こんにちは。現在、長野県の美術館紹介を続けています。
ところで皆さん、「キッツ」という社名を聞いてピンときた方はどれくらいいらっしゃるでしょうか…私みたいな製造業のサラリーマンはカタカナよりも「KITS」という英語表記で書いた方がピンとくる方が多いかもしれません。
そう、創業の地をたどると長野県諏訪市にいきつく世界有数のバルブメーカー「株式会社キッツ(旧北沢バルブ)」、この企業が建てた美術館が本日ご紹介する館です。キッツ自体は、創業の頃から山梨県北巨摩郡日野春村長坂上条(現・北杜市長坂町長坂上条)に主力拠点を置いていましたが、創業者である北澤利男氏がキッツを立ち上げ独立するまでは諏訪市に本社を置く父:北澤國男氏が営む北澤工業株式会社(現:東洋バルヴ)で勤務していました。
この東洋バルヴは1919年(大正8年)、長野県諏訪郡上諏訪町(現・長野県諏訪市)で製糸用蚕繭買い取り業を営んでいた長男の北澤國男氏、上諏訪町清水町の鋳物工場平野屋鋳造所に勤務していた次男の北澤友喜氏・北澤克男氏・北澤元男氏ら4兄弟が、製糸工場向けバルブの製造販売を行う「北澤製作所」として上諏訪町湯の脇に創業したもので、寒冷地の工場向けにカランを肉厚として凍結破損しにくくした「諏訪型」と呼ばれるバルブを開発して急成長したものです。
…少し詳しく長野:諏訪あたりのバルブ史をおさらいしたところで、今日ご紹介の館は、このうちキッツの創業者:北澤利男氏が集めたコレクションがメインです。どんな美術館なのでしょうか、さっそく見ていきましょう。
このブログで紹介する美術館
北澤美術館
・開館:1983年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市、観光協会HPより転載)
・場所
北澤美術館
世界有数のバルブメーカーが設立、諏訪湖のほとりにたたずむ現代日本画とガラス工芸のコレクション
・株式会社キッツ(旧北沢バルブ)の創業者:北澤利男氏(1917-1997)が集めた美術品を公開。2013(平成25)年には公益財団法人となり、開館以来通算800万人を超える来館者数を達成しています。コレクションは、東山魁夷、山口華楊など1960年代以降の現代日本画に加え、「小さくても個性の光る美術館」をめざし、当時はまだ知られていなかった19世紀末フランスのガラス工芸家エミール・ガレとドーム兄弟の作品収集に力を注ぎ、現在は20世紀初頭のルネ・ラリックとパート・ド・ヴェール作品を含め、アール・ヌーヴォーからアール・デコのガラス工芸を専門に収集展示。《ひとよ茸ランプ》や《フランスの薔薇》など世界的にも貴重な作品も所有し、およそ1000点を誇るユニークな美術館として知られるようになりました。
→ガラス工芸好きな方は先日ご紹介した箱根ラリック美術館とワンセットでいくとより一層楽しめるかもしれませんね。
アール・ヌーヴォー/ アール・デコのガラス工芸とは
・以下は美術館HP内で紹介されていたアール・ヌーヴォー/ アール・デコなどガラス工芸作品の説明文です。こちらも掲載しておきます。
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・「アール・ヌーヴォー」とは19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパを舞台に繰り広げられた工芸の改革運動です。
フランスはこの時代「ベルエポック」とよばれる繁栄の時代を謳歌していましたが、首都パリと共に運動の中心となったのが、エミール・ガレが生まれたフランス北東部の古都ナンシーでした。仏語で新しい芸術を意味する「アール・ヌーヴォー」の工芸家たちは、産業革命によって過密化した都市の住空間にうるおいを与える新しいデザインを求めて、自然の草木のしなやかな曲線に注目しました。
熱烈な植物愛好家で詩や音楽など高い教養を身に着けたガレは、花や昆虫など自然の観察をもとに、「ジャポニスム」の影響もうけた、詩的な表現を盛り込み、実用品にすぎなかったガラス工芸に絵画や彫刻にも劣らぬ芸術性を与え、1889年と1900年のパリ万国博覧会でグランプリを受賞するなど、輝かしいキャリアを歩みました。
同じナンシーにガラス工場を経営するドーム兄弟は、ガレの栄光に触発され同じ道を歩み、やがて1900年パリ万博ではガレと同時にグランプリを受賞するなど、アール・ヌーヴォー・ナンシー派の両輪として肩をならべる存在に成長活躍します。
