作家が42年間作品をつくりつづけたアトリエを公開、作家の想いを次の時代へ伝える場所 東京:岡本太郎記念館

東京都

こんにちは。今日ご紹介の美術館、川崎市岡本太郎美術館とセットでいくと良いかもしれません。
川崎市岡本太郎美術館は作家生誕の地で回顧展が開催されたことが美術館設立のきっかけでしたが、こちらは作家自身が42年間パートナーと共に暮らし、作品をつくりつづけた住居兼アトリエを公開したものです。

 どんな場所なのか…早速みていきましょう。

このブログで紹介する美術館

岡本太郎記念館

・開館:1998年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)

・場所:岡本太郎記念館 – Google マップ

作家が42年間作品をつくりつづけたアトリエを公開、作家の想いを次の時代へ伝える場所

・岡本太郎が42年にわたって住まい、作品をつくりつづけた南青山のアトリエを「岡本太郎記念館」として公開。建築家・坂倉準三の手による旧館はそのままに、隣接する木造2階建ての書斎/彫刻アトリエを新築の展示棟に建て替えて、財団法人の運営する公的なミュージアムです。

 太郎氏没後からわずか2年後、「岡本太郎を次の時代に伝えたい」と願い生涯のパートナーであった岡本敏子氏の情熱をもとに建てられました。亡くなる寸前まで、大モニュメントの制作や原稿の口述を続け、創造の意欲は衰えることがなかったそうで、このアトリエで、「太陽の塔」をはじめ、数えきれないほどの、幅ひろいジャンルにわたる作品を生み出し、世に挑み続けた岡本太郎氏…彼の息吹が、足音が、激しく語りかける声が、ほとばしる汗までが、この空間のあらゆるところに生きて響いています。

  敏子氏はこの美術館を建設するにあたって「 このアトリエは岡本太郎が1954年から1996年まで、42年間、制作の場として、また芸術運動の根拠地として、目ざましい活動を展開した戦闘基地である。芸術に関心のある人、ない人も、ここに来て岡本太郎のエネルギーにふれ、元気になってほしい。ここに集う人々の情熱が、岡本太郎記念館を活気づけ、小さいけれど凄い起爆力を持った発信基地になることを、彼は望んでいるに違いない。あの熱烈で純粋な、男らしい魂と、みなが直接語りあえる場が出来たことは、50年間、彼と一緒に走り続けて来た私個人にとっても、何にもかえ難い喜びだ。彼が生きていたらこうやっただろうと思う…(中略)…岡本太郎を核として、集まる人同士がスパークしあい、お互いを見出し、くっきりさせ、より深く、よりひろく自分自身になる、そういうひらかれた場でありたい。岡本太郎の果たさなかった夢に向かって、第一歩を踏み出す今、彼の生き方、芸術にお心を寄せられたすべての方々のご協力をお願いしたい。」と語っています。

岡本太郎記念館の構成

(以下は美術館HPからの記載抜粋です。)

・記念館の庭は岡本太郎の美意識を伝える重要なメディアです。一瞥してわかるとおり、観賞用の花もなければデザインもされていません。芭蕉、シダ類、雑草が自然のままに生い茂り、そのなかに彫刻が放り出されているだけ。彫刻と植物が渾然一体となり、作品の眼からは草が生えています。その風情はまるで古代遺跡。「東京のど真ん中にこんな場所があるなんて!」。この庭は若者たちのパワースポットになっているようです。

アトリエ

・1954年以降の岡本絵画はすべてここから生まれました。テーブル上の道具、床に飛び散った絵具、棚に押し込まれた描きかけの作品…、すべてが当時のまま。冷凍保存された純度100%の TARO空間が、太郎の息吹を生々しく伝えてくれます。「岡本太郎がいまにも階段から降りてきそう」。来館者の心をつかんでいるのは、つくりものではけっして再現できない臨場感のある〝空気〞です。

サロン

・応接や打ち合わせに使われていたスペースで、大きな掃き出し窓が庭との一体感・連続感を演出しています。右奥のピンクの造形(メキシコから持ち帰った〝生命の樹〞)以外、部屋にあるものはすべて太郎が自らデザインしたもの。左奥に見えるマネキンも、本人がシリコンに埋まってつくったので、寸分違わず正確。アトリエとは別の意味で、ここも純度100%のTARO空間です。

第1展示室

・階段を上がった先にあるのが、3面の壁と35m²の床をもつ第1展示室です。企画展ごとにその都度デザインされる空間はたえず表情を変え、新しい空気感を生み出しています。

第2展示室

・1階ホール上空に架けられたブリッジを渡った先にあるのが、3面の壁と22m²の床をもつ細長い第2展示室です。庭に面した大きな窓をもち、ふんだんに自然光を入れることもできます。

ミュージアムショップ

・1階ホールに併設されたミュージアムショップには、関連書籍と多種多様なグッズが並び、来館者の目を楽しませています。

岡本太郎とは

・太陽の塔など、多くの作品を残した日本の芸術家。
1911年、マンガ家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の間に神奈川県に生まれる。1917年、小学校に入学するが、1学期で退学。翌年4月に慶應義塾幼稚舎に入学。1929年に慶應義塾普通部を卒業し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。

 この年、両親に同行してヨーロッパへ渡航し、約10年にわたってフランスで過ごす。在欧中にピカソの絵を初めて見て影響を受ける。1937年、初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クルチオン序文)を刊行。 1940年には第2次世界大戦のため、マルセイユから帰国し国内で活動を開始。1941年、二科会に「傷ましき腕」(油彩)、「コントルポアン」(シルクスクリーン)などを出品し二科賞を受賞。

