こんにちは、マウスです。
現在、47都道府県の最後として東京都の美術館をご紹介しています。
東京…さすが日本の首都だけあって区立、都立などの公立館や歴史の舞台となったような重要な美術館、、そして今日ご紹介するような大企業のミュージアムと多種多様な美術館が立地しています。 地方在住の私としては羨ましい限りですが、東京ならば仮に沖縄であろうと北海道であろうと今はLCCも発達していますので昔と比べれば行きやすくなったような気がします。(逆にそのエリアから交通網が発達していない県の方が行きづらかったりします)
今日の美術館の母体である企業も約100年前、松下幸之助が大阪において、電球用ソケットの製造販売を家族3人ではじめたことがスタートです。今や世界に名だたる企業となったわけですが、どんなコレクションをもっているのか…早速見ていきましょう。
このブログで紹介する美術館
パナソニック汐留美術館
・開館:2003年 ※企業の歴史と比べれば創設は意外と遅いです
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)
260点のコレクション、世界で唯一「ルオー・ギャラリー」を有する美術館
・2003年に現在のパナソニック東京汐留ビル4階に、社会貢献の一環として開館。フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871-1958)の初期から晩年までの絵画や代表的な版画作品など約260点をコレクションしており、これらを世界で唯一その名を冠した「ルオー・ギャラリー」で常設展示。また、「ルオーを中心とした美術」「建築・住まい」「工芸・デザイン」をテーマとした企画展を開催しており開催数は86回、これまでに150万人以上が来館しているそうです。私たちのこころとくらしを豊かにする活動に重点をおいており、美術館のHPには「『東京・汐留』というロケーションを活かした都市型の美術館として文化的空間を創造し、芸術とのふれ合いを通して皆さまに新しい価値観と感動をお届けしてまいります。」と記載されています。
ルオーコレクションについて
・フランスを代表する20世紀の画家ジョルジュ・ルオー(1871〜1958)による初期から晩年までの絵画、そして『ミセレーレ』、『流れる星のサーカス』、『悪の華』などの代表的な版画作品を合計約260点収蔵。館内のルオー・ギャラリーでは、初期から晩年までのルオーの代表作を常時テーマ展示しています。
→より詳細を観たい方は以下からご覧ください。
〇パナソニック汐留美術館 ルオーコレクション:
ジョルジュ・ルオーとは
・フランスの画家、版画家。ピカソ、マチスたちとともに20世紀を代表する画家の1人。
1871年、パリに家具職人の息子として生まれる。1885年からステンドグラス修復の工房に徒弟修業し、かたわら装飾美術学校の夜間コースに学ぶ。1890年、絵画に専念することを決意し、エコール・デ・ボーザールのエリ・ドローネーの教室に学び、1892年よりドローネーの後任ギュスターブ・モローの教えを受ける。モローの推挙でローマ賞を志すが二度にわたり失敗、学校をやめたあとリギュジェの修道院に入り、ここでユイスマンスたちと知り合い、内面的、宗教的な感情を養う。
1898年のモロー没後に旧宅に設置されたモロー美術館の館長を務め、1903年のサロン・ドートンヌの創立に参加。このころからルオーは、修業時代の基本的にはアカデミックであった主題と画法を捨てる。この、第一次世界大戦前後に至る初期には、尊敬する師モローの作品の影響下に水彩を主とし、幅の広い動的な筆触、青を基調とする色彩に託して、社会的な不正義に対する怒りと悲しみを、道化、娼婦、裁判官、郊外の貧しい人々などの主題で描く。『鏡の前の娼婦』(1906・パリ国立近代美術館)などがその代表作。それらは筆触の強さ、色彩の表現性で、同時期のフォービスム、あるいはピカソの「青の時代」と類縁性をもつが、独自な精神性を備え、フランスにおける表現主義の表れとみることができる。
