新しい日本画の創造を目指した1人の女流画家 静岡:浜松市秋野不矩(あきのふく)美術館

静岡県

こんにちは。静岡県浜松市、政令指定都市です。そんな大規模な都市でありながら1人の女性の画家のための美術館を有しています。これまで今治市 伊東豊雄建築ミュージアム高崎市 山田かまち美術館など、市が運営の主体であるにも関わらず、1人の作家をとり立てて扱っている美術館はご紹介しました。ちなみに県が運営する1人の作家を扱う美術館としては横尾忠則現代美術館がありましたね。ここも非常に稀な例だと思います)

今治市、高崎市ともに大きな都市ですが、全国でみると中規模都市といったところでしょうか。一方でこの浜松市、政令指定都市ですから100万人に迫る(今は80万人程のようですが)大きな都市です。そのような都市で1人の作家ととり立てて扱うというのは行政手続き(公平性等々の観点もあり…)から見ても難しいことのような気がします。

それほどまでに地元浜松にとって大切な画家、しかも女性の作家ですから、どんな方なのでしょう。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

浜松市秋野不矩(あきのふく)美術館

・開館:1998年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、市観光協会HPより転載)

・場所
浜松市秋野不矩(あきのふく)美術館 – Google マップ

新しい日本画の創造を目指した1人の女流画家

・秋野不矩作品から放たれる人種や民族、国境を越えて人々の生命の本質に訴えかけるメッセージやエネルギーを地域や全国、世界へ発信し、不矩の魅力や創造力を所蔵品展や特別展を通して、不矩の人柄や目指したものを発信する美術館。不矩の画業とその生涯及び功績を次世代へ継承しています。現在は以下3つの魅力を軸に発信されているとの事。

■ 秋野不矩の顕彰・発信の拠点施設としての魅力
■ 芸術文化振興と生涯学習の推進拠点としての魅力
■ 地域にとっての誇り「シビックプライド」の醸成拠点としての魅力

また、美術館の建築は、秋野不矩作品との調和をコンセプトに建築家・藤森照信(ふじもり てるのぶ)氏により設計されたもの。漆喰の壁面、藤ござの通路、大理石の床など、自然素材をふんだんに活かした特徴的な建築です。正方形や翼廊状の1階展示室は、履物を脱いで鑑賞する形式となっており、他に類を見ない特色ある美術館です。また、秋野不矩美術館の屋根は、長野県諏訪産の鉄平石で葺かれ、外壁はワラと土を混入した着色モルタルと天竜の杉材の板で覆われています。一方、2018年に敷地内に完成した同じく藤森照信氏設計の茶室「望矩楼(ぼうくろう)」は、天竜ヒノキをはじめとする地域の素材を採り入れており、その個性的な外観は美術館本館と相まって不思議な景観を生み出しています。

秋野不矩(あきのふく)とは

・1908年、静岡県磐田郡二俣(ふたまた)町(現:浜松市天竜区二俣町)にて生誕。
・19歳で石井林響(いしい りんきょう)、次いで西山翠嶂(にしやま すいしょう)に師事。
・28歳のときに1936年文展鑑展で選奨を受賞。戦後まもなく、新しい日本画の創造を目指して「創造美術」(現:創画会)の結成に参加し、官展時代から脱却した作風で西洋絵画の特質を取り入れ、人物画に新境地を開く。
・1962年、54歳のときにインドのビスバ-バラティ大学(現:タゴール国際大学)の客員教授に招かれ1年間滞在。以来、インドに魅せられ、その後もたびたび現地を訪れ、インドの風景や人々、寺院などをモチーフとした作品を制作しました。また、アフガニスタン、ネパール、カンボジア、アフリカも訪問し、作品創作のアイディアを求める。
・1991年、文化功労者顕彰。
・1999年、文化勲章を受章。
・2001年、93歳で亡くなるまで精力的に絵筆をとり続ける。

浜松市秋野不矩(あきのふく) 略年譜

・明治41年(1908)、7月25日、静岡県磐田郡二俣町城山(現:浜松市天竜区二俣町)に6人兄妹の末子として生まれる。本名・ふく。
・昭和2年(1927)、千葉県の石井林響に内弟子として入門。
・昭和4年(1929)、師である林響が病に倒れ、京都の西山翠嶂塾「青甲社」に入塾。
・昭和8年(1933)、生田花朝、梶原緋佐子、三谷十糸子など大阪・京都の女流7人で「奈那久佐(七草)会」を結成。のちの「春泥社」結成へとつながる。
・昭和11年(1936)、文展鑑査展《砂上》入選、選奨(帝展の特選と同じ)受賞。
・昭和12年(1937)、京都の女流画家の会「春泥社」を結成。
・昭和13年(1938)、第2回新文展《紅裳》出品、特選受賞。
・昭和14年(1939)、第1回個展(大阪大丸)を開催。
・昭和23年(1948)、上村松篁、広田多津、吉岡堅二、山本丘人、福田豊四郎らと共に日展を離れて「創造美術」を結成。
・昭和24年(1949)、京都市立美術専門学校助教授に就任。
・昭和25年(1950)、京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)助教授に就任。
・昭和26年(1951)、《少年群像》で、第1回上村松園賞受賞。「創造美術」と「新制作派協会」が合流、「新制作協会日本画部」となる。
・昭和29年(1954)、小倉遊亀、三岸節子と第1回女流3人展を開催。以後5回開催される。
・昭和37年(1962)、インド・シャンチニケータンのビスバ-バラティ大学(現:タゴール国際大学)に客員教授として招かれ、1年間滞在。以後計14回インドを訪れ、インドの風土などをモチーフとした制作が主要なテーマとなる。
・昭和41年(1966)、京都市立美術大学教授となる。「新制作協会」から日本画部が退会し「創画会」を結成、会員となる。
・昭和49年(1974)、京都市立芸術大学美術学部退職、名誉教授となる。
・昭和53年(1978)、京都市文化功労者表彰。
・昭和56年(1981)、京都府美術工芸功労者表彰。
・昭和58年(1983)、天竜市(現:浜松市)名誉市民となる。
・昭和60年(1985)、京都市美術館評議員に就任。
・昭和61年(1986)、第27回毎日芸術賞受賞。
・昭和63年(1988)、第1回京都美術文化賞受賞。
・平成2年(1990)、第43回中日文化賞受賞。
・平成3年(1991)、文化功労者顕彰。
・平成5年(1993)、第25回日本芸術大賞受賞。
・平成8年(1996)、京都府あけぼの賞受賞。
・平成10年(1998)、天竜市立秋野不矩美術館(現:浜松市秋野不矩美術館)開館。
・平成11年(1999)、第17回京都府文化賞特別功労賞受賞。文化勲章受章。
・平成13年(2001)、10月11日、逝去(享年93歳)。

主なコレクション作品

→洋画のような、日本画のような…何ともいえない異国の画風で満たされていますね。いずれにしろ日本画壇においてもそうですし、この浜松東海エリアにおいても極めて重要な作家さんであることは間違いなさそうです。

画業後半の画風は少し平山郁夫さんのシルクロードシリーズに似ている気がしますね。異国を当代随一の日本画の視点で描くとこのような造形になるのかもしれませんね。インド自体がシルクロードの雰囲気を持つということも大きいのかもしれません…。いずれにしろ浜松市にとっては大切な画家であることは間違いありません。そんな浜松市秋野不矩(あきのふく)美術館、皆さんもぜひご来館下さい。

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