こんにちは、マウスです。
コロナ禍でなかなか旅行などできないですが、先日TV番組で空海の特集をやっていました。
空海…既に説明は不要かと思いますが、西暦816年、現在の和歌山県、高野山で真言宗を開いた始祖です。お寺のお坊さんというイメージが強いかと思いますが、空海は今でいう文系の大学教授(思想家)でありながら、書の才能にも長けており、王羲之や顔真卿の書風の流れを汲む素晴らしい作品が今でも残っています。
※酔中夢書 空海「風信帖」を学ぶより転載 https://www.shodo.co.jp/blog/yume2021/976/
さて、この空海、835年に亡くなったと伝えられていますが、高野山では空海は今も生きているとされていて、奥の院には毎日朝6時と10時半の2回、食事が運ばれているとの事。(この儀式は「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれているそう。)
…1200年もの間、食事を持って来させる空海ってどんだけ傲慢…いや、やはりそれだけすごい影響力を持っていたという証拠なのでしょうね。人生50年(西暦800年代はもっと短いのかな)と言われた当時の状況を考えると、62歳で亡くなった(とされる)空海は実年齢もさることながら、その後1200年にわたって影響を与え続けるという意味でも偉大な先人であったと言えるかもしれません。
…先人と言えば、黒柳徹子さん然り、美輪明宏さん然り、このようなコロナ禍の中、芸能界にも生き字引と言われる方々はまだまだご健在です。
今回ブログではそのような生き字引と言われる先人達の中でも、アート分野でまだ第一線として活躍している1人の画家の半生をご紹介したいと思います。
その方は画家:野見山暁治(1920年~、101歳)さんです。
※西日本新聞HPより転載 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/678354/
…お元気そうですね。
まずはどのような方かいくつか彼が描いた絵を見ていただきたいと思います。
(画像はすべてみぞえ画廊HPより転載 https://mizoe-gallery.com/user_data/gallery)
〇「誰にも負けない」油彩S120 2008年作
〇「耳よりな話」油彩F80 2007年作
〇「残ってる」油彩F100 2021年作
〇「にぎやかな季節」油彩F25 1991年作
いかがでしょう。
技法的なことはさておき、とても100歳を超えるおじいちゃんが描いたとは思えないエネルギッシュな絵の数々ですよね。ひとつひとつの画面が主張をもっているようで、野見山さんの絵を描くことができる喜びが観てる側にも伝わってくるようです。
この野見山さんは、生まれは九州筑豊エリアで、現在の飯塚市穂波村で生まれ育ち、旧制嘉穂中学(現:嘉穂高校)を卒業、その後東京美術学校(現:東京藝術大学)油画科へ進学されました。ちなみに野見山さんのお父さんは小さな炭鉱経営者だったそうで、その一生を鉱業マンとして生きたそうです。
なぜ野見山さんの出身地について少し詳しく述べたかというと、実は私の母がこの野見山さんと同郷(と言っても30歳程年下ですが)だからです。もっと言うと、幼少の頃、母から当時の飯塚という街がどのような街だったかを聞かされてきており、とてもアーティストが生まれるような環境ではない(失礼w)と思っていたため、このような世界的な画家が存命であるということに何か奇跡的なものを覚えたからです。
母が言うには、当時の飯塚は銀座よりも賑やかで、昼か夜かも分からないくらいネオンの灯りに溢れていたそう。当然ですよね、当時の主力エネルギーである石炭、最盛期にはその6割が筑豊エリアを中心に採掘されていたのですから。
※参考:筑豊炭田について http://yumenity.jp/sekitan/chikuhoutanden.html
宵越しの金は持たないと江戸っ子の気風でよく使いますが、当時の飯塚の街も炭鉱という一大産業をベースにそのような気風で経済を賑わせていたのではないでしょうか。(今のドバイなどアラブ諸国に似たような雰囲気にも通ずるものだったのかも)
炭鉱マン…昭和に入って多少は安全対策もとられていたとは言え、粉塵爆発など死と隣り合わせな職種であることには変わりなく、稼ぎの良さは彼らの潤滑油としての娯楽等々に多くが使われていたのは想像に難くありません。
ちなみに、嘉穂劇場という芝居ファンにとっては聞いたことない人はいないであろう名座も同じ市内にあります。ここも1922年に炭鉱で働く労働者や家族を慰労するための娯楽施設としてオープンしました。全国座長大会などでの活況さは当時の写真でも垣間見られ、今でも伝え聞かれます。飯塚市に行った際はぜひ立ち寄って欲しい近代遺産です。
※飯塚市観光ポータルより転載 http://kankou-iizuka.jp/topic_6/
