こんにちは。マウスです。
古今東西、特に日本においては富士山はじめ、美しい山々を描いた多くの名画が存在します。そんな美しい山々を「日本百名山」と呼び、今でもよく観光雑誌とかに掲載されていますよね。今日はそんな山に魅せられ、人生に魅せられ、56歳から1座1座足を運び、亡くなる数年前にそれを日本百名山としてまとめあげた一人の作家のお話です。当時はまだ今のように装備も充実しておらず、誰もが気軽に高山へ行けなかった時代、彼はどんな風な人生を歩んだのでしょうか。そんなことが学べるアート施設、まずはご紹介したいと思います。
このブログで紹介するアート施設
深田久弥 山の文化館
・開館:2002年
・アート施設外観(以下画像は施設HP、県・市観光協会HPより転載)
・場所
深田久弥 山の文化館 – Google マップ
→福井と金沢の中間、加賀市です。
山の文化館とは
・1910年(明治43年)に建てられた絹織物工場「山長」の事務所・石蔵・門を修築したもので、2002年(平成14年)に国の登録文化財として登録。石蔵はかつて生糸の保管庫として使われていたもので、木骨石造の2階建て。現在は、1階を深田久弥遺品を中心とした展示室、2階を資料の収蔵庫として使用。
「ここを訪れれば山の文化が分かる」―そうあるために いつまでも成長し続けるミュージアムを目指し、随時深田久弥に関する資料、山に関する書籍等を収集しているそうです。
文壇から転落した男が56歳から山の頂きで綴った名著
・1903年(明治36年)3月11日石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』を執筆。1971年(昭和46年)3月21日の登山中に、茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。
深田久弥の略歴
・山の文化館をより楽しんでもらうため、また、深田久弥の名著「日本百名山」がどのように生まれたのかをより深く知ってもらうため、深田の波乱万丈に富んだ経歴をご紹介しておきます。
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・1903年(明治36年)3月11日、石川県江沼郡大聖寺町字中町(現・加賀市)に生まれる。地元の多くの小中学校の遠足コースで、福井県境に近い富士写ヶ岳(942メートル)に12歳の時登ったのがきっかけで登山に興味を持つ。
・1922年(大正12年)、旧制福井中学校(現在の福井県立藤島高等学校)から第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進む。山岳部員として山にも親しむ。一高卒業後は東京帝国大学文学部哲学科に進級。この間、本郷通りでよくすれ違う少女に一目惚れし恋焦がれる。
・1927年(昭和2年)、東京帝国大学文学部哲学科に在籍しつつ出版社である改造社に入社。懸賞小説の下読みをする過程で青森県内でその文才を発揮していた北畠八穂(但し脊椎カリエスで寝たきりだったそう)と知り合い、恋に落ちる。(→これは上で記載した本郷通りの少女と北畠八穂がよく似ていたこともあったそうです)
・1930年(昭和5年)より北畠と同棲、『オロッコの娘』などの小説を発表。これらの作品が好評だったことに勇気を得て大学を中退、勤めも辞めて文筆一本の生活に。
・1932年(昭和7年)に発表した『あすならう』で文壇的評価を確立したが、実は『あすならう』も『オロッコの娘』もその他の作品も、北畠の作品の焼き直しであった。(このことに気付いた小林秀雄や川端康成から厳しくたしなめられていたという)
・1935年(昭和10年)、日本山岳会に入会。
・1940年(昭和15年)、北畠と結婚して正式に夫婦となる。だが、翌1941年(昭和16年)、東大の後輩の結婚式で初恋の女性で本郷通りの少女:木庭志げ子と再会し、道ならぬ恋に落ち逢引を繰り返す。
・1943年(昭和18年)、志げ子が深田の子を出産したことが北畠に露見。
・1947年(昭和22年) に北畠と離婚の上、志げ子と再婚した。その後、北畠が深田の小説焼き直しの件を暴露、作家としての深田の信用は失墜、10年以上にわたる雌伏生活を余儀なくされる。(→これにより深田は作家としては文壇から完全に消えることとなります。まあ、今でいう盗用ですからね…)