 1942年から中国戦線に出征、1946年に復員。自由の国フランスと日本軍国主義の違いに苦しんだとされる。また、戦時中にアトリエや作品は全て空襲で失われる。 戦後は、花田清輝らと「夜の会」を結成、前衛美術運動を始める。旧態依然とした日本の美術界に対し、自由で前衛的な芸術活動を展開する一方、縄文土器に美術的価値を見出し、日本の伝統や風俗にも目を向ける。

 作品は、絵画、彫刻から、舞台、建築、プロダクトデザインなど多岐にわたり、ピアノ、スキーにも取り組むなど、活動は幅広い。マスコミに積極的に登場し、「芸術は爆発だ」などの名言でも知られる。 1970年に大阪で開催された万国博覧会で、シンボルタワー「太陽の塔」を制作。博覧会終了後は取り壊されることとなっていたが、市民による保存運動により保存され、今日では高度成長期の日本を象徴する建造物となった。1996年没。

敏子氏からみた岡本太郎

・この岡本太郎記念館、良い意味で50年間岡本太郎氏を近くで見てきた敏子氏ならではの視点、コメントが掲載されていて面白いです。上の岡本太郎の紹介文は一般的なものですが、以下に敏子氏の視点が入った岡本太郎像も掲載しておきたいと思います。ぜひ見比べてみて下さい。
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【1】パリが生んだ異端
〈1-1〉 極東の日本から世界の芸術の中心に
1929年、岡本太郎は18歳でパリに渡った。日本から遊学する画家達が日本人だけで固まり、帰国後の凱旋展を夢見てお定まりの風景画を描いている姿に失望した太郎は、フランス社会で自立したいと考え、私学の寄宿生となってフランス語を磨き、西洋の教養を身につけていく。やがてモンパルナスにアトリエを構え、1940年にパリを離れるまで10年以上にわたって1930年代のパリで唯一無二の経験を重ねた。

〈1-2〉 純粋抽象からシュールレアリスムへ
1933年、「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に最年少メンバーとして参加。「空間」「コントルポアン」などの連作を発表。1937年、サロン・デ・シュールアンデパンダンに「傷ましき腕」を出品。純粋抽象と決別し、同協会を脱退する。一方、同作をアンドレ・ブルトンが高く評価、翌年の第一回国際シュールレアリスト・パリ展に招待する。エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、タンギーらシュールレアリストとの親交が深まる。岡本太郎は二つの前衛芸術運動の最先端をともにリアルタイムで体験した希有な芸術家なのである。

〈1-3〉 ミュゼ・ド・ロムでマルセル・モースに学ぶ
1938年、パリ大学で哲学を学んでいた太郎はミュゼ・ド・ロムを見て衝撃を受け、民族学科に移籍。レヴィ=ストロース、ミシェル・レリスらとともにマルセル・モースに学び、一時は筆を折って研究に没頭する。このときの体験が「芸術は商品ではない」「芸術は無償、無条件であるべきもの」「芸術とは全人間的に生きること」という太郎の芸術観を醸成した。1975年、太郎はジャン・ルーシュのドキュメンタリー作品「マルセル・モースの肖像」に出演。

〈1-4〉 バタイユとの邂逅
一方、エルンストに誘われた政治集会「コントルアタック」でジョルジュ・バタイユと出会い、その演説に深く共感。以後、親交が深まり、「社会学研究会」に参加。ついには秘密結社「アセファル」に加わる。戦後の作品「夜」「電撃」はこのときのサンジェルマンの森での秘儀体験がモチーフといわれる。レリス、ロジェ・カイヨワ、ピエール・クロソウスキー、パトリック・ヴァルドベルグら、世界的な知性と親密な交友を結ぶ。

〈1-5〉 ただひとりの日本人
抽象からシュールレアリスムへ。芸術から哲学へ。抽象論理の世界から人間学のフィールドへ。さらには呪術的な秘密結社へ。岡本太郎は、20世紀芸術の新たな潮流の胎動に生々しく立ち合い、同時に30年代パリが生んだ知の最前線を全身で浴びた、たったひとりの日本人である。それどころか、こんな人物は世界を見渡してもおそらく例がないだろう。岡本芸術に通底する美意識は「自由」「誇り」「尊厳」だ。太郎の肉体にそれを刻んだのは30年代のパリだった。

【2】たったひとりの闘い
〈2-1〉 ゼロからの出発
1940年、岡本太郎は戦時体制下の日本に帰還する。間もなく初年兵として徴兵されて戦場へ。自由の国・フランスから対極的な軍国主義の闇に投げ込まれる。戦後、中国での収容所暮らしを経てやっと辿り着いた青山の家は空襲で焼け野原になっていた。アトリエもパリ時代の作品も、すべてを失った。待っていたのは文字通りゼロからの出発だった。

〈2-2〉 “ガラパゴス”での闘い
活動を再開した岡本太郎は新聞紙上に「絵画の石器時代は終わった」と宣言。ただ鑑賞するだけの「美術」の時代は終わった、西欧の芸術精神が獲得した自由の恩恵を受ける時代が来たのだ、と続け、長老中心の権威主義的な日本美術界にひとり宣戦布告する。ワビ・サビ的美学に支配されていたガラパゴス的美術界に強烈な原色を叩きつけるとともに、出版や講演などの啓蒙活動も積極的に開始。芸術とはなにか、アヴァンギャルドとはなにか、創造とはなにか…。革新的な名著を次々と発表し、挑発的な言動で社会に問題を提起していった。

〈2-3〉 対極主義
「これからのアヴァンギャルド芸術の精神には、非合理的な情熱のロマンティスムと、徹底した合理的な構想が、激しい対立のまま同在すべきである。この異質の混合や融和を私は考えない。二つの極を引き裂いたまま把握する」。「対極主義」と名付けたこの芸術思想を引っさげ、岡本太郎は次々と問題作を社会に送り出す。日本での活動再開後すぐに「重工業」「森の掟」などの大作を続々と発表し、アヴァンギャルドのリーダーとして美術界に旋風を巻き起こしていった。