1917年、彼は画商ボラールと専属契約を結び、以後、『ミセレーレ』(1917~27制作、1948刊)などの連作版画集に制作の大半の時間を費やしている。油彩を中心とするルオーの中期の制作もこのころに始まる。版画技法の習熟から得た広い筆触による隈取り、透明感のある緑・青・褐色を厚塗りする激しいマチエールなどの手法が用いられ、引き続き娼婦、道化、裁判官などの主題が描かれるが、初期における罪、絶望の表現とは異なり、静かな内面的世界が描かれる。とくに、1930年代以降、キリスト教的なテーマが多くなり、それらが、しばしば道化、裁判官、郊外などのテーマと合体し、救済と恩寵の世界へと転換してゆき、中世、ルネサンス以降、真の意味での宗教画家としてのルオーの世界が成立する。代表作は『ベロニカ』(1945・パリ国立近代美術館)など。
1945年のフランス東部のアッシーの教会のためのステンドグラスなども注目される。 1952年ごろからの晩年の作品は、主題も多様化し、色彩も赤、黄色などが多くなり、マチエールの深さと相まって輝くようなきらめきを生んでいる。ボラールの死後、訴訟を起こして未完の旧作を取り戻し、1948年にはそのうち315点を焼くという、ルオーの完全主義を物語る事件もあった。1958年2月13日パリの自邸に没し、国葬が行われた。
連作版画集『流星のサーカス』(1938)、『受難』(1939)などのほか、リトグラフ挿絵入りの『私的な思い出』(1925)、『独言』(1944)の著作もある。死後未完の作品約200点がパリ国立近代美術館に納められた。(日本大百科全書より)
→ルオー、国葬されたのですね;それくらいフランスでは重要な作家ということですね。「最後の宗教画家」と呼ばれたりもします。
(参考)パナソニック 年表
・最後は恒例の運営母体「パナソニック」社の企業年表です。
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・1917年6月 – 松下幸之助が大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野(現・大阪市東成区玉津二丁目)の借家で電球用ソケットの製造販売を始める。当時は幸之助の妻・むめのと妻の弟である井植歳男(後の三洋電機の創業者)の3人で営業していた。
・1918年3月7日 – 大阪市北区西野田大開町(現・大阪市福島区大開二丁目)に移転。松下電気器具製作所を創立する。
・1922年 – 大阪市北区西野田大開町(現・大阪市福島区大開二丁目)に新工場(第一次本店・工場)を建設して移転。
・1927年 – 自転車用角型ランプを販売。この商品から、「ナショナル(NATIONAL)」の商標を使用しはじめる。
・1929年 – 大阪市北区西野田大開町(現・大阪市福島区大開一丁目)に新工場(第二次本店・工場)を竣工する(同跡地には現在松下幸之助創業の記念碑が存在)。
・1931年 – ラジオの生産を開始。
・1932年 – ラジオの重要部の特許を買収し、同業メーカーに無償で公開。戦前のエレクトロニクス業界の発展に寄与。
・1933年 – 大阪府北河内郡門真村大字門真(現・門真市大字門真)に大規模工場を建設して移転。事業部制を導入。
・1935年 7月 – 国民ソケットを発売[10]。 8月 – 松下電器貿易、松和電器商事(1943年本社へ編入)を設立。 12月 – 松下電器産業株式会社(まつしたでんきさんぎょう、Matsushita Electric Industrial Co., Ltd.)に改組、松下電器(後の松下航空工業、パナソニック電工)、松下無線、松下乾電池、松下電熱、松下金属、松下電器直売など9分社を設立。
・1936年 – 分社としてナショナル電球、朝日乾電池を追加。 10月 – 白熱電球の製造を開始。市場をほぼ独占していた白熱舎(現在の東芝)と同価格で売り出す。
・1937年 – 「ナショナル」のロゴ書体「ナショ文字」を制定(1987年に使用中止)。
・1938年 – 分社化が加速。同年6月ナショナル蓄電池、10月に松下電動器を設立、1944年までに合計32社が設立された。この年、分社の松下電器が直接兵器類の部品受注を受けるなど、軍需品中心の生産体制に移行開始。9月、満州松下電器設立(1942年には満州無線工業設立)。
・1943年 8月 – 分社の松下電器が松下航空工業に改組、軍需産業に本格参入。軍部命令による2分社、松下造船(12月の第一号船進水式以来、木造船42隻、曳航船9隻建造)と松下飛行機(木造飛行機4機製造)を設立。
・1944年 – 松下無線、松下乾電池、松下電器工業(松下電熱、松下電動器が既に編入)、松下蓄電池製造の4製造分社を本社に吸収合併するなどグループ再編実施。
