こんにちは。
本ブログで日本文化における超重要人物とご紹介した千利休と岡倉天心、個人的にはそれにある意味で匹敵する傑物として徳川家康を挙げました。日本初の統治制度:武家諸法度を制定し、1616年4月17日に75歳で歿した家康、果たしてどのような想いでどのような至宝を所持していたのでしょうか。そんな徳川家のお宝が眠る美術館の紹介です。
このブログで紹介する美術館
徳川美術館
・開館:1935年
・美術館外観、内観(以下画像は美術館HP、県観光協会より転載)
・場所
徳川美術館 – Google マップ
国宝9件・重要文化財59件を有する尾張の至宝庫
・公益財団法人 徳川黎明会が運営、尾張徳川家に受け継がれてきた宝物の数々を所蔵し公開している私立美術館。19代当主徳川義親が大名文化を後世に伝えることを目的として、昭和10年(1935年)に開館。収蔵品は駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品などで大名家伝来家宝のコレクションとして日本最大の規模を誇ります。千利休・足利義満・織田信長・豊臣秀吉など歴史に名を残した人物の手を渡ってきた名品も数多く含まれており、国宝9件、重要文化財59件を収蔵。特に国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻、豊国祭図屏風、「初音の調度」などの所蔵品が有名です。また、中には400年以上の歴史資料があるにも関わらず、収蔵品の多くについて、来歴の記録が年代を追って残されていることや単に鑑賞目的の美術品として蒐集されたものばかりではなく、大名家の生活の中で実際に使われた道具として伝わったことを物語る文献資料が遺されていることも、徳川美術館のコレクションの大きな特長との事。大名道具が実際に使われた空間の中に作品を置いてご鑑賞いただく体系展示の手法を全国の美術館の中でもいち早く採り入れたことでも知られ、茶道具の取り合わせの美や書院飾りの様式美、そして能舞台に映える能装束の華やかさなどを鑑賞できるそうです。
徳川美術館本館 第7・8・9展示室
・隣接の名古屋市蓬左文庫展示室とも連携し、年間を通してテーマを変えつつさまざまな特別展・企画展を開催。本館独特の重厚な雰囲気の中で、その時々のテーマのもとに、最新の研究成果を取り入れつつ、質量ともにそろった美術品や歴史資料の数々を、大名の生活と文化をより深く味わえるよう工夫を凝らして展示されているそうです。
徳川美術館新館 第1・2・3・4・5展示室
・尾張徳川家当主の公的生活の場であった名古屋城二之丸御殿を、部分的ながらも時代考証に基づいて復元。美術品をそれらが使われた仮想的空間の中で展示することで、美術品単体の美にとどまらず、日本の伝統美である「構成の美」、あるいは「取り合わせの美」を四季の移ろいに合わせて展示することを心掛けられています。
第1展示室
・武家のシンボルである武具・刀剣を軸に展示。毎年正月11日に行われていた武家の行事「具足始め」の儀式に従い、正面中央に甲冑一領、向かって右手に太刀拵と馬標、左手に采配と鎗拵を配した展示を観覧できます。また、所蔵の名刀、刀装具、刀剣の鑑定書である折紙などを順次公開しているほか、弓、矢、火縄銃など武家のシンボルとしての武具も展示。特に刀剣のコレクションは、短刀や長刀を含めれば1000振近く、日本でトップクラスの質と量を誇ります。
第2展示室
・大名の数寄、茶の湯を展示。名古屋城二之丸御殿内にあった「猿面茶室」(国宝指定、戦災により焼失)を復元した空間の中で、由緒ある伝来の茶道具・掛軸・花生など、数多くの名品を展示しています。
第3展示室
・大名の室礼、書院飾りを展示。名古屋城二之丸御殿内の鎖の間と書院を復元し、そこで用いられていた茶道具・掛軸・文房具などを鑑賞できます。特に名古屋城二之丸御殿の書院は、尾張藩の政(まつりごと)の公式の場であり、豪華な書院造りに厳格な形で整えられた押板飾り・違い棚飾り・書院床飾りの品々は、尾張徳川家の格式と威厳を示すものでした。また徳川美術館は伝来の唐物漆器・墨・香木でも日本で有数のコレクションを有しています。
第4展示室
・武家の式楽、能を展示。書院(第3展示室)での公式の接見と饗応の後、来客は武家の公式エンターテインメントとしての能に招かれる作りとなっています。本館でも同様に能装束・能道具などを用意。名古屋城二之丸御殿内にあった能舞台を復元し、その中で保存状態の見事な能装束を観覧でき、あわせて能面・鼓・笛などの能道具が展示されています。
第5展示室