彼らと同じ時代にジュエリーの分野でアール・ヌーヴォーをけん引した工芸家ルネ・ラリックは、20世紀初頭の1910年頃からガラス工芸に転向し、現代性あふれる「アール・デコ」のガラス工芸を誕生させます。
ガレやドームとは対照的に、透明素地を用いた鋳型制作による力強いフォルムで新時代の美学を打ち立てました。アール・デコの語源となった1925年パリの「現代装飾美術産業美術国際博覧会」(通称「アール・デコ博」)の来場者は、光輝く野外噴水や建物の内外装などラリックの大規模な演出に目を奪われました。
この時代のガラス工芸でもうひとつ注目すべきは、フランスで栄えた知られざるガラス製法「パート・ド・ヴェール」です。
色ガラスの粉粒を石膏型に入れて焼く古代のガラス製法です。19世紀末に復活し、20世紀初頭にかけてフランスで盛んになりました。ガラス工芸としては難しい技法で制作年も限られており、現物を目にできる機会も少ないものですが、北澤美術館ではワルター、アルジィ=ルソー、ダムーズ、デコルシュモン、デプレなど代表作家の作品を多数所蔵しております。
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主な収蔵作家
(以下収蔵作家の美術館側説明文です)
エミール・ガレ
・19世紀末の工芸改革運動アール・ヌーヴォーの創始者のひとり。本名シャルル=マルタン=エミール・ガレ。1846年5月4日フランス北東部ロレーヌ地方の主都ナンシーに生まれ、高級ガラスと陶器の企画販売業を営む父親の跡取りとして工芸家となり、陶器、ガラス製品に植物や昆虫など自然の意匠を取り入れた新機軸を打ち出す。1885年頃より寄木細工の高級木工家具も手掛け始めた。詩文を刻んだ「もの言うガラス」など芸術性豊かな製品を世に送り、1889年と1900年のパリ万国博覧会でグランプリを受賞するなど輝かしいキャリアを歩んだ。熱烈な園芸愛好家で本業のかたわら植物研究に打ち込み、「ナンシー中央園芸協会」の重職を務めるなど植物学者としての一面をもっていた。1901年「芸術産業地方同盟」別名「ナンシー派」を設立主宰するも志半ばにして、1904年9月23日58歳で病没。その後ガレ社は家族が経営を引き継ぎ、1931年までガレ様式の製品を世に送り続けた。
ドーム兄弟
・ガレと同じナンシーにガラス工場(創業1878年)を経営するアール・ヌーヴォーのガラス工芸家兄弟。ふたりの父ジャン・ドームは、ロレーヌ地方北部の街ビッチュ在住の公証人であったが、普仏戦争の敗北の後ナンシーに逃れガラス工場の経営者となった。兄弟はガレの活躍にあこがれ、1891年より高級工芸ガラスの分野に進出。1900年パリ万国博覧会ではガレと同時にガラス部門のグランプリを受賞するなど、競争相手に成長する。デザインから経営までをすべてひとりで采配したガレとは対照的に、ドーム社では兄オーギュストが経営に専念し、弟アントナンが美術監督となり、デザイナーのアンリ・ベルジェをはじめ優れたスタッフの力を束ねた協力体制に特徴がある。第一世界大戦後アール・ヌーヴォーの流行が過ぎ去った後も、1920-30年代のアール・デコ期、1960-70年代の透明クリスタルの時代とドーム社は常にガラス界のリーダーであり続けた。
ルネ・ラリック
・アール・ヌーヴォーのジュエリー制作者、アール・デコのガラス工芸家。本名ルネ=ジュール・ラリック。1860年4月6日シャンパーニュ地方マルヌ県アイに生まれる。前半生はパリでジュエリー制作者とし活動し、1900年のパリ万国博覧会でグランプリを受賞。宝石の価値ではなくデザイン性に価値を置いた制作より、アール・ヌーヴォー・ジュエリーの創始者として賞賛を浴びた。1910年頃よりガラス工芸に転向。後半生は透明な光の輝きを活かしたシャープでモダンなデザインで、ガラス界に新しい時代様式「アール・デコ」を生み出し成功を収めた。アール・デコの語源にもなった1925年パリの博覧会「現代装飾美術産業美術国際博覧会」では、電気の光による演出を駆使した室内装飾や野外噴水など、それまでにないガラスの活用法を披露し注目を集めた。1945年5月5日没。金型を利用することで芸術性を損ねることなく量産を成し遂げた生産法は、現代のプロダクト・デザインにもつながる先駆的なものであった。その洗練されたスタイルは21世紀の現代にも通じる新鮮さを放っている。