・1945年 8月15日 – 日本敗戦により、在外資産(敗戦前に失っていた満州松下電器、朝鮮松下電器の諸工場と営業所、台湾松下電器、ジャワの電池工場、マニラの真空管工場を含め、上海の松下電業本社及び工場など計20カ所の海外事業所)のほとんどすべてを失う。
・1946年 – 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により制限会社の指定を受けた。しかし、軍需産業とみなされたことと大資本のため統廃合の制限がされた松下電工(当時 松下航空工業)以外の分社を再統合(合併)して事業部制に戻し、洗濯機などの製造を開始した。
・1947年 – 制限会社の指定を受けたことに伴い、専務取締役の井植歳男が公職追放。井植は兵庫県加西市(旧・加西郡北条町)の松下航空工業北条工場と自転車用発電ランプの製造権、職員の一部を引き継ぎ、三洋電機として独立。
・1951年 9月 – 新日本放送(現在のMBSラジオ)のラジオ番組『歌のない歌謡曲』を番組提供開始。以後今日まで65年以上にわたり、全国の民放AMラジオ(JRN)を通じ、パナソニック製品の宣伝を続けている。
・1952年 12月 – オランダのフィリップスと提携し、松下電子工業を設立。 この後各工場の新設、拡充が相次ぐ。
・1954年 – 戦争でほぼ壊滅状態にあった日本ビクターと資本提携する。その際ビクターを吸収したりせず、ビクターとは競争しながら発展していくという関係をとることになった。その理念は社長が変わった後も続いていたが、2007年秋に資本関係を解消する事に合意。同年8月に総額350億円の第三者割当増資をケンウッドならびにスパークス・グループに行い、松下の保有比率は36.90%となり連結子会社から外れ持分法適用関連会社となった。その後2011年1月には第三者割当増資により20%以下となり、持分法適用会社からも外れた。さらに、同年10月に持株会社がケンウッドと共に吸収合併され、現在はJVCケンウッドとなっている。
・1955年 – 「Pana Sonic」ブランドを、単体ダブルコーンフルレンジスピーカーユニット8P-W1(通称「ゲンコツ」。のちに国内向けはEAS-20PW09に型番変更。)の輸出に初めて使用。
・1957年 – 全国の「街の電器屋さん」が加盟する日本で最初の系列店ネットワーク「ナショナル店会」(後のナショナルショップ制度)が発足。高度成長期の強大な販売網として機能し、ピーク時には全国で約5万店[注 1] にまで増加した。後継者不足や量販店との競争激化により現在は約1万8000店にまで減少している。
・1959年 – ナショ文字と「National」の頭文字のNを組み合わせたロゴ「Nマーク」を制定。
・1961年 1月 – 松下正治副社長が社長に就任。
・1964年 – 『熱海会談』。系列店への熾烈な販売ノルマや、テレビの不良品などが問題化し、3日間に亙って紛糾。幸之助が会長兼営業本部長代行としてトップセールスに復帰する契機になる。 ダイエー・松下戦争始まる。松下電器はダイエーに対しての商品出荷を全面的に停止する。
・1965年 – 「Technics」ブランドがTechnics 1に初めて使用される。完全週休2日制を実施。新販売制度(流通経路の短縮主体)。高度成長路線に乗る。
・1966年 – 英字表記の「NATIONAL」ロゴを国内向け製品に、「PANASONIC」ロゴを海外向け製品、および国内向けトランジスタラジオに使用開始。「ナショナル」が米国で商標登録されており使用できなかったことがその動機だが、「パナソニック」に落ち着くまでに、1964年5月に「NATIONAL PANASONIC(ナショナル・パナソニック)」で米国への輸出が認められ、以後、「KADOMAX(カドマックス)」、「マツシタ」、「マーツ」を経て「パナソニック」となっている。
・1967年7月 – ダイエーなどの安売り店への出荷停止や締め付けなどに関して、公正取引委員会は松下電工を立ち入り検査し、独占禁止法第19条に抵触する「不公正な取引方法」として排除勧告を受けるも松下幸之助はこれを拒否する。
・1969年 – 東京電気化学工業(現・TDK)と提携。
・1970年 – 世界初のダイレクトドライブ式ターンテーブルSP-10を発売。日本万国博覧会に松下館を出展。当時の文化の資料を収め5000年後の開封を目指したタイムカプセルを展示した。