〈2-4〉 日本の“発見”
一方、作品制作の傍らで、「日本のオリジン」「日本の原風景」の探索に傾倒し、革命的な仕事を成し遂げていった。「縄文の発見」がその代表である。考古学の分析対象でしかなかった縄文土器に美を見出し、芸術のフィールドに引き上げるとともに、その精神のありようを称賛した。さらに日本全国を縦断取材し、民族学の視点から各地に息づく日本の原風景を読み解いていった。近年、彼が撮影した写真は当時の貴重な民俗資料として再評価され、各地の伝統・風俗をテーマにした数々の文化論も再び脚光を浴びている。彼が発見した日本の原風景が普遍的な世界とつながっているからだ。

〈2-5〉 「多面体」として
1950年代に入ると、岡本太郎は次々と表現領域を拡げていった。彫刻、レリーフ、壁画、舞台美術、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、書、建築、家具、インテリア、写真、評論、パフォーマンス……etc。銀座の夜空にヘリコプターで絵を描いてみせたのも、日本ではじめて飛行船に絵を描いて飛ばしたのも、岡本太郎だった。岡本太郎は、日本の芸術家では類を見ない「多面体」だった。

【3】万博史の異物
〈3-1〉 史上最大の万博
1970年、高度経済成長に湧く日本で万博が開かれた。〝先進国クラブ〟への入会がかかった一世一代の国家プロジェクト。そのテーマ展示プロデューサーに選ばれたのが岡本太郎だった。彼は高さ70mの巨大なモニュメント「太陽の塔」を会場中央に突き立てる。その強烈かつ異様な光景は日本人の脳裏に強烈に刷り込まれ、日本の芸術作品のなかで最大・最強のアイコンになった。同時代を生きた日本人で岡本太郎と太陽の塔を知らぬ者はいない。大阪万博は6400万人の入場者を集めたが、これは万博史上の最高記録で、いまも破られていない。

〈3-2〉 反博の巨像
19世紀半ばに誕生して以来、万博は近代主義を体現するものとして「技術と産業の進歩が人類を幸せにする」をメッセージしてきた。だが太陽の塔はそれを真っ向から否定している。太古の昔からそこに立っていたような土俗的な造形は、〝近未来都市〟の風景をひとりでぶち壊すものだ。岡本太郎は万博を支える安直な進歩主義にひとりNon!をつきつけた。前衛が国家に加担するのかと批判された彼はこう言って笑った。「反博?なに言ってんだい。いちばんの反博は太陽の塔だよ」。太陽の塔は万博史に残るただひとつの異物だ。

〈3-3〉 反モダニズム・反伝統主義
岡本太郎は「日本人の価値基準は二つしかない。西欧的近代主義と、その裏返しとしての伝統主義すなわち〝わび・さび〟的日本調だ」と言った。「その両方を蹴飛ばして、原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像をぶっ立てた」。それが太陽の塔だ。まさしく対極主義の実践だった。彼は「五重の塔ではない日本。ニューヨーク、パリの影でない日本」をつくろうとした。岡本太郎は日本人を奈良時代から続く文化コンプレックスから解放しようとしていたのである。

〈3-4〉 ミュゼ・ド・ロムへの思い
一方、岡本太郎がプロデュースしたテーマ展示も異端だった。「人類の進歩と調和」というテーマを解説する職責を担っていたはずなのに、テーマ展示の予算とスペースのほとんどを生命の誕生から原始社会の営みまでを描くことに費やしたのだ。他館が未来技術でプレゼンスを競っているときに、生命の誕生、祈り、渾沌などを謳い、世界から仮面や神像を集めて呪術的な展示空間を現出させた。「万博の価値観なんか信じるな」「人間の根源に帰れ」というメッセージを送るためだった。そして裏にはもうひとつの動機があった。日本版ミュゼ・ド・ロムをつくることだった。実際、万博から7年後に、このときの収集資料がベースになって国立民族学博物館が誕生した。

〈3-5〉 愛された前衛
太陽の塔は大阪万博のシンボルとなって日本人の脳裏に深く刻まれた。当時を生きた日本人で岡本太郎を知らぬ者はいない。大衆に愛された太郎はその後も全国で数々のパブリックアートを手掛け、1975年には撤去されるはずだった太陽の塔の永久保存が決まった。市民の保存運動が実を結んだのだ。岡本太郎は日本でただひとり大衆にリーチした前衛芸術家だった。

【4】 若者たちの太陽
〈4-1〉 いま、ふたたび岡本太郎ブームに
1996年、岡本太郎は84年の生涯を閉じた。パーキンソン病を患った晩年には活動の停滞を余儀なくされ、多くの著書も絶版になっていた。だがこの状況は没後わずか数年で一変する。1998年には岡本太郎記念館が、翌1999年には出身地の川崎市に岡本太郎美術館が開館し、絶版本の復刊と併せて関連書籍も次々と刊行されている。近年では、岡本太郎を扱った展覧会は全国で20~30本/年、新聞・雑誌等の掲載件数は1500~2000件/年に達し、関連書籍は100冊にのぼる。メディアもこの特異な現象に注目し、「いまなぜ岡本太郎なのか?」をテーマとする特集記事が相次いでいる。

