文化勲章を受章、西洋画の技法を取り入れ独自の新日本画の世界を築いた画家 神奈川:山口蓬春記念館

神奈川県

こんにちは。今日は神奈川県立近代美術館をご紹介する前に、隣接する場所にあるとある記念館をご紹介したいと思います。とある画家の功績を記念するために建てられたのですが、1965年(昭和40年)には文化勲章を受章、皇居新宮殿杉戸絵「楓」が代表作です。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

山口蓬春記念館

・開館:1991年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
山口蓬春記念館 – Google マップ

文化勲章を受章、西洋画の技法を取り入れ独自の新日本画の世界を築いた画家

・山口蓬春(1893-1971):東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に学び、古典による伝統的日本画を探求する一方、西洋画の技法を取り入れるなど従来にない数々の試みを実践、独自の新日本画の世界を築きます。

日展を中心に活躍し、日本画の進展に貢献した蓬春、1965年(昭和40年)に文化勲章を受章、皇居新宮殿杉戸絵「楓」に代表される作品群を遺します。

山口蓬春「楓」

1951年(昭和46年)、葉山の地で77年の生涯を閉じます。その後、山口家より土地、建物及び所蔵作品の寄贈を受けた財団法人JR東海生涯学習財団(現・公益財団法人JR東海生涯学習財団)が、その偉業を永く後世に伝えていくことを目的として、1991年(平成3年)に山口蓬春記念館を開館。

また、葉山にある蓬春の画室は、蓬春と東京美術学校(現・東京藝術大学)の同窓であった建築家・吉田五十八氏が設計し、当時のままの状態で保存、四季折々の草木が楽しめる庭とともに公開されています。

山口蓬春記念館_年報①
山口蓬春記念館_年報②

山口蓬春邸について

・記念館HPには蓬春が暮らした過去の邸宅について触れられていました。
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・山口蓬春記念館は、山口蓬春が昭和23年(1948)から亡くなる昭和46年(1971)までを過ごした邸宅であり、既存の木造2階建て家屋を自邸として購入後に画室をはじめとした増改築を建築家・吉田五十八(よしだ・いそや/1894-1974)が手がけたものです。

蓬春が戦前に住んでいた東京・世田谷の自宅は、友人で東京美術学校(現・東京藝術大学)の同窓である吉田五十八が設計したものでした。しかし疎開のため蓬春は、この邸宅を手放さざるを得なくなり、終戦後、再び買い戻そうとしましたがかなわず、実業家・山﨑種二氏(現・山種美術館創設者)の厚意により、葉山・堀内の別荘に仮住まいをします。そしてこれが葉山・一色の山口蓬春邸(現・山口蓬春記念館)という終の棲家を見つけるきっかけとなりました。

現在の建物は、その構造から昭和初期に建てられたと考えられ、戦時中には「会社の寮」として使用されていたといわれています。蓬春は、昭和23年(1948)に五十八の助言もあり、当時売りに出されていたこの建物をドイツ製カメラ「ライカ」一式を売却することで手に入れました。その後も五十八によって増改築が行われ、昭和28年(1953)の画室の増築のほか、昭和32年(1957)の母屋の一部増改築などが行われています。

また、昭和35年(1960)には岩城造園によって庭が造園され、その後は、春子夫人の丹念な手入れにより蓬春の目を楽しませ、時にはそれらの植物が作品のモティーフに取り入れられるような端整な庭となっていきました。

こうして山口蓬春邸は美しく整えられていき、蓬春の日本芸術院会員、文化勲章受章といった画壇での華々しい活躍を支え、また多くの文化人等が訪れる賑やかな場所となっていきました。

蓬春亡き後、その画業や生涯を偲ぶ上でかけがえのない山口蓬春邸は、春子夫人によって守られてきましたが、その意志は当財団によって受け継がれ、建築家・大江匡(おおえ・ただす/1954-)氏の改築により従来の木造建築を活かしつつ近代性を兼ね備えた山口蓬春記念館として生まれ変わりました。本館は、日本画家・山口蓬春と2人の建築家の感性が世代を超えて融合した場所でもあるのです。