・文壇を降りた深田はその後、空いた時間を山に費やすことに。1959年(昭和34年)から1963年(昭和38年)にかけて、山岳雑誌『山と高原』(朋文堂)で毎月2山の連載を50回行い、1964年に新潮社から『日本百名山』を出版。
・翌1965年(昭和40年)に第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞。
・1968年(昭和43年)に日本山岳会の副会長に就任。
・1969年(昭和44年)に山渓賞(山と渓谷社)を受賞。
・1971年(昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳(1,704メートル)にて脳卒中で急逝。
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…このブログでは人様の人生にとやかく言うことはしませんが、深田久弥、修羅場も含めてなかなか壮絶な人生を歩んでいます。(恋バナだけでなく、そもそも100座登るってだけでも壮絶なのですが…)
1つ言うとしたら、なんで初婚後に後輩の結婚式でそれまで見ず知らずだった初恋の相手に偶然出会ってしまうかなと・・・運命のいたずらってほんと怖いですね。
ちなみに前妻の北畠八穂、こちらも並々ならぬ才能の持ち主で、深田と離婚後は児童文学者としての才能を一気に開花させていきます。当時はなかなか女性が文壇で活躍できなかった時代、深田との結婚以前は、北畠も深田の名前を借りることで自分の才能を発揮させたいと感じていたのかもしれません、そして深田もそんな北畠の気持ちを解ってあえてそうしていたのかもしれませんね。…ただ、北畠は深田と離婚し吹っ切れた後の方がはるかに活躍します。それもそれでかっこいい生き方なのですけどね。しかも深田と離婚後、わりとすぐにボーイフレンドができて最期までその方と過ごしました。
より詳しく知りたい方は以下のユーチューブ動画も面白かったです。(若手登山愛好家の方がアップされているようですね)
→静かな山が好きだった深田久弥。日本百名山がベストセラーとなり、多くの人々が山を訪れるようになったのが嫌だったという後日談に笑いました。
山の文化館の紹介動画はコチラを。
日本百名山
・そんな深田久弥が綴った名著「日本百名山」…どんな山々なのでしょうか。やはりファンが多いのか、そんな1座1座を紹介している動画もありましたので、これも載せておきます。
…最後に、なんでこんなに「山」について書こうとしたかというと、実は私、山も大好きなんですよね。(といっても2千メートルを超える山は富士山も含めて数座しか登ったことないですが…今はもっぱら時間の関係で主には日帰りでいける低山ばかりです。装備はアイゼンまで買ってタンスに眠っている人ですw)
本格的な登山はちょっと…って人でも私みたいに気軽にキャンプやハイキングを楽しみたいって人は結構多いと思います。実はそれは過去のアーティストたちも同じで、特に日本人の画家は自然の風景を描くって人も相当数いますので、本業の絵描きと並行して登山やハイキングを趣味にしている方も多いです。(実際に私の周りでも)
もしかしたら、「絵を描くこと」と「山に登ること」は感覚的に共通点があるのかなあと思ったりする今日この頃。
そんなこんなで今日はここまで。
日本百名山という山や自然を愛する人たちの間では知らない人はいないであろう名著、それがこんな壮絶な人生を歩んだ1人の作家が書き起こしたものだとは意外と知られていないかもしれませんね。(…まあ、一度文壇から消えた諸々の理由もあり、、)
深田久弥、紆余曲折あり、北畠八穂ほどの文才には恵まれなかったかもしれませんが、こうやって一座一座積み重ねれば後世に残り続ける名著を記すことができるというのは私たちにも勇気を与えてくれますね。
そんな深田久弥と日本の山々について学ぶことができる、「深田久弥 山の文化館」、ぜひ一度足を運んでみて下さい。
※ありし日の深田久弥
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