・この展示室が本美術館のメインです。大名の雅び、奥道具を展示。上記第4展示室からさらに「奥」の世界です。大名家の夫人たちや姫君たちの愛用した品々が置かれており、テーマを設定した特集展示を行うほか、国宝「初音の調度」の中から数点を常時観覧可能です。毎年概ね11月末頃には、国宝「源氏物語絵巻」も展示されます。(画像は後ほど)
第6展示室
・現存最古の”源氏絵”である国宝「源氏物語絵巻」について、映像やパネルで常時解説。
主なコレクション
<源氏物語絵巻(国宝)>
<後藤藤四郎(国宝)・物吉貞宗(重要文化財)ほか>
<初音の調度(国宝)>
<豊国祭礼図屏風(重要文化財)>
<屈輪文犀皮食籠・盆>
<葵紋散黄金造毛抜形太刀拵>
(付録)尾張徳川家とは
・以下は美術館HPからの引用です。美術品だけでなく更に尾張徳川家に興味がある方はお読みください。
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・尾張徳川家は、江戸時代に創設された大名家です。徳川将軍家に連なる御三家の筆頭格で、諸大名の中でも最高の格式(家格)を誇っていました。初代は徳川家康の9男徳川義直(1600~50)。義直は慶長12年(1607)、父・家康の命で尾張国(現在の愛知県西部)の大名となり、名古屋城を居城としました。61万9500石の石高を領し、尾張国や美濃国の一部などを領地としていました。御三家の重要な役割として、徳川将軍家に跡継ぎが無い時には、尾張徳川家は紀伊徳川家とともに将軍後継者を出す資格がありましたが、尾張徳川家からは将軍を出すことはありませんでした。
初代義直は学問を好み、儒教に傾倒して文治政策を推し進め、2代徳川光友(1625~1700)以降の歴代当主もまた、学問に励みました。7代徳川宗春(1696~1764)は、8代将軍吉宗がかかげる質素倹約政策に反して積極的な自由放任政策をとり、城下町名古屋に繁栄をもたらした結果、「芸どころ」名古屋と呼ばれるきっかけを作りました。
7代宗春が8代将軍吉宗の命で隠居謹慎を命ぜられたあと、8代徳川宗勝(1705~61)が分家の高須松平家から尾張徳川家に入り家督を継ぎました。宗春の治世の放漫財政と風紀の乱れを一掃し、人心の刷新をはかった宗勝の政治改革は、9代徳川宗睦(1732~99)へと継承され、その後尾張徳川家は、将軍家や御三卿から養子を迎えながら、幕末へと向かいました。
幕末維新期の尾張徳川家のかじ取りを担ったのが、分家の高須松平家出身で尾張徳川家の家督を相続した14代徳川慶勝(1824~83)でした。慶勝は将軍継嗣や外交問題で時の大老・井伊直弼と衝突して隠居謹慎を命ぜられ、慶勝の弟・徳川茂徳(1831~84)が尾張徳川家の家督を継いで15代となりました。慶勝も謹慎解除後は復権し、年少の14代将軍家茂を補佐しました。15代将軍慶喜が大政奉還した慶応3年(1867)当時、尾張徳川家は慶勝の子の16代徳川義宜(1858~75)が当主で、慶勝は隠居ながらも義宜を後見する立場にいました。
16代義宜の早世により、慶勝は高松松平家より義礼(後の尾張徳川家18代 1863~1908)を迎え、その後、越前松平家から迎えられたのが19代徳川義親(1886~1976)でした。義親は、歴史学者・生物学者であったと同時に、政治家・事業家としても盛んに活動しました。その一方で伝来の美術品の保全を図るため、昭和6年(1931)財団法人尾張徳川黎明会を設立、同10年名古屋の地に美術館を建設し、尾張徳川家伝来の宝物の公開を始めました。徳川美術館の開館です。義親の後は20代徳川義知(1911~92)・21代徳川義宣(1933~2005)が継ぎ、現在22代徳川義崇(1961~)が美術館の館長を務めています。
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→意外と徳川家好きな方にとっては最後の家系図でご飯何杯もいけるかもしれませんね(笑
…いかがだったでしょうか。足を運べばきっと江戸250年の社会を築いた徳川家の歴史と伝統、またそれに付随した格式を感じることができるのではないかと思います。余談ですが、徳川美術館、マウスのアート界隈の知人によれば、その所蔵品の保存状態に最新の注意が払われているとの事。詳しくは述べませんが、作品を搬送するときも、温湿度など他館と比べても最新の注意を払って輸送をしているそうです。そんな代々受け継がれてきた徳川家の至宝、皆さんも一度ご覧ください。
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