アマルリック・ワルター
・パート・ド・ヴェールの復元にいち早く成功したアンリ・クロスの工房のあった国立セーヴル製陶所内の養成学校を卒業した後、1903年フランス芸術家協会サロンに同技法による作品を発表。アントナン・ドームの目にとまり、1905年からナンシーのドーム社でパート・ド・ヴェールの製造開発に携わった。ドームのデザイン主任アンリ・ベルジェが主に原形を手掛け、1906頃から実際にドーム社から製品として販売された。1909年ナンシーの東部国際博覧会におけるドームの出展コーナーは、ワルター作の装飾パネルで飾られている。第一次世界大戦後はナンシーに個人工房を構え、1937年まで活動を続けた。ワルターの作品は色彩の鮮やかさと厚みのある素地が特徴。H.ベルジェら彫刻家から原形の提供を受けていた。なお複数の文献にみられるアルマリック・ワルターの表記は誤りである。
ガブリエル・アルジィ=ルソー
・本名ジョゼフ=ガブリエル・ルソー。美術と物理学に関心を抱き、技術学校に学んだ後、国立セーヴル製陶所養成学校で陶芸と窯業化学を修得。卒業後歯科技工士の職を経てパート・ド・ヴェール工房を設立。妻の旧姓アルジリアデスにあやかり、アルジィ=ルソーに改名。1921年から1931年にかけ共同出資者と製造会社を興しパート・ド・ヴェールの量産を実践した。作品は薄手で透明感があり、常夜灯やパフューム・ランプ、電気スタンドなどの電気照明器具類も多く手掛けている。ガラス工芸と並行してカラー写真技術など数々の技術開発で特許を取得している。
アルベール=ルイ・ダムーズ
・ダムーズは国立セーヴル製陶所で働く彫刻家の息子に生まれ、幼い時から陶芸に親しんだ。パリ装飾美術学校を卒業した後、国立美術学校で彫刻を学び、国立セーヴル製陶所の絵付師マルク=ルイ・ソロンの工房で、1870年より貼付装飾や高火度絵具による下絵付など高度な磁器装飾技法を修得。1892年セーヴル市内に陶芸工房を設立し、1897年よりパート・ド・ヴェールにも挑戦。「パート・デマイユ」とよばれる卵の殻のように薄くデリケートな作品を制作した。ダムーズはアンリ・クロスに続き最も早い時期にパート・ド・ヴェール製法を成功させた作家である。
ランソワ・デコルシュモン
・本名フランソワ・エミール・デコルシュモン。代々工芸に携わり名工を排出した家系に生まれ、パリ装飾美術学校卒業後、国立美術学校で彫刻を学んだ。1901年から1903年まで陶芸家として炻器の制作を手掛け、1903年にパート・ド・ヴェールの制作を開始。まず珪砂に熔融剤を混ぜ鋳型で焼いたごく薄手の「パート・デマイユ」を手掛け、1912年からは素地をクリスタル製の厚手のものに切り替え、1920年頃までは植物や昆虫を大胆に浮き彫りした作品、1919年から1927年は線刻浮彫りのアール・デコ様式の作品を発表。1928年頃からは幾何学的な面取りを施し装飾を一切廃したシンプルなフォルムの作品、1933年以降はパート・ド・ヴェールを用いた教会装飾用のステンドグラス制作を精力的に展開、パート・ド・ヴェール作家のなかでは珍しく生涯新たな制作に挑戦し続けた作家である。
ジョルジュ・デプレ
・ジョルジュ・デプレは、ベルギーのバンシュに銀行家の息子として生まれ、 叔父が創設した鏡工場を引き継ぎ業績を拡大。その後ガラス製造会社の経営者、金融家として数々の成功を収めた実業家である。板ガラスの革新製法「フルコール法」など数多くの技術革新に貢献した優れた技術開発者でもあった。事業のかたわら芸術を愛し、古代ローマ期のパート・ド・ヴェールの再現を試み独自の成果を得て、美術家との協力で作品づくりを進めた。1897年にフランス国籍を取得。産業界への貢献が評価され、レジョン・ドヌール勲章勲一等を授与されている。現存する作品はあまり多くない。北澤美術館ではアレクサンドル・シャルパンティエのデザインによる大型装飾パネル《ラ・ヴァーグ(波)》を常設展示。
→(おそらく箱根ラリック美術館の影響もあり)この時代の方、ルネ・ラリックが一際有名ですが、ほかにも優れた作家さんンが沢山いますね。
現代日本画
