こんにちは、マウスです。私も実は知らなかったのですが、今日ご紹介する世界的に著名で彫刻家:イサム・ノグチ氏…生まれはアメリカで前にご紹介した北海道:モエレ沼公園での実績がすごすぎるせいか、イサム・ノグチ氏は勝手にアメリカか北海道あたりに拠点を構えていたものとばかり思っていました。
実はその世界的な彫刻家がアトリエを構えていたのは香川県牟礼町という小さな町です。今日ご紹介する美術館はそんな彫刻家:イサム・ノグチ氏の遺志を実現するために1999年開館した庭園美術館です。さっそく見ていきましょう。
このブログで紹介する美術館
イサム・ノグチ庭園美術館
・開館:1999年
・美術館外観(以下画像は施設HP、県・市、観光協会HPより転載)
・場所
イサム・ノグチ庭園美術館
世界的彫刻家のアトリエ跡地を美術館に、作家の遺志がのこる場所
・20世紀を代表する彫刻家イサム・ノグチの晩年のアトリエ・住居等を美術館として公開。美術館はノグチ自身が使っていたアトリエがそのまま利用。イサム・ノグチの150点あまりの彫刻作品はもとより、自ら選んで移築した展示蔵や住居イサム家、デザインした彫刻庭園などを楽しむことができ、150点あまりの彫刻作品、住居イサム家、彫刻庭園等、全体が一つの「環境彫刻」となり構成されている。
故:イサム・ノグチ氏へ贈られたコメント
・美術館HPには故:イサム・ノグチ氏へ贈られたコメントが掲載されています。
谷口吉生(建築家)
・幼い頃からの年長の友だったイサムさんは、酒田の土門拳記念館などでいっしょに仕事させてもらって、たいへん素敵なパートナーでもあった。 イサムさんは従来の彫刻家という枠組みを超えた存在である。環境や建築、あるいは「空間」との、より大きな関係を模索した「スペース・デザイナー」とでもいった、きわめてユニークな芸術家だ。
牟礼の美術館は、単体の彫刻もさることながら、それと周りの環境や自然の景観、屋外のランドスケープ設計、選んで移築された建築など、全体がひとつの、「環境作品」である。イサムさんがひょっと現れるような、皆が作家を訪れる興奮に包まれることだろう。
→このブログを読んでいる方はいやがおうにも美術館に詳しくなりますね。山形県:酒田の土門拳記念館…ここも谷口吉生さんとイサム・ノグチさんの合作でした。香川と山形でつながっているなんて何だか不思議な気持ちになりますね。と同時に、土門拳さんからの脈々と受け継がれきているアートの歴史みたいなのも感じますね。
勅使河原 宏(映画監督・草月流三代目家元)
・“自然が許してくれる過ち”―牟礼の仕事場で、イサムさんがふともらした一言が忘れられない。イサムさんは私に何を伝えたかったのか、この言葉を想い出すたびに、私は考えてしまう。
私の目の前には赤錆色した、すごく形のいい土かぶりの石が立っていた。山に入ってその石を発見したときのイサムさんの喜び様が目に浮かぶ。その表面に、ほんの少々縦に鋭く削り取った疵が薄墨色に浮かびあがっていた。もちろんイサムさんの仕業。ふと見ると、はにかんだ笑顔があった。謙虚さと猛烈な自信が同居した晩年のイサムさんは美しかった。
三宅一生(デザイナー)
・イサムさんがそこに住み、制作に励んでいた牟礼の地は、いつも心に焼きついて離れない。牟礼に浮かぶ雲、吹く風は、世界中のどこからでも見えていた。彫刻作品のすばらしさはいうまでもないが、空間そのものが自然や宇宙法則に感応する力をもっている。まるで無重力の空間を漂っているような錯覚にとらわれる。牟礼への旅は、自分自身の本当の姿を見つけにいく目的にこそふさわしい。
イサム・ノグチとは
・英文学者で詩人の野口米次郎と、作家レオニー・ギルモアとの間に生まれ、少年期は日本で育つ。渡米した後、彫刻家 を志し、アジア・ヨーロッパを旅して見聞を広めた。パリでは彫刻家ブランクーシの助手をつとめる。ニューヨークに居を定め、肖像彫刻、舞台美術をへて環境彫刻やランドスケープ・デザインにまで幅広い活動を開始する。戦後は日本でも陶器作品や、和紙を使った「あかり」のデザインなどを行う。また丹下健三、猪熊弦一郎、勅使河原蒼風、北大路魯山人、岡本太郎など当時の前衛芸術家たちと交流して刺激を与えあう。その後、アメリカ国内外の各地で、彫刻、モニュメント、環境設計を続け、文字通り「地球を彫刻した男」と呼ばれる。1985年には、ニューヨークにイサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアムを開館する。
代表作には、慶応義塾大学「新萬来舎」(1950)、広島の平和大橋(1952)、パリのユネスコ本部の庭園(1958)、大阪万博の噴水(1970)、デトロイトの公園「フィリップ・ハート・プラザ」(1979)、東京の草月会館ロビー「天国」(1977)、テキサスのキンベル美術館「星座」(1982)、コスタ・メサの彫刻公園「カルフォルニア・シナリオ」(1982)、フィラデルフィア「ベンジャミン・フランクリンのためのモニュメント」(1984)、ヒューストン美術館の彫刻公園(1986)、ヴェネチア・ビエンナーレの滑り台「スライド・マントラ」(1986)、高松空港「タイム・アンド・スペース」(1989)、札幌大通り公園の滑り台「ブラック・スライド・マントラ」(1992)、札幌モエレ沼公園(2005)など。