・1971年 – 「PANASONIC」ロゴを、「Panasonic」へ変更(国内向け製品では1973年まで「PANASONIC」ロゴを使用)。
・1973年 – 「NATIONAL」ロゴを、「National」へ変更。パナファコム株式会社(現:株式会社PFU)を設立。韓国の亜南(アナム)グループと合弁で「亜南・ナショナル(現:亜南電子)」を設立、「Anam National」ロゴを使用しはじめる。アマチュア無線用トランシーバ「RJX-601」、製造発売。
・1975年 – 同社最高級のアマチュア無線用トランシーバ「RJX-1011」製造発売開始。
・1977年 2月 – 山下俊彦取締役が社長に就任。 VHS方式のビデオテープレコーダ(マックロード)を発売。蛍光灯「パルック」発売。
・1979年 – 業務用音響機材のブランドとして、「RAMSA」を使用開始。
・1982年 2月1日[16] – 業界初のカラーオーダー冷蔵庫発売。 1983年 ワープロパソコン「パナワード・ジュニア」発売(12インチグリーンCRT込みの本体82万7200円、漢字マルチプラン8万9000円、漢字BASIC 5万円)。
・1986年 2月 – 谷井昭雄専務が社長に就任。 「パナソニック/Panasonic」ブランドを国内でも単独で使用開始。初使用した製品はMSX2パソコン「FS-A1」。この頃から「松下電器」の独自制定書体も使われなくなり、一般的なゴナ系の書体に変更される。
・1987年 – 富士通FM-RのOEM仕様のデスクトップPC「PanacomM500/700」を発売。 9月 – 中国に初めて合弁会社、松下彩色顕象管有限公司(カラーブラウン管製造)を設立した。 10月 – 同社初の据置型DATデッキ「SV-D1000」を発売。
・1988年10月 – テレビ・ビデオデッキ・CDラジカセ・ミニコンポなどのAV家電部門が順次、「National」ブランドから「Panasonic」ブランドへ移行する。 1989年 – 新しいスタイルのナショナルショップチェーン「パナック」を立ち上げ。 4月27日 – 創業者の松下幸之助が死去。享年94。 8月1日 – 本社技術部門の大規模な改革。
・1990年 – MCA社(現・ユニバーサル・スタジオ)を子会社化。
・1991年 6月1日 – 窓口が各部門に散らばっていた社会事務室を文化支援室として本社に新設し、窓口を一本化する。
・1992年 8月 – AMステレオ放送対応第1号機となる携帯ラジオ「RF-U09」を発売。 10月 – 同社初にして日本初の据置型DCCデッキ 「RS-DC10」を発売。
・1993年 2月 – 森下洋一専務が社長に就任。 4月 -フィリップスとの合弁解消、クロスライセンス契約(cross-licensing agreement)に移行。
・1994年 – ダイエー・松下戦争終結。ダイエーグループ店舗への松下電器商品の販売供給を再開する。 3月20日 – 3DO REAL(FZ-1)発売。 12月 – パナソニック製AMステレオ対応受信機全体で28機目の最終モデル「ST-GT70」発売。本機を最後に翌1995年以降はAMステレオ対応受信機の新規生産を取りやめ。
・1995年 – MCA社への出資分80%をシーグラム社に売却。 4月 – 光ディスクPDを開発。 1997年 4月 – 社内分社制を導入(関連する事業部を統合・集約)。 5月 – 同社初のデジタルカメラ「COOLSHOT II」を発売、および「COOLSHOT」ブランドの展開。
・1998年 – 韓国にて「Anam National」ブランドを廃止(「Anam」ロゴは「ANAM」へ変更)。
・2000年 6月 – 中村邦夫専務が社長に就任。森下社長は会長に、松下正治会長は名誉会長に、松下正幸副社長は副会長に就任した。将来の社長候補と目されていた創業者・幸之助の直孫である松下正幸が副会長に就任したことにより、松下一族による社長世襲はほぼ霧消したといえる。