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→面白いなと思ったのは後に(東京の回で)ご紹介しますが、現・山種美術館の創始者:山﨑種二氏とつながりがあったことですね。山﨑種二氏は山種證券(現SMBC日興証券株式会社)の源流の1つでもあり、前にご紹介した遠山記念館(遠山元一:旧 川島屋證券)ともつながってくるのはまた面白いところです。

 また、建物をドイツ製カメラ「ライカ」一式を売却することで手に入れたことも時代を映していますね。私の祖父もカメラ(ライカではないかも)を大切に金庫に保管していましたが、当時のライカは中古の一軒家くらいは手に入れることができるほどの価値があったということでしょうか。これを聞いて、昔の戦国・安土桃山時代の茶入れを思い出しました…あれは1国、1城を購入できる代物だったようですが…。

主な作品・コレクション

(恐らく作品保護のため画像小さめです。ご容赦下さい)
    
  
   
  
  
  
  
   
   
    

〇山口蓬春記念館 作品紹介・コレクション検索ページ:https://www.hoshun.jp/hoshun/collection.html

山口蓬春 年表

明治26年(1893) [0歳] 10月15日 北海道松前郡松城町(現・松前郡松前町字松城)に父・慶治、母・武子(本名・たけ)の三男として生まれる。本名・三郎。父・慶治は日本銀行福山派出所勤務であった。
明治30年(1897)頃 [4歳] 父・慶治の日本銀行札幌出張所への転勤により、山口一家は札幌に転居。
明治33年(1900) [7歳] 札幌の創成小学校に入学。
明治36年(1903) [10歳] この頃、一家は父の転職のため仙台を経由して上京か。京橋に住み、築地の文海小学校に転入(上京後泰明小学校に在籍したという説もあるが、戦災により学籍簿が焼失しているため確証が得られない)。
明治39年(1906) [13歳] 3月 文海小学校を卒業。
4月 赤坂葵町の大倉商業学校(現・東京経済大学の前身)に入学。
明治41年(1908) [15歳] この頃、珠算が不得手のため落第か。珠算塾に通う。水彩画に熱中し、三宅克己著『水彩画指南』を模写。
明治42年(1909) [16歳] この頃、大倉商業学校を中途退学か。赤坂溜池の白馬会絵画研究所に通う。
明治43年(1910) [17歳] 4月 私立高輪中学校(現・高輪学園)第3学年に編入。
明治44年(1911) [18歳] 在学中、引き続き赤坂葵橋の白馬会絵画研究所へ通う(なお、3月以降、白馬会絵画研究所は葵橋洋画研究所と改名している)。
明治45/大正元年(1912) [19歳] この頃、《風景》など後期印象派風の油彩画を描く。
大正2年(1913) [20歳] 3月 私立高輪中学校を卒業。
12月 一年志願兵として入隊 。
大正3年(1914) [21歳] 10月 父・慶治死去。
11月 輜重兵第一大隊を除隊。美術学校へ進む準備に没頭。
大正4年(1915) [22歳] 4月 東京美術学校西洋画科に入学。同級に中村研一や勝田哲らがいた。この頃、東京市赤坂区青山高樹町(現・港区南青山6丁目または7丁目あたり)に住んでいた。
大正5年(1916) [23歳] 10月 第3回二科展に〈漁村の一部〉が初入選。駐日イタリア大使に買上げられる。
大正6年(1917) [24歳] 9月 第4回二科展に〈庭園初夏〉が入選。