年表
・1904年、英文学者である野口米次郎と、作家レオニー・ギルモアとの間にロサンゼルスで生まれる。
・1907年、母と日本に移住。
・1918年、アメリカの学校に送られる。
・1924年、ニューヨークのレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻クラスで学ぶ。
・1926年、デザイン・美術アカデミーのサロン展に出品し始める。
・1927年、グッゲンハイム奨学金を受けてパリに行き、彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの助手をつとめる。
・1930年-31、パリに戻り、北京に旅して斉白石に墨絵を習う。京都でテラコッタの彫刻を制作。
・1935年-36、マーサ・グラハムの舞踏団のために初めて舞台装置を制作。
メキシコで公共市場の壁面レリーフを制作。
・1942年、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構える。
さまざまな素材で彫刻を作り、家具や照明器具などのデザインを行う。
・1949年-52、ボーリンゲン財団奨学金を得て、ヨーロッパ・アジアを旅する。日本では岐阜ちょうちんを新たな「光の彫刻」に再生させた「あかり」のデザインを開始。また北大路魯山人のもとで陶器の彫刻を制作。
・1958年パリのユネスコ本部の庭園が完成。
・1961年、ニューヨークのロング・アイランド・シティに、アトリエを設ける。
・1961年-67、庭園、遊園地(プレイグラウンド)、公共広場などのデザインなど、環境設計を続ける。
・1968年、ニューヨークのホイットニー美術館で回顧展を開催。自伝「イサム・ノグチ ある彫刻家の世界」(翻訳は、1969年美術出版社刊、小倉忠夫訳)を出版。
・1969年-70、香川県牟礼町に、アトリエを築く。
・1972年-79、8エーカーにおよぶ、デトロイトの「フィリップ・ハート・プラザ」を設計・制作する。東京の最高裁判所・中庭、パーム・ビーチのフォー・アーツ協会、シカゴのアート・インスティテュートなどに石の泉や噴水などを作る。東京の草月会館ロビー「天国」を制作。
・1980年、マイアミの「ベイ・フロント・パーク」、コスタ・メサの「カリフォルニア・シナリオ」の設計・制作を開始。 ニューヨークにイサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアムを開館する計画を進める。
・1982年-84、ロサンゼルスの日米文化コミュニティー・センター・プラザ、酒田の土門拳記念館、フィラデルフィアの「ベンジャミン・フランクリンのためのモニュメント」、ヒューストン美術館の彫刻庭園などの仕事を完成。
・1985年-86、ニューヨークのロング・アイランド・シティにイサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアムを開館。 ヴェニス・ビエンナーレのアメリカ館に出品。
・1987年、 ロナルド・レーガン大統領から、国民芸術勲章を受ける。
・1988年、勲三等瑞宝章を受勲。高松空港にモニュメント「タイム・アンド・スペース」と札幌市郊外「モエレ沼公園」のマスター・プランに着手。12月30日ニューヨークで死去。
→アトリエをここ香川県:牟礼町に構えたのは60歳を超えてからなんですね。それまでは世界各地を転々としていて、最後にこの牟礼町選んだというのは、終の棲家として何かノグチ氏が惹かれるものがあったのかもしれませんね。(→この後に調べたところ牟礼町は庵治石という日本有数の高品質:花崗岩が産出されるところで、いくつもの石材店が軒を並べること、また、友人の猪熊源一郎氏の紹介が大きかったようですね。猪熊氏の香川に対する貢献度合い半端ないです;)
※庵治石とは…中川政七商店のよみもの「イサム・ノグチも愛した、まだら模様が美しい高級石」(https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/121992)から転載
庵治石…今でも風化に強く、彫った文字が何十年と崩れない特性を生かし墓碑や灯篭に使われているそうです。そんなイサム・ノグチ庭園美術館と石の歴史について触れることができる牟礼町、皆さんも訪れてみてください。(→そういえば、栃木県に石の美術館ってありましたね。なかなか石も奥深そうです)
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