・2001年 4月 – 松下電子工業を吸収合併し、社内分社として「半導体社」「ディスプレイデバイス社」「照明社」の3部門を設ける。 8月 – 同社傘下にある宮田工業(自転車や消火器などのメーカー、現在のモリタ宮田工業)の保有株式の半数をモリタへ譲渡。 10月27日 – 「LUMIX」ブランド初となるデジタルカメラ「DMC-LC5」「DMC-F7」を発売。これらのモデル以前で使用されていた「COOLSHOT」ブランドは実質的廃止に。 12月14日 – 任天堂と共同開発商品DVD/GAME Player Q発売。 時期不詳 – 長年にわたって続けてきた太陽電池の研究開発を取りやめ、家庭用の燃料電池事業に特化することを決断。経営危機さなかのやむを得ない判断ではあったが、これが大きな誤算となり、後に三洋電機の買収へ動くきっかけとなる。
・2002年 業績悪化により、2001年度末までに13,000人を早期退職させ、企業年金を減らす事業の再構築を推し進めた。 10月1日 – 株式交換により松下通信工業、九州松下電器、松下精工、松下寿電子工業、松下電送システムを完全子会社化。
・2003年 – グローバルブランドを「Panasonic」に統一、グローバルブランドスローガン「Panasonic ideas for life」の導入。
・2004年 – アルカリ乾電池以来40年ぶりとなる新型の乾電池「オキシライド乾電池」を開発。 4月1日 – 戦後長らく独立路線であった松下電工を再び子会社化。 7月31日 – 同社初のBlu-ray Disc方式のレコーダーを発売。
・2005年 ソフトウェア特許侵害を主張してジャストシステムを告訴。一審で勝訴したものの控訴され、松下製品の不買運動なども発生。二審において逆転敗訴で決着。同社傘下の松下興産株式を大和ハウス工業へ譲渡する話が出たものの、条件が折り合わず断念。結局は金融機関の債務免除を経てアメリカの投資ファンド、エートス・ジャパンへと譲渡。松下興産は、その後採算事業である不動産事業は新設したMID都市開発(現関電不動産開発)に譲渡し、不採算事業のみ残し豊秀興産に社名変更のち解散した。 1985年から1992年製のFF式石油温風機による一酸化炭素中毒事故で死亡者が出たことが発覚。無償修理が発表されたが、発表後も事故が発生。 1月 – オリンパスと一眼デジタルカメラの共同開発で合意。 2月 – プラズマディスプレイの開発に関して日立製作所と提携し、同社と合弁で特許管理会社を設立する他、原材料の調達や電子部品の開発などを共同で行う。 3月 – 石油暖房機、石油ファンヒーター、石油ストーブ、石油給湯機の生産・販売を終了、ナショナルショップへはコロナ製の石油ファンヒーターが供給された。 12月 – リコール済み石油温風機で死亡事故発生。松下グループはこの月、松下電工・Panasonicブランドの割り当てを含めて全商品のCMを自粛しお詫びCMを10日間放映。放映時間は約80時間にも及んだ。 12月7日 – 韓国のサムスンSDIは同社のプラズマディスプレイパネル(PDP)関連の特許9件を侵害されたとして、松下電器を相手取り、米ロサンゼルスの連邦地方裁判所に提訴したのをきっかけに、両社双方提訴、2008年1月に和解。
・2006年 6月 – 大坪文雄専務が社長に就任。中村邦夫社長が会長に就任。 7月22日 – 同社初の一眼カメラ「DMC-L1」を発売。オリンパス株式会社との共同開発。 10月 – 翌年3月までに家庭用ガス器具の生産・販売を終了すると発表。なお、家庭用燃料電池のエネファーム(当時の商品名はライフエル)およびTESの端末である浴室暖房乾燥機の生産は続行、販売した製品のアフターサービスおよび部品供給はこれまで通り行う。ガス器具の売り上げは130億円だった。リンナイ・ノーリツ・パロマに比べ規模が小さく、収益の上がる見込みがないと判断、ガス器具からの撤退を決定した。近年、ガス器具の部品管理が家電部品部門に統合されるなど、会社内での電化商品の販売推進の経営方針もあり、ガス器具部門の衰退が伺えていた。ガス器具撤退に伴い『ナショナルガス器具』の看板を販売店は降ろすことになり、ナショナルショップには2007年3月からリンナイ製品が供給されている。なお、2008年にガスファンヒーターの生産販売をノーリツに移行した。 アナログ放送からデジタル放送への移行に伴い、同社で製造しているテレビ・録画機器のうち、地上デジタルテレビジョン放送非対応モデルの生産を全て終了。 11月 – AMステレオ放送対応ラジオの生産を完全終了(最終生産モデル:RX-FT53、デジタル選局式ポータブルタイプの生産はRF-HS90/HS70を最後に2001年終了。据置単体コンポタイプの生産もテクニクスブランドST-GT550を最後に2004年終了)。
