さて、兵庫県に入って年末年始を挟み3館ほどユニークな博物館、アート施設をご紹介していきました。
今日からは美術館…といきたかったのですが、こちらも兵庫県の有名なお寺の境内に立地する「最後の文人画家」とうたわれたある作家のコレクションを展示する美術館です。
文人画家と画家の違いがよくわからないかもしれませんが、もともと画を専業としない人たち…文人(おおむね中国で儒家など指導的立場にある者で、幅広い知識を有する読書人であることを前提に詩文なども得意な人)が描いたものを指す、というイメージで見ていただけたらと思います。すごくわかりやすく言うと前にアーティスト19のメンバーとして活躍された326(ナカムラミツルさん)みたいな人です(なので今では文人画家っていうのは使わないのでしょうね…)。では早速。
このブログで紹介する美術館
鉄斎美術館(清荒神清澄寺)
・開館:1975年 ※2008年に鉄斎美術館別館 「史料館」も完成
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)
※左:美術館本館「聖光殿」※現在休館中、右:別館 「史料館」
・場所
鉄斎美術館 – Google マップ
→阪急電車宝塚線:清荒神駅より徒歩約15分との事。
幕末京都に生まれ明治・大正を生きた最後の文人画家
・まずは富岡鉄斎について振り返り、その後、このお寺と鉄斎がどのような関係にあったのかをご説明していきたいと思います。
富岡鉄斎とは
・天保7年(1836年)、京都の法衣商:十一屋伝兵衛(富岡維叙(これのぶ))の次男として生まれる。15歳のころ平田篤胤(ひらたあつたね)の門人:大国隆正(おおくにたかまさ)に国学を、岩垣月洲(いわがきげっしゅう)に儒学を学ぶ。20歳のころには心性寺(しんしょうじ)において春日潜庵(かすがせんあん)に陽明学を学び、梅田雲浜(うめだうんぴん)の講義を聴く。幕末動乱のなかで勤皇思想(※幕末期において徳川幕府による国家支配の体系を批判し、新しい国家権力の頂点に天皇を据えようとする政治思想)に傾倒、国事に奔走する青年期を過ごす。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮(いそのかみじんぐう)、和泉(いずみ)の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くし、1881年(明治14)京都に帰り画業に専念。
画法は19歳のころに南画の手ほどきを受けたくらいでほとんど独学。その後も南画や明清画、大和絵など諸派の研究した。特色として、生新な色彩感覚と気迫に満ちた自由放胆な水墨画風のもので、晩年に多く傑作を残している。のち、各種の展覧会や博覧会の審査員となるが、自身は南画協会などを除いてほとんど出品せず、自適の生活のうちに在野の学者としての態度を貫いた。
→傑作の殆どは晩年の作品だったんですね。それにしても儒教、陽明学、国学と…さすが多才で幅広い教養人ですね。画家としても腕もさながら、知識欲・成長欲がすごかったのでしょう。(勝手なイメージですがスポーツでいうとイチローさんや中田英寿さん的な…)
なぜ清荒神清澄寺に鉄斎が?
・清澄寺の第37世法主光浄和上(1875年~1969年)は、当時、名物といえば歌劇しかなかった宝塚に、宗教と芸術文化の花を咲かせる理想の聖域を創造したいという念願をもっていました。(→宝塚歌劇…意外と歴史古く1913年創立です)
光浄和上と富岡鉄斎(1836年~1924年)は、ともに京都に生まれましたが、初めての出会いは大正11年(1922年)夏、鉄斎はわずか亡くなる3年前の87歳、光浄和上48歳の時。その出会いをきっかけに鉄斎芸術に深く傾倒した和上は、作品の蒐集とその研究に生涯を捧げます。
その遺志は第38世光聰和上(1927年~1995年)に受け継がれ、フランスのギメ美術館、アメリカのボストン美術館、東京国立博物館、東京国立近代美術館、京都市美術館など国の内外の機関に作品を寄贈、昭和11年(1936年)より国内各地をはじめ、アメリカのニューヨーク、イタリア、ドイツ、イギリス、中国などで、当山コレクションによる鉄斎展を開催。
光浄和上は自ら海外の展覧会場を訪れ、鉄斎の平和精神と「三宝三福」の真理を説くなど世界の人々と広く交流を持ち、清荒神清澄寺は「鉄斎寺」として世界的に知られるように。また光聰和上は鉄斎の賛文を解読する研究誌「鉄斎研究」(1~71号)を発刊し、さらに昭和50年(1975)鉄斎美術館を開館。
現法主第39世光謙和上は、作品の収蔵、保管のため平成11年(1999年)に美術館に併設する収蔵庫を建設し、現在に至っているそうです。(以下動画は美術館公式HPより)
→37、38、39世と3世代にわたる和尚がご尽力されてきたコレクションなのですね。この前ご紹介した逸翁美術館、その創立者で阪急電車や宝塚歌劇をつくった小林一三氏が1873年生~1957年没ですから、光浄和上(1875年~1969年)と時代的には完全に重なりますね。もしかしたら小林氏が情熱を注いだ宝塚の発展に感化され、富岡鉄斎という新時代を築く水墨画を添えたいという想いがあったのかもしれませんね。光浄和上と逸翁(小林一三氏)がともに宝塚で茶会を催したみたいな史実が残っていれば面白いのですが…私が調べた限りでは見つからず。今度図書館にでも行ってもう少し見てみたいと思います(笑)
それにしても、富岡鉄斎、自分の亡くなる3年前に出会った自分よりもはるかに若い住職に自らの傑作を託したという出来事はなにか惹かれるものがありますね。それほど、光浄和上と清荒神清澄寺、そして宝塚の行く末に思うところがあったのかもしれません。
そんな富岡鉄斎と清荒神清澄寺、ぜひ足を運んでみて下さい。
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