〈4-2〉 若者たちの太陽
この岡本太郎ブームの中心にいるのは、リアルタイムの彼を知らない若者たちだ。岡本太郎の強烈な作品や言葉が、眼の前に立ちはだかる閉塞感を切り裂いてくれるものと映っているのだ。「元気をもらいました」「これで先に進めます」「壁にぶつかったらまた来ます」……etc。記念館のスケッチブックには若者たちのこうした言葉で溢れている。彼らにとって岡本太郎は「過去の偉人」ではなく、未来に向かってともに生きていく〝ライブな存在〟なのである。いま、「岡本太郎という生き方」に対する共感の輪が広がっている。こんな芸術家はこれまで日本にはいなかったし、いまもいない。

〈4-3〉 二つのミュージアム
このムーブメントを支えているのはふたつのミュージアムだ。岡本太郎記念館は、彼が40年以上にわたって創作の拠点にしていたアトリエ・住居をそのまま公開したもの、川崎市岡本太郎美術館は新設の公立個人美術館だ。前者は規模は小さいが生々しい太郎の気配に満ちていて、若者たちの聖地になっている。一方、後者は5000㎡の大規模美術館で、岡本作品のほぼすべてを収容し、高さ30mの巨大モニュメント『母の塔』も設置されている。両者は補完しながら岡本芸術を社会に送り出している。

〈4-4〉 「明日の神話」の奇跡
太郎をめぐるこのムーブメントが本物であることを証明する出来事が実際に起きた。1969年にメキシコで描かれたまま行方不明になっていた巨大壁画『明日の神話』(30m*5.5m)が2003年秋に発見されたのだが、再生を願う多くの人々のサポートにより、驚くべきスピードで復活したのだ。万の単位の人々から浄財が集まり、修復完了後の公開には50日の会期に200万人が詰めかけた。壁画は2008年に東京・渋谷駅に恒久設置され、若者の街の新たなシンボルとして大きな話題になった。

〈4-5〉 2011年が「生誕100年」
2011年に生誕100年を迎えた。大規模な回顧展をはじめ、数々のイベントが予定されている。岡本太郎をめぐるムーブメントがさらに次のステージにジャンプすることは間違いないだろう。
  
※未だに独特の存在感を示す「太陽の塔」

→いかがでしょうか。岡本太郎の名前は知っていても、あまりに彼のキャラクター性が先行してしまい、「どのような想い、どのような経歴であの太陽の塔の制作に至ったのか」案外知らなかった方も多いのではないでしょうか。(敏子さんならではの視点、私もなるほどなと思ったところにマーカーを引いておきました。)
今さら言うことでもないですが、ただの奇人な天才という姿でなく、岡本太郎氏が深い洞察と考察を繰り返してあの作風に至ったのかが解るかと思います。

岡本太郎現代芸術賞

・岡本太郎の遺志を継ぎ「時代を創造する者は誰か」を問うための賞で、旧来の慣習や規範にとらわれず、自由な視点と発想で創作活動を行う作家の活動を支援、優れた業績を顕彰する賞として毎年開催しています(通称「TARO賞」)。

[審査員(2023年現在)]
・椹木野衣(美術評論家)
・平野暁臣(空間メディアプロデューサー・岡本太郎記念館館長)
・北條秀衛(川崎市岡本太郎美術館館長)
・山下裕二(美術史家・明治学院大学教授)
・和多利浩一(ワタリウム美術館キュレーター)
[参考:過去の審査員]
・坂根厳夫 (情報科学芸術大学院大学名誉学長)
・村田慶之輔 (川崎市岡本太郎美術館前館長) など

→審査員、両岡本太郎関連美術館の館長は当然ながら、先日ご紹介したワタリウム美術館の和多利さんも参加されているのですね。さすが現代美術の最前線をリードしてきた方だけあります。

明日の神話

・それでは最後に岡本太郎氏の「太陽の塔」と双璧をなす傑作、「明日の神話」について触れて終わりたいと思います。

こちらの作品、東京・渋谷駅のJR線と京王井の頭線を結ぶマークシティ内連絡通路に公開・恒久設置されたもので目にした方も多いと思います。描かれているのは原爆が炸裂する悲劇の瞬間ですが、この作品は単なる被害者の絵ではないと太郎氏は語ったそうです。伝えたかったのは「人は残酷な惨劇さえも誇らかに乗り越えることができる、そしてその先にこそ『明日の神話』が生まれるのだ」と。以下はまた敏子さんのコメントを記載したいと思います。
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・『明日の神話』は原爆の炸裂する瞬間を描いた、岡本太郎の最大、最高の傑作である。猛烈な破壊力を持つ凶悪なきのこ雲はむくむくと増殖し、その下で骸骨が燃えあがっている。悲惨な残酷な瞬間。逃げまどう無辜の生きものたち。虫も魚も動物も、わらわらと画面の外に逃げ出そうと、健気に力をふりしぼっている。第五福竜丸は何も知らずに、死の灰を浴びながら鮪を引っ張っている。中心に燃えあがる骸骨の背後にも、シルエットになって、亡者の行列が小さな炎を噴きあげながら無限に続いてゆく。その上に更に襲いかかる凶々しい黒い雲。悲劇の世界だ。

 だがこれはいわゆる原爆図のように、ただ惨めな、酷い、被害者の絵ではない。燃えあがる骸骨の、何という美しさ、高貴さ。巨大画面を圧してひろがる炎の舞の、優美とさえ言いたくなる鮮烈な赤。にょきにょき増殖してゆくきのこ雲も、末端の方は生まれたばかりの赤ちゃんだから、無邪気な顔で、びっくりしたように下界を見つめている。外に向かって激しく放射する構図。強烈な原色。画面全体が哄笑している。悲劇に負けていない。あの凶々しい破壊の力が炸裂した瞬間に、それと拮抗する激しさ、力強さで人間の誇り、純粋な憤りが燃えあがる。