このような当時の一大産業都市、飯塚の文化、環境に強く影響を受けた野見山少年は当時の状況をこのように振り返っています。
・ぼくが育った炭鉱地帯というのは、いまや地球上にはないような特殊な場所なんだ。土地の表面から地下へ穴ぼこを掘って、トロッコで入って石炭を掘り出す。せっかく地下から取り出してきても、なかには燃えないものも混じっている。それを積み上げると山になる、ピラミッドみたいに大きな山があっちにもこっちにもできる。それがボタ山。破棄物でできた人工の山。なんともいえない匂いがした。自然を破壊するキナ臭い匂い。~(中略)~ぼくはその中に生きていたし、そこが危険なだけに、鉱員の目を盗んだ最高の遊び場だった。小さい頃に見ていた風景は、土とか石炭とかどす黒い、あるいは乾いた殺伐として色が多かった。働く人は坑内にいるから陽にあたらないのだけれど、出てくると石炭の粉にまみれて真っ黒。昔の人は顔も体もなんだか黒かったなあ…。汽車から降りてくる人も、顔が隈取ってましたよ。
※地主恵亮著「血と汗と涙と苦労の結晶で作られたボタ山を登る」https://dailyportalz.jp/kiji/151217195306
また、野見山さんは画家になった経緯についてこのようなことも述べています。
・人づきあいする仕事が嫌だったこともある。というのは、育った環境が普通じゃなかったから。炭鉱を仕切っていた親父は、山のなかでは殺気立っていた。人身事故も多いし、隣の炭鉱の人が縄張り争いで怒鳴り込んできたり、部下同志のけんかもしょっちゅうある。刃物をもった人がやってくると、親父は「それを引っ込めたら話を聞こうじゃないか」と。
こわそうな人が「親父を出せ!」と押しかけてくると、姉は小学生なのに甲斐甲斐しく、玄関に正座して「お父さんはいません」と背中を伸ばしている。「なにぃ?!早く出せ!」、それでも頑固に「お父さんはいません!」って、根性あるなあ。
そんなヤクザ映画みたいな環境で、これが大人の世界だと思い込んでいた。「こういうのが人づきあいなら、とてもじゃないけどやっていけない」と感じたんだ。
何十年もたって芸大の教師をしていたときに、学生運動があった。「誰か出てこい!」と学生が要求すると、「じゃあぼくが行ってきます」と手を挙げた。ほかの教員は「危ないですよ、殴られますよ」と止めたけど、「ああ、ぼくは殴られるのはいいんです。いきなりブスッと刺されるのは困りますが」、当時の筑豊がそれでしたから。けんかをすれば刃物です。~(中略)~こわがっている先生に「あなた大丈夫ですか」と心配されて初めて気づきました、自分はよっぽど気の荒いところで育ったんだなあと。東京ではおれは豪胆なほうに入っているんだ。
やはり炭鉱は、ぼくの”原点”だったのかもしれない、と今は思っている。
※野見山暁治著「のこす言葉 人はどこまでいけるか」(2018年、平凡社)
…これを読んで、「そんな地域あるわけない!」と皆さん思ったかと思いますが、私の母によると、当時はブスッまではいかずとも、近所の夫婦喧嘩ではしょっちゅう台所用品が飛びかっていたという話をしていましたし、伝え聞く話によると当時は流れ者も多くいるような世界だったのではないかと推察しています。
野見山暁治、生まれ育ったこの環境だけでも特異な画家と言うことができるかもしれませんね。
そして今年で101歳、100歳以上生きていますから、この後も色々な出来事が彼を待ち受けます。(私も彼の伝記を読み進める中で、やっぱり100歳っていうのは伊達に生きてるだけないなあと思わされる言葉が数多く出てきました。)
最初にいくつか彼の作品をご紹介しましたが、生まれ育ったこの特異な環境を存分に吸収し、この後どのような遍歴を経てあのような画風を確立していったのか。
気になるところですが、今日はここまでにしたいと思います。
次回は彼が生まれ育った筑豊の地を離れ、どのように東京美術学校(現:東京藝術大学)油画科へ進んだのか。
また、その後に野見山さんは第二次世界大戦を経験されています。日本では戦争を経験した世代が少なくなってきていますが、野見山さんは戦地の前線で、自分の目前でそれを経験されています。
感性豊かな画家が先の戦争をどう見ていたのか、実際に戦争に行ったときどのような想いを感じたのか。そのあたりも野見山さんは過去臆することなく語っています。次回はそのあたりも書いていければと思います。
ロシアがウクライナへ侵攻しました。
コロナ禍により少しずつ世界のバランスが崩れつつあるように感じていますが、本ブログはぶれずに1人でも多く、未来に残したい画家や展覧会、アート情報、絵本などを発信していきたいと考えています。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします!
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