大正7年(1918) [25歳] 6月 東京美術学校西洋画科を退学。
 9月 東京美術学校日本画科の専科に合格。入学後、本科に転科。
 この頃から雅号を「蓬春」とする。
大正9年(1920) [27歳] 校内の日本画全級コンクールで《クリスマスイヴ》が第一席となる。兄の事業が破産。家庭教師をし、また、マネキン代用の人形絵などをつくりながら生計を立てた。その間、学校を休みがちだった。
大正10年(1921) [28歳] 5月 新潟県・赤倉に写生旅行。第2回中央美術社展に山口蓬春の名で出品、《薄暮》、《くりすますいぶ》(大正9年制作《クリスマスイヴ》の改題)が入選。
大正10-11年 学校の許可を得て京都に移住し、深草の石峰寺、高野山を描き、また鉄道省用の京都・奈良の名所図絵などを描いた。
大正11年(1922) [29歳] 3月 東京府主催の平和記念東京博覧会美術展に《雪の鳳凰堂[春浅き朝]》が入選。

大正12年(1923) [30歳] 3月 東京美術学校日本画科を首席で卒業。卒業制作「洛南之巻六題」のうち《晩秋(深草)》、《雨霽(伏見)》が学校買上げとなる。高木保之助とともに、松岡映丘を指導者とする新興大和絵会の同人となる。
 4月 第3回新興大和絵会展に山口三郎の名で《瓦焼き》(卒業制作《晩秋(深草)》の改題)、《暮るゝ醍醐》、《稲荷山》、〈春〉、〈雪〉を出品。
9月1日に起きた関東大震災のためこの年の帝展が中止となり、京都・奈良の風景を描いた双幅の出品を断念。
大正13年(1924) [31歳] 4月 第4回新興大和絵会展に山口三郎の名で〈六月の庭〉、〈野々宮〉、〈雨の寂光院〉、〈新月〉、〈雨後の夕〉、《初夏の佐保村》、《初夏の頃(佐保村の夏)》を出品。
 10月 帝国美術院主催の第5回帝国美術院美術展覧会(帝展)に山口蓬春の名で出品、《秋二題》が初入選。
大正14年(1925) [32歳] 4月 第5回新興大和絵会展に〈當麻〉を出品。また同人合作「東都近郊十二景」のうち《雪の穴守》、《木場》を出品。
 6月 第1回東台邦画会展のために《青丹よし》を制作。
10月 第6回帝展に《神苑春雨》が入選、皇后買上げとなる。

大正15/昭和元年(1926) [33歳] 3月 東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷字本村376番地(現・渋谷区本町3丁目あたり)に転居。
4月 第6回新興大和絵会展に《浄地閑寂(浄境閑寂)》、《蝉捕り》、〈春日野の奥〉、〈汽車が来る〉、〈海水浴〉、〈暮春〉を出品。また同人合作「公園六題」のうち《雪の両国》を出品。
6月 和歌山県・那智の滝を写生。
6月22日 山口家から、平福百穂の弟子であった齋藤春子(本名・はる、雅号・光園、芝区白金三光町263の北沢楽天宅に居住)へ結納が届けられる。
7月 築地本願寺書院で松岡映丘の家塾常夏荘主催の「草枕絵巻展」が開かれる。松岡映丘および門下26人による合作絵巻を公開。上巻の《いでゆ》を担当。
11月 第7回帝展に《三熊野の那智の御山》を出品、特選となり、第2回帝国美術院賞をも受賞、作品は皇室買上げとなる。
12月 狩野光雅の仲介により齋藤春子と結婚。

昭和2年(1927) [34歳] 1月 新大和絵木版画刊行会により「日本新名勝図絵」が毎月1枚順次刊行され、5月の《奈良》、12月の《彦根》を担当。
 4月 第7回新興大和絵会展に《夕空》、《武陵桃源》、《夏日[山路]》を出品。また松岡映丘および同人による合作「明治文学絵巻」のうち《森鷗外訳著『水沫集』》を担当。
この頃、東京府豊多摩郡代々幡町大字代々木字初台608番地(現・渋谷区代々木5丁目あたり)に住む。
 9月以前に同郡代々幡町大字代々木字西原1006番地(現・渋谷区西原1丁目あたり)に転居。
10月 第8回帝展に《緑庭》を出品、前年に引き続き特選となる。 この年、松岡映丘および新興大和絵会同人による合作木版画「日本新名勝図絵」のうち《奈良》、《彦根》を担当。