 タイトル『明日の神話』は象徴的だ。その瞬間は、死と、破壊と、不毛だけをまき散らしたのではない。残酷な悲劇を内包しながら、その瞬間、誇らかに『明日の神話』が生まれるのだ。岡本太郎はそう信じた。この絵は彼の痛切なメッセージだ。絵でなければ表現できない、伝えられない、純一・透明な叫びだ。この純粋さ。リリカルと言いたいほど切々と激しい。

 二十一世紀は行方の見えない不安定な時代だ。テロ、報復、果てしない殺戮、核拡散、ウィルスは不気味にひろがり、地球は回復不能な破滅の道につき進んでいるように見える。こういう時代に、この絵が発するメッセージは強く、鋭い。負けないぞ。絵全体が高らかに哄笑し、誇り高く炸裂している。(岡本敏子)

(マウス)

(参考)岡本太郎年表

・1911(明治44年)
2月26日/大貫家にて漫画家・岡本一平、歌人で小説家・岡本かの子の長男として、かの子の実家のある神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)に生まれる。
・1917(大正6年)6歳
4月/青山の青南小学校に入学するが1学期で退学し、私塾・日新学校、十思小学校と転校を繰り返す。
・1918(大正7年)7歳
慶応幼稚舎に入学し、寄宿舎に入る。
・1925(大正14年)14歳
2月/野口富士男ら同級生との同人誌のため、春のボートレース対抗試合に負けた悔しさを表現した《敗惨の歎き》を制作。
・1929(昭和4年)18歳
3月/慶應普通部を卒業し、翌月東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。12月/一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し渡欧するため、一家で箱根丸にて神戸港を出発。
・1930(昭和5年)19歳
1月/マルセイユを経由してパリに到着。一平、かの子は取材のためロンドンに向かい、太郎は一人パリに残る。7-8月/ロンドンのハムステッド・ヒースの両親のもとで夏休みを過ごす。
・1931(昭和6年)20歳
3月/パリ郊外にあるセーヌ県ショアジー・ル・ロワのリセ「パンシオン・フランショ」(市立学校寄宿舎)で生活。9月/パリ大学ソルボンヌ校でヘーゲル美学を受講する。
・1932(昭和7年)21歳
1月/両親は帰国の途につく。夏、ラ・ポエッシー街のポール・ローザンベール画廊にて、ピカソの作品《水差しと果物鉢》(1931年)に感動する。10月/サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に《空間》を出品する。以降、何年かにわたり出品する。
・1933(昭和8年)22歳
12月/非具象芸術グループ「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造協会)」の展覧会に出品する。
・1935(昭和10年)24歳
「アプストラクシオン・クレアシオン」のメンバーであるクルト・セリグマンと「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱し、手に届く実感のあるものを追究する。7月/ジュンヌ・ユーロップ画廊で太郎とクルト・セリグマン、スイス人のウィリアミがグループ展を開く。
・1936(昭和11年)25歳
1月/マックス・エルンスト、パトリック・ワルドベルグとグラン・ゾーギュスタン街の屋根裏で開かれたコントル・アタックの集会に参加し、ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受ける。 「アプストラクシオン・クレアシオン」を脱会する。
・1937(昭和12年)26歳
6月/G.L.M.社より初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クールティオン序文)が刊行される。10月/サロン・デ・シュール・アンデパンダン展に《傷ましき腕》を出品し、アンドレ・ブルトンに評価される。
・1938(昭和13年)27歳
1月/国際シュルレアリスム・パリ展に《傷ましき腕》を出品。アンドレ・ブルトンらシュルレアリストらとの親交が深まる。7月/バタイユからの推薦により、秘密結社「アセファル(無頭人)」に参加する。パリ大学でマルセル・モースに師事し、民族学を学ぶ。
・1939(昭和14年)28歳
2月18日/母・岡本かの子没(享年49)。
・1940(昭和15年)29歳
6月/ドイツ軍によるフランス侵攻により、最後の引き揚げ船・白山丸で帰路につく。
・1941(昭和16年)30歳
9月/第28回二科展に滞欧作品《傷ましき腕》《コントルポアン》など4点を特別出品し、二科賞を受賞。11月/「岡本太郎滞欧作品展」を銀座三越にて開催。横光利一、藤田嗣治、岡鹿之助らがパンフレットに執筆。
・1942(昭和17年)31歳
1月/現役初年兵として兵役につき、中国戦線へ。
・1946(昭和21年)35歳
6月/約半年間の中国・洞庭湖近くの俘虜生活を経て復員。戦火により青山の自宅にあった作品の全てを焼失したことを知る。一平の疎開先である岐阜県加茂郡西白川村を訪ね再会する。鎌倉の川端康成宅、かの子の実家などを転々とする。
・1947(昭和22年)36歳
4月/二科会員に推挙される。上野毛にアトリエを構える。9月/第32回二科展に《夜》《憂愁》を出品。
・1948(昭和23年)37歳
