもとづく技法、感覚や美意識、表現などは時代とともに変化し、つねに日本画とは何か、また日本画と洋画の区別がはたして絵画表現にとって有効なのか、と問われ続けています。(山種美術館HPより転載)
日本画の材料
・日本画は、千数百年以来続いている絵画様式が基本となっており、その画材となるものも歴史に培われた伝統的な素材です。一般には紙や絹、木、漆喰などに、墨、岩絵具、胡粉、染料などの天然絵具を用い、膠(にかわ)を接着材として描く技法が用いられています。また、金などの金属材料(金箔など)を画材として効果的に取り入れています。
日本画用材料は決して扱いやすいものではなく、また、その技法を習得するにも時間と根気が要ります。それが今日まで受け継がれているということは、「日本絵画の様式が日本の風土や日本人の美意識、精神性に合っていたからではないか」と山種美術館HPに記載されていました。
<日本画の道具一式>
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