・2007年 2月 – VHS単体機の生産終了(最終機種はDIGA#アナログチューナーのみ搭載のビデオデッキ最終モデルを参照)。 3月 – ポータブルMDプレーヤーおよびポータブルMDレコーダーの生産を終了(最終機種:SJ-MJ500/MJ99/MJ100/MR270/MR240/MR50)。 4月 – 地上デジタルテレビジョン放送非対応DVDレコーダーの生産を終了(最終機種:DMR-EH75V)。 7月1日 – 松下提供ラジオ番組「Panasonic Melodious Library」放送開始(TOKYO FM制作・JFN38局ネット。毎週日曜10:00 – 10:30)。 8月 – ブラウン管テレビの国内向け生産終了(最終機種:TH-21/25FA8)。 以上をもって、地上デジタルテレビジョン放送非対応製品の生産を全て終了した。 10月 – ポータブルCDプレーヤーの生産を終了(最終機種:SL-CT520/SX482/PH660)。 11月 – ヘッドホンステレオの生産を終了(最終機種:RQ-CW02)。
・2008年 4月24日 – パイオニアとPDPのパネル・モジュールの開発と戦略的な生産供給に関する包括提携を行うことで基本合意した。PDPの自社生産から撤退したパイオニアに対して松下がパネルを供給。開発および生産の効率アップとコスト競争力の増強に繋げる。5月をメドに正式に提携を行う。 5月15日 – ナショナルブランド最後の新製品である縦型洗濯乾燥機「NA-FR80S1/FR70S1」を発売。 10月1日 – パナソニック株式会社に商号変更。企業グループ名もパナソニックグループとなった。同時に白物家電を中心に一部製品から撤退(冷凍庫単体機、ワインセラーなど)。→社名変更の経緯については後述 10月 – SDオーディオプレーヤー(D-snap)の生産を終了(最終機種:SV-SD870N)。 以上をもって、テープレコーダーを除く全てのポータブルオーディオプレーヤーの生産を終了した。これにより事実上、ほぼポータブルオーディオ市場から撤退した。 10月31日世界初となるミラーレス構造の一眼カメラ「DMC-G1」を発売。「女流一眼隊」のCMで話題に。
・2009年 12月21日 – 同根企業である三洋電機を連結子会社化。パナソニックグループの一員となる。→詳細は後述 2010年代 2010年 3月31日 – 旧ナショナルショップ時代から続いてきたパナソニックショップのマスコットキャラクター「パナ坊」の公式使用を完全終了(パナソニックショップ全店で看板・カタログ・チラシ類などからのパナ坊絵柄削除完了)。 12月 – SL-1200MK6が生産完了。「Technics」ブランドが事実上終息する。
・2011年 4月1日 – パナソニック電工、三洋電機を完全子会社化。これに伴い三洋系列店「スマイるNo.1ショップ」一部店舗において「Panasonic」への看板掛け替えを開始。 6月10日 – 「SANYO」ブランドで発売していたポータブルカーナビゲーション「Gorilla」を「Panasonic」ブランドで発売開始(4機種を皮切りに、8月上旬までに9機種を順次発売開始)。発売元も当社のオートモーディブシステム社に移管。 7月28日 – 子会社化した三洋電機の白物家電事業を中国の家電大手ハイアールに約100億円で売却する旨を公式発表。これにより親会社パナソニックと重複する三洋事業のリストラを加速する。 9月30日 – 三洋系列店「スマイるNo.1ショップ」検索サイトを(パナソニックショップなどへの移行に伴い)この日限りで閉鎖。同時に「SANYO」製品はこの日までにほぼ生産を終了し、親会社「Panasonic」製品へ統合(今後も生産を継続する三洋製品はブランドを「SANYO」から「Panasonic」へ切替)。 10月18日 – 三洋の白物家電事業のうち冷蔵庫・洗濯機部門を中国の家電大手ハイアールへ約100億円で売却、三洋グループ洗濯機・冷蔵庫生産部門社員をハイアールへ移籍。 10月25日 – 「SANYO」ブランドで発売されていたサイクロン式掃除機「airsis(エアシス)」を「Panasonic」ブランドで発売開始(モデルはMC-SXD410)。発売元は当社のランドリー・クリーナービジネスユニットへ移管。 