花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛芸術運動を開始する。安部公房、埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らが参加。2月/日本アヴァンギャルド美術クラブの主催で「モダン・アート」展が開催される。8月/「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足。花田清輝、瀬木慎一、池田龍雄、勅使河原宏、山口勝弘、福島秀子、北代省三、平野敏子らが参加し、東大赤門前喜福寺を会合の場所とする。9月/第33回二科展に《夜明け》を出品。10月11日/父・岡本一平没(享年62)。一平のデスマスクを描く。以後、一平の後妻と3人の子供は太郎が引き取り生活の面倒をみる。
・1949(昭和24年)38歳
2月/第1回日本アンデパンダン展に《赤い兎》を出品。 9月/第34回二科展に《重工業》を出品。 『新しい芸術の探求』(夜の会編)が月曜書房から出版される。
1950(昭和25年)39歳
1月/読売新聞社主催の「現代美術自選代表作十五人展」に前年再制作した《傷ましき腕》《露店》等を出品。2月/第2回日本アンデパンダン展の開会日に食堂で「対極主義宣言」を読み上げ、対極主義美術協会の結成を呼びかけるが、賛同を得られず流会となる。9月 第35回二科展に《森の掟》を出品。
・1951(昭和26年)40歳
11月/戦後に制作された作品を集めた「岡本太郎展」が日本橋三越で開催される。東京国立博物館にて縄文土器を見て衝撃を受ける。
・1952(昭和27年)41歳
2月/縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として『みづゑ』に発表。2月/第4回日本アンデパンダン展にモザイク・タイルによる壁画の第1作《太陽の神話》を出品。3月/地下鉄日本橋駅に26メートルのモザイク・タイル壁画《創生》を制作。 常滑焼による作品《顔》を制作。5月/パリでの「サロン・ド・メ」展に《夜明け》《堕天使》を出品。10月/大阪・高島屋にて「岡本太郎展」渡欧記念展を開催。11月/翌年にかけてヨーロッパを再訪し、マックス・エルンスト、ジャン・アルプらと再会。この頃よりスキーを始める。
・1953(昭和28年)42歳
1-2月/パリ・クルーズ画廊にて個展。当時パリにいた海藤日出男、菅井汲、今井俊満、田淵安一らが手伝い、ヴェルニサージュにはザッキン、ソニア・ドローネー、バタイユ、ラゴン、ミショー、スーポーらが来訪。4月/南仏・ヴァロリスのピカソのアトリエを訪ねる。7月/日本のアヴァンギャルド芸術家約50人と瀧口修造、植村鷹千代ら批評家が加わって国際アート・クラブ日本支部が結成され、その代表に選出される。9月 ニューヨークのヒューゴー画廊にて個展。10月 日本橋・高島屋ショウウィンドーのディスプレイを担当。東京国立博物館表慶館で開催された「ルオー展」を日本テレビで会場から生中継で解説。初のテレビ出演と思われる。第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表の1人として出品。『青春ピカソ』(新潮社)を出版。
・1954(昭和29年)43歳
6-10月/第27回ヴェネチア・ビエンナーレに日本代表として、坂本繁二郎とともに選出される。8月/光文社より『今日の芸術―時代を創造するものは誰か』が刊行され、ベストセラーになる。10月/坂倉準三設計によるアトリエが青山(現・岡本太郎記念館)に完成し、現代芸術研究所を設立。一平の七回忌に多磨霊園にある墓碑へ陶の作品《顔》を設置。
・1955(昭和30年)44歳
4月/淡交社主催の「実験茶会」の亭主として茶会を催す。9月/第40回二科展に《瞬間》を出品。二科会第9室に若手作家を集めた特別室ができ、「太郎部屋」と呼ばれ注目される。12月/現代芸術の会の第1回例会が開かれる。出席者は太郎のほか、丹下健三、亀倉雄策、柳宗理ら。以降毎月例会がもたれ、花田清輝、安部公房、丹下健三ら様々なジャンルの講師を迎える。原爆と人間を象徴する大作《燃える人》を毎日国際展に出品。ヘリコプターで東京・銀座の夜空に光で絵を描く。
・1956(昭和31年)45歳
1月/島耕二監督のSF映画「宇宙人東京に現わる」の宇宙人等のデザイン、及び色彩指導を務める。8月/東京・中央区築地にある松竹セントラル劇場にモザイク・タイル壁画《青春》を設置。9月/東京大手町・大和証券ホールに陶板レリーフ壁画《踊り》を制作。10月/丹下健三設計の(旧)東京都庁に11面の陶板レリーフを制作。11月/日本橋・高島屋にてアート・クラブ、朝日新聞社主催の「世界・今日の美術」展を企画し、ジョルジュ・マチュー、サム・フランシス、ジャン・フォートリエらアンフォルメルの作家を多数紹介する。縄文土器論を収録した『日本の伝統』(光文社)を出版。
・1957(昭和32年)46歳
4-12月/「日本再発見―芸術風土記」を『芸術新潮』に連載し、日本各地を精力的に取材する。ミシェル・タピエが来日の際にジョルジュ・マチューを太郎に紹介。太郎はマチューの公開制作のためにアトリエの庭を提供する。アンフォルメルがブームとなる。7-11月/第11回ミラノ・トリエンナーレに陶版画《陽》を出品。
・1958(昭和33年)47歳
4月/国鉄(現在のJR)神田駅地下道に3面のモザイク・タイル壁画を制作。5月/第3回日本現代美術展に《ドラマ》を出品。9月/『日本再発見―芸術風土記』(新潮社)を出版。
・1959(昭和34年)48歳
8月/武智鉄二演出のオペラ「ローエングリン」(東京国立競技場)の美術を担当する。 9月/第44回二科展に彫刻《動物》を出品。 11月/沖縄に旅行し、「御嶽」に感動する。 12月/長野県戸倉スポーツランドにモニュメント《動物》を制作。 東京都庁の壁画に対し、フランスの雑誌『今日の建築』の国際建築絵画大賞が授与される。『画文集・黒い太陽』(美術出版社)を出版。
・1960(昭和35年)49歳