・現代日本画は館内ではこんな感じに展示されているようです。(なかなか…これまた雰囲気違いますね;)…なんとなくワクワク感はガラス工芸の方がありそうです。(キュレーションの仕方もありますが)
(参考)株式会社キッツとは
・最後は恒例の美術館創設企業のご紹介です。(文化を大事にしてくれる企業…このご時世大事です!)ただし、だいぶ文字数が長くなっていますので年表だけご紹介しておきます。
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・1919年 – 北澤國男らが、長野県諏訪郡上諏訪町湯の脇にバルブ・コック製造販売「北澤製作所」を創業。
・1938年 – 長野県諏訪郡上諏訪町衣之渡に衣之渡工場(のち諏訪工場)開設。北澤製作所から「東洋バルヴ工業株式会社」を分社。
・1943年 – 株式会社化し「北澤工業株式会社」に改称。
・1947年 – 鋳鉄バルブの生産、輸出再開。
・1951年 – 北澤工業株式会社(のち東洋バルヴ株式会社、長野県諏訪市)常務取締役で会長北澤國男の長男、北澤利男が同社から独立し、「株式会社北澤製作所」(本社:東京都北区)を設立。山梨県北巨摩郡日野春村長坂上条(現・北杜市長坂町長坂上条)に長坂工場を開設。
・1962年 – 「株式会社北澤バルブ」に社名改称(英文社名KITAZAWA VALVE Co.,LTD.)。
・1972年 – 長野県諏訪市四賀に諏訪工場を開設。
・1973年 – 長野県伊那市東春近に伊那工場を開設。
・1974年 – 東京都港区南青山に本社移転。
・1975年 – 「株式会社北沢バルブ」に社名改称。関連会社株式会社東洋金属の工場として長野県茅野市宮川に茅野工場を開設。
・1977年 – 東京証券取引所2部上場の「不二家電機」と合併。不二家電機は不二家傍系のオーディオメーカーだったが、合併においては北沢側が主導権を握り存続会社は旧・不二家電機となったものの社名は「北沢バルブ」となった。
・1978年 – コーポレートブランドを「キッツ」(英文社名KITZ CORPORATION,KITZ=KITAZAWA)に変更。
・1984年 – 東京証券取引所1部に上場。
・1985年 – 北澤利男会長と清水雄輔社長の親子体制スタート。
・1990年 – 流しの下に取り付けるアンダーシンク型の家庭用浄水器「オアシックス」を発売。CMに、田代まさしを起用する。
・1991年 – 株式会社東洋金属を吸収合併。
・1992年 – 「株式会社キッツ」に社名改称し、千葉県千葉市美浜区に本社移転。「キッツレーシングチームwithSARD」。ル・マン24時間レースで9位、JSPCSUGO500kmで3位、富士1000kmで3位。
・2001年 – 清水雄輔会長と小林公雄社長の新経営体制スタート。
・2004年 – 完全子会社の株式会社キッツマテリアルが東洋バルヴ株式会社および同社子会社の株式会社トーバルエンジ(長野県茅野市金沢)のバルブ事業を譲り受け、社名を「東洋バルヴ株式会社」に改称(本社・東京都中央区日本橋人形町、本店・長野県茅野市金沢)。伸銅品事業部(茅野工場)を「株式会社キッツメタルワークス」(本社・長野県茅野市宮川)に、MF事業部(諏訪工場)を「株式会社キッツマイクロフィルター」(本社・千葉県千葉市美浜区)に分社。
・2008年 – 小林公雄会長と堀田康之社長の新経営体制スタート。
・2012年 – 東洋バルヴ株式会社の生産部門を承継し、茅野工場とする。
・2014年 – スポーツクラブ「キッツスポーツスクエア」(現・「ダンロップスポーツクラブ」)を運営する株式会社キッツウェルネスの全株式をダンロップスポーツ株式会社に売却。
・2023年11月 – 本社を森トラスト・住友不動産が所有する東京都港区汐留のオフィスビルに移転。
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→大抵こういうのは市民感覚を大事にしてネットの某編集自由なサイトから引っ張ってきてたりするのですが、1990年の年表に悪意を感じます…(といっても敢えて削除しませんが)
そんな長野県諏訪市の100年の歴史をも感じ取ることができるかもしれない北澤美術館、ぜひ皆さんも足を運んでみてください!
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