10月 – 「SANYO」ブランドにて「おどり炊き」の愛称で発売されていた可変圧力IHジャー炊飯器を「Panasonic」ブランドで発売開始(モデルはSR-PX101/PX181/PB101/PB181/PA101/PA181の6機種)。発売元は当社のキッチンアプライアンスビジネスユニットへ移管。尚、前述の6機種が自社初の圧力IHジャー炊飯器となった。 12月1日 – 旧「スマイるNo.1ショップ」から衣替えしたパナソニックショップの一部を「スーパーパナソニックショップ」へ新規認定し、スーパーパナソニックショップ検索サイトへ掲載開始。 12月15日 – 「SANYO」ブランドで発売されていたライスブレッドクッカー「GOPAN」を「Panasonic」ブランドで発売開始(モデルはSD-RBM1000)。発売元は圧力IHジャー炊飯器と同じく、当社のキッチンアプライアンスビジネスユニットへ移管。 12月23日 – 大阪府守口市にある三洋電機本社社屋から「SANYO」ロゴ看板を撤去。2日後の12月25日に「Panasonic」看板取付。
・2012年 1月1日 – パナソニック電工を吸収合併(同時にパナソニック電工子会社はほとんどがパナソニック傘下となる)。この日から三洋グループの工場・営業拠点看板を(従来の「SANYO」から)「Panasonic」へ掛け替え。 2月10日 – VHS方式の家庭用ビデオテープレコーダの日本国内向けの生産・販売終了を発表。 3月31日 – この日をもって三洋の「SANYO」商標廃止。 4月1日 – 三洋系列店「スマイるNo.1ショップ」のパナソニックショップへの吸収合併完了。三洋製品はこの日以降商標を「Panasonic」に完全統一して出荷。 6月27日 – 津賀一宏専務が社長に就任。大坪文雄社長が会長に就任。 10月31日 – 1936年から続けていた一般家庭向用白熱電球の生産を終了。
・2013年 3月31日 – この日をもってグローバルブランドスローガン「Panasonic ideas for life」および「eco ideas」の使用を中止。 4月26日 – 「SANYO」ブランドで発売されていたニッケル・水素充電池「eneloop」を「Panasonic」ブランドで発売開始。これにより、当社のニッケル・水素充電池は以前から発売されていた「充電式EVOLTA」とのデュアルブランドとなる。 6月26日 – 大坪文雄会長が特別顧問に就任し、長榮周作副社長が会長に就任。初の女性取締役に大田弘子が就任。 9月4日 – 新たなブランドスローガンとして「A Better Life, A Better World」を制定し、同月から使用を開始することを発表。 11月1日 – 2013年度上期決算、好調な業績回復。ヴィコ社買収。
・2014年 2月4日 – 決算発表にて好調な業績回復を示す。株価が市場で急伸、一時前日比22%高、ブルームバーグ・データによると1974年9月以来約40年ぶりの日中上昇率を記録。前日発表した10 – 12月期決算では純利益が予想を大幅に上回っていた。 8月31日 – 有機EL事業について、産業革新機構主導でジャパンディスプレイとパナソニックの事業を統合しJOLEDを設立することで合意。同社の株式の5%を保有する。 12月1日 – ブランド統合に伴い2010年をもって終息していた高級オーディオ専用の「Technics」ブランドを同年復活[21](同年9月29日には日本向け製品を2015年2月から順次発売することも発表)。
・2015年 3月2日 – システムLSI事業を分割、富士通セミコンダクターの同事業と統合しソシオネクストを設立。 8月1日 – パナソニック インフォメーションシステムズ株式会社を、株式交換により完全子会社化。
・2016年 4月1日 – アメリカの業務用冷蔵庫トップのハスマンを買収。 10月26日 – シーメンスと業務提携により「iLNB」を開発、受注開始。1台のPCで実装ライン全体の稼働状況をリアルタイムで収集、一括制御が可能。 11月1日 – 「パナソニック プラズマディスプレイ」が大阪地方裁判所に会社の解散に伴う特別清算開始を申し立て。
・2017年 3月27日 – パナソニック デバイスSUNXを株式交換で完全子会社化。 10月2日 – パナホーム(現・パナソニック ホームズ)を株式併合により完全子会社化。