6月/東京・銀座松坂屋中央ホールに《真夏の夢》をディスプレイする。3-12月/「沖縄文化論」を『中央公論』に連載する。
・1961(昭和36年)50歳
1月/『忘れられた日本<沖縄文化論>』(中央公論社)を出版し、毎日出版文化賞を受ける。 4月/草津白根山でスキー中に骨折。ギプスのはめられた足に想を得て、彫刻《あし》を制作。6月/東京宝塚劇場・東宝劇団歌舞伎旗揚げ興行「寿二人三番叟」の美術を担当する。8月/二科会を脱会する。11月/東京・銀座、東京画廊にて個展。 カルピス相模原工場に、モザイク・タイル壁画《初恋》を制作する。
・1962(昭和37年)51歳
4月/東京・後楽園ボウリングセンターにモザイク・タイル壁画《赤》《青》の2面を制作する。11月/川崎市多摩川河畔に岡本かの子文学碑《誇り》を制作する。12月/東京・池袋駅前広場にアルミ製クリスマス・モニュメント《メリー・ポール》を制作する。 アントニン・レーモンド設計のデッブス邸茶室(東京・渋谷)の浴室構成を行う。
・1963(昭和38年)52歳
2-3月/フランス、イタリア、アメリカ、メキシコを旅行する。12月/東京・池袋駅前広場に東京オリンピックを記念して《ヴィクトリー・ポール》を制作する。
・1964(昭和39年)53歳
1月/池袋・西武百貨店と銀座・東京画廊で個展を開催。会場構成は磯崎新による(名古屋、川崎、仙台、福岡、千葉、大阪を巡回)。8月/東京オリンピック参加記念メダルを制作する。10月/丹下健三設計による代々木国立競技場に陶板レリーフとモザイク・タイル壁画を制作。 12月/韓国に取材旅行に出かける。『神秘日本』(中央公論社)を出版。
・1965(昭和40年)54歳
1月/「岡本太郎の眼」を『週間朝日』に連載する。8月/銀座・東京画廊にて梵鐘とろうそくの作品による「鐘と炎」展を開催する。10月/名古屋・久国寺に梵鐘《歓喜》を制作。
・1966(昭和41年)55歳
1月/旧正月行事取材のために香港、マカオへ取材旅行。7月/伊豆・富士見ランドに高さ7,3メートルの彫刻に吊るした《太陽の鐘》を制作する。 11月/銀座・数奇屋橋公園に《若い時計台》を制作する。12月/沖縄を再訪し、12年に1度行われるイザイホーの神事を取材する。
・1967(昭和42年)56歳
6月/日本万国博覧会のテーマ館展示プロデューサーに就任する。7-9月/テレビ映画「岡本太郎の探る中南米大陸」撮影のため、中南米に旅行する。
・1968(昭和43年)57歳
1-2月/万国博へ国際協力の要請をするため、パリ、プラハ、ロンドンを歴訪。グルノーブル・オリンピックを視察する。2月/メキシコのホテル、オテル・デ・メヒコの大壁画《明日の神話》制作のため、現地にアトリエを構える。3月/万国博テーマ館展示の基本構想を発表。6月/東京・銀座松屋にて「太郎爆発」展が開催される。会場構成は磯崎新。9月/東京・大田区山王にマミ会館の建築設計をする。『原色の呪文』(文藝春秋)、『画集・岡本太郎』(美術出版社)を出版。
・1969(昭和44年)58歳
2月/ライター《火の接吻》が売り出される。犬山ラインパークにシンボルタワー《若い太陽の塔》を制作。8月/別府駅前サンドラック・ビルの外壁に陶板レリーフ壁画《緑の太陽》を制作。メキシコにて《明日の神話》の制作を続ける。
・1970(昭和45年)59歳
「わが世界美術史」を『芸術新潮』に1年間連載する。3月/日本万国博覧会シンボルゾーン中央に《太陽の塔》《母の塔》《青春の塔》を含むテーマ館完成。テーマ館館長を務める。7-9月/「TARO爆発」展がパリ、アルジェ、チュニスを巡回。泉靖一との対談からなる『対談・日本列島文化論』(大光社)を出版。
・1971(昭和46年)60歳
2月/日商岩井音羽マンションのインテリア構成を行う。7月/パリ、フォーブル・サントノーレ芸術祭「街の美術館」に《樹人》を出品し、祭りの王様に選ばれる。11月/名古屋のオリエンタル中村百貨店正面外壁に光る大壁画を完成。『美の呪力―わが世界美術史』(新潮社)を出版。
・1972(昭和47年)61歳
2月/札幌オリンピックの公式メダルを制作。 3月/山陽新幹線開通にあわせ、新幹線岡山駅に陶板壁画《躍進》を制作。 3-5月/ミュンヘン市ハウス・デル・クンストで開催された「シュルレアリスム」展に《傷ましき腕》を出品(パリ・ルーブル美術館内装飾美術館を巡回)。5月/ミュンヘン・オリンピックの公式メダル制作。
・1973(昭和48年)62歳
7月/飛行船(積水ハウス、全長56メートル)に絵を描く。
・1974(昭和49年)63歳
3月/パリで版画集『アプストラクシオン・クレアシオン・アール・ノンフィギュラティーフ1931-36』が刊行され、アルプ、カンディンスキー、モンドリアンら代表作家30人の中に選ばれる。NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》制作。8月/きもの柄をデザインし、《TAROきもの》として発売される。11月/パリのエディシオン・ポール・ネムーより、最初の版画集『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー)を刊行する。12月/信州・野沢温泉にシュナイダー記念碑を制作。 諏訪大社近くにある「万治の石仏」に出会い絶賛する。
・1975(昭和50年)64歳
1月/《太陽の塔》の永久保存が決定される。3月/晴海の店舗システム・ショーに岡本太郎そっくりの人形(製作・七彩工芸)が出品され話題となる。 7月/パリ大学民族学教授ジャン・ルーシュのインタビューと撮影による「岡本太郎―マルセル・モースの肖像」が、イタリア・アゾロの映画祭で芸術家の伝記大賞を受賞。10月/パリ国際センターに5枚の壁画を制作。
・1976(昭和51年)65歳
1月/著作『美の呪力』の仏訳がパリのセゲール社より出版される。1-2月/「TARO展―挑み・燃え・ひらく岡本太郎」が日本橋高島屋で開催される(パリ市ガリエラ美術館を巡回)。3月/キリン・シーグラム社のロバート・ブラウン発売2周年記念に《顔のグラス》を制作。4月/ガリエラ美術館での展覧会を記念して、版画集と画集が出版される。11月/スペインに旅行し、翌年報知新聞に紀行を連載。
・1977(昭和52年)66歳
スペイン国立版画院に、日本人で初めて銅版画が収蔵される。12月/ベルギーで制作した創作デザイン・トランプが講談社より発売される。『岡本太郎の挑戦するスキー』(講談社)を出版。
・1978(昭和53年)67歳
9月/テレビ番組「もう一つの旅」撮影のため、パリ、マジョルカ島を経て、バルセロナにガウディの建築を見に行く。10月/福山市・日本はきもの博物館中庭に《足あと広場》を制作。
・1979(昭和54年)68歳
1月/「人生相談・にらめっこ問答」の連載を『週刊プレボーイ』(集英社)にて始める。 2月/札幌雪まつり30周年を記念するシンボル、大雪像《雪の女神》を制作。9月/『岡本太郎著作集』(全9巻・講談社)が翌年にかけて出版される。 10月/作品集『岡本太郎』(平凡社)を出版。
・1980(昭和55年)69歳
2月/新宿・小田急グランドギャラリーでの「挑む―岡本太郎」展を記念して、新宿駅西口広場で、絵画文字《挑む》の公開制作を行う。 4-5月/諏訪の御柱祭を取材する。
・1981(昭和56年)70歳
3月/極彩色の鯉のぼり《TARO鯉》が発売される。6月/テレビセミナー「マイコン時代」(TBS)に出演し、初めてコンピューターで絵を描く。7-9月/山梨県立美術館で「岡本太郎」展が開催される。11月/極彩色の絵のような文字100字が収録された画集『遊ぶ字』(日本芸術出版社)が刊行される。「日立マクセルビデオカセット」のコマーシャルに出演。《梵鐘》を叩きながら叫ぶ「芸術は爆発だ!」の言葉が流行語大賞の語録賞を受賞。
・1982(昭和57年)71歳
7月/青森県古牧温泉渋沢公園に、日本カッパ龍神祭りのシンボル《カッパ神像》を制作。 12月/オリジナルデザインのテレホンカードとして《遊ぶ字》のシリーズが日本電信電話公社(現在のNTT)より発売される。『美の世界旅行』(新潮社)を出版。
・1983(昭和58年)72歳
2月/山形県の観光スキー映画「山形は白い国、岡本太郎のスキー」に出演。8月/京都じゅらくより、振袖・帯など発売される。
・1984(昭和59年)73歳
4月/フランス香水フェアシンボル《香りの塔》を原宿ラフォーレ前に展示。12月/フランス政府より芸術文化勲章を受ける。
・1985(昭和60年)74歳
3月/筑波科学技術博覧会にシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。9月/横浜そごう屋上・太陽の広場にシンボルモニュメント《太陽》を制作。11月/青山・こどもの城にシンボルモニュメント《こどもの樹》を制作。12-2月/イギリス・オックスフォード近代美術館における「日本の前衛芸術」展に出品。
・1986(昭和61年)75歳
4月/この月より日本テレビ「テレモンジャ」にレギュラー出演。「なんだこれは」が流行語になる。12月/パリのポンピドゥー・センターで翌年2月にかけて行われた展覧会「日本の前衛美術」展に出品。
・1987(昭和62年)76歳
3月/さよなら国鉄・新生JRの記念メダル《出発》を制作。4-5月/NHK制作のテレビドラマ「ばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演。4月/青森県三沢市古牧温泉、古牧第三グランドホテルに《天平図》《長生夢幻》《端鳥》設置。
・1988(昭和63年)77歳
2月26日/草月会館で岡本太郎喜寿を祝う会が行われる。4月/岐阜未来博にシンボルモニュメント《未来を拓く》を制作。9月/ダスキンのフリーデザインマットのコマーシャルに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。『自分の中に毒を持て』(青春出版社)を出版。
・1989(平成元年)78歳
7月/フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
・1990(平成2年)79歳
8月/岩手県藤沢町の縄文野焼祭・縄文サミットに参加。シンボルとして《縄文人》を展示。
・1991(平成3年)80歳
4月/奥入瀬渓流グランドホテルのラウンジ中央に暖炉彫刻《森の神話》を制作。5月/長野県野沢温泉村・名誉村民第1号を贈られる。5月/東京都庁の新宿移転にともない、丸の内庁舎取り壊しが決定。56年に制作した陶板レリーフの保存運動がおこるが、9月に取り壊される。11-12月/十二指腸潰瘍で慶應病院に入院。12月/川崎市市民ミュージアムにて行われた「川崎生まれの鬼才―岡本太郎」展(4~6月)を機に、川崎市に主要作品を寄贈。翌年、岡本太郎美術館の建設が発表される。
・1992(平成4年)81歳
「岡本太郎の世界」が『美術手帖』5月号で特集される。
・1993(平成5年)82歳
4-7月/浦安市舞浜の運動公園に《躍動の門》《五大陸》を制作。10月/青森県三沢市の古牧チャペルに《歓びの鐘》を制作。
・1995(平成7年)84歳
10月/翌年にかけて「岡本太郎」展の巡回(大阪高島屋、広島市現代美術館)。
・1996(平成8年)
1月7日/急性呼吸不全にて死去。
(享年84)2月26日/草月会館草月プラザにてお別れ会「岡本太郎と語る広場」が開かれる。

 

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