・2018年 3月 – 創業100周年を迎える。これを記念しての特別コマーシャルがTV、動画サイト、YouTubeのパナソニック公式チャンネルで放映。
・2019年 1月22日 – トヨタ自動車株式会社と車載用角形電池事業に関する合弁会社「プライム プラネット エナジー&ソリューションズ株式会社」の来年末までの設立に向けた事業統合契約および合弁契約を締結。 5月9日 – 翌年1月7日にトヨタと合弁会社「プライム ライフ テクノロジーズ株式会社」を設立し、両社の一部子会社を合弁会社に移管する街づくり事業の統合に合意。
・2020年 9月1日 – 半導体事業子会社のパナソニックセミコンダクターソリューションズ(PSCS)をヌヴォトン(新唐科技)へ売却。 11月13日 – 2022年4月を予定として持株会社体制へ移行し、パナソニック ホールディングス株式会社へ商号変更すること、これに先駆け2021年10月を予定として、現行の社内カンパニー制を廃止し事業再編を行うことを発表。
・2021年 4月23日 – ブルーヨンダーの買収で最終合意したと正式に発表した、残り80%を71億ドル(約7800億円)で取得し、完全子会社化する。
・2022年 4月1日 – 持株会社体制へ移行し、パナソニック ホールディングス株式会社へ商号変更。 10月31日- アメリカ・カンザス州に電気自動車向け電池を製造する新工場を建設すると発表した。
・2023年 1月23日 – 同年2月末をもって、2006年に開始した録画用Blu-rayディスクの生産・出荷を完了すると発表。 7月3日 – トクヤマからエクセルシャノン株式17%を取得し、エクセルシャノンを連結子会社化する予定。
…はい、100年の歴史って長いですね;
途中出てきたダイエー・松下戦争…ダイエーゆかりの群馬県:大川美術館の際にはご紹介は省きましたが、1960年代は両社は相当しのぎを削ったようですね。こういう社歴としては対立した会社(の出身者)同士が今では美術館を運営しているというのは面白い話です。
最後になぜパナソニックがルオーを持とうとしたのか…結構探しましたが、唯一「2003年に『松下電工NAISミュージアム』の名前で開館しました。2014年にはルオーのお孫さんが代表をつとめるジョルジュ・ルオー財団とパートナーシップ契約を締結し、現在は世界で唯一、『ルオー』と館名に掲げられる美術館となりおました。」という情報があるだけで、なかなか探し出すことができませんでした(後で問い合わせしてみよう…)。
それを踏まえてその開館した年度あたり社歴をあらためて見てみるとこんな一文が載っています。
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・中村邦夫専務が社長に就任。森下社長は会長に、松下正治会長は名誉会長に、松下正幸副社長は副会長に就任した。将来の社長候補と目されていた創業者・幸之助の直孫である松下正幸が副会長に就任したことにより、松下一族による社長世襲はほぼ霧消したといえる。
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この中村邦夫さんという方はパナソニックの歴史の中でも結構重要な方で、松下電器産業(現・パナソニック)を根底から180度改革した人物として有名です。創業者の松下幸之助氏存命時より、社名から「松下」の冠を外すよう進言、最終的に「パナソニック株式会社」へ変更する礎を築き「旧来の幸之助神話を壊した男」の異名で呼ばれたそうです。一方で、社長退任後、1兆円を超える巨額の赤字を2年連続で計上し経営危機を招いたとも言われ、その手腕・評価は散布分かれるようですが、一方で誰も成しえなかった創業家からの大政奉還の礎は気づいたのは間違いないようです。
なんでそんな話をしているのかというと、このルオーの美術館、ちょうどパナソニックの経営が厳しくなってきてきた頃と重なり、もしかすると松下創業家が所有していた文化財を少しでも外部へ開放し、社会貢献につなげたいという想いがあったのかもしれません。(注:マウスの個人的見解です)
そんな大企業の脈々と続く歴史と文化を同時に妄想…いや学ぶことができるパナソニック汐留美術館、もちろんルオーだけ純粋に楽しむのもあり、皆さんもぜひ一度足を運んでみて下さい。
(マウス)
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