昭和3年(1928) [35歳] 3月 松岡映丘および新興大和絵会同人による作品集『新興大和絵会画選』が発行される。
4月 第8回新興大和絵会展に《梅林》、《残照[帰漁]》を出品。
7月 松岡映丘および新興大和絵会同人による合作木版画「日本八景」のうち《別府温泉(大分)》を担当。三重県志摩・波切村で海女を写生。
10月 第9回帝展に《潮音》が推薦となり、以後無鑑査となる。 この年、松岡映丘および門下12人による「現代風俗絵巻」のうち《ゴルフ》を担当。
 11月 久米正雄らと昭和天皇即位式拝観のため上洛。

昭和4年(1929) [36歳] 4月 第9回新興大和絵会展に《木瓜》を出品。
9月 第10回帝展で審査員となる(出品せず)。
 この年、東京府荏原郡世田谷町大字代田字宮上733番地(現・世田谷区代田4丁目または5丁目あたり)に転居して画室を持つ。

昭和5年(1930) [37歳] 4月 第10回新興大和絵会展に《扇面流し》を出品。ローマで開かれた「羅馬日本美術展覧会」に〈唐橋の雪〉、《那智の滝》(昭和4年制作)、《木瓜》(昭和4年制作)を出品。
7月23日 福田平八郎、中村岳陵、牧野虎雄、中川紀元、木村荘八、横川毅一郎、外狩素心庵らとともに六潮会を結成。
7月 翌年ベルリンで開催される「日本美術展」に先立ち、出品作品が公開され、《雨季》を出品。
この年、前年10月に創立された帝国美術学校(日本画科長:平福百穂)に小茂田青樹、川﨑小虎とともに教授として迎えられる。

昭和6年(1931) [38歳] 2月11日 新興大和絵会、声明を発表して解散。
5月 阿蘇の波野村を廻り、翌6月朝鮮の平壌などを旅行。
10月 第12回帝展に《波野》を出品。
12-翌年1月 静岡県・千本松原を写生。
 この年、岩淵芳華、小茂田青樹の紹介で蓬春に師事。

昭和7年(1932) [39歳] 2月 六潮会第1回展に《松原[松原図]》を出品。
3月 六潮会第1回展図録『六潮一海』が発行される。
4月 作品集『蓬萊集』を発行。
6月 伊東深水らと青々会を結成。作品集『蓬春会作品集』を発行。
7月 朝鮮に旅行し慶州仏国寺、京城、平壌、楽浪などに約1ヵ月滞在して写生。青々会第1回展(東京美術倶楽部)に画帳《朝鮮所見》(楽浪風景・野馬・甕売・編物・大道易者・浣衣・閑日・家・雨宿り・大同江夕月)を出品。同画帳は後に「鶏林帖」と改題。
9月 アトリヱ社より『アトリヱ叢書3 新日本画(風景)の第一歩』が刊行される。
10月 第13回帝展に審査員として《市場》を出品。作品は政府買上げとなる。

昭和8年(1933) [40歳] 2月 六潮会第2回展に《暖冬》を出品。
7月 六潮会第2回展図録『六潮一海』が発行される。
この頃、上野寛永寺創建300年記念に制作された「東叡帖」のうち、《晩秋》を担当。

昭和9年(1934) [41歳] 2月 六潮会第3回展に《鶴》、《うす雪》を出品。
4月 青々会第3回展に《梅花紅葉》六曲一双を出品。
5月 六潮会第3回展図録『六潮一海』が発行される。
10月 『日本画の研究』(佐竹林蔵編・成光館)のうち「風景画の描法」を分担執筆。
12月 聖徳記念絵画館に奉納する《岩倉大使欧米派遣》を完成。
昭和10年(1935) [42歳] 2月 六潮会第4回展に《春野》(ウズラ)、《水仙》、同人合作「十春画冊」のうち《春雨》、《春月》を出品。
4月 青々会第4回展に《竹林の図》、《椿》を出品。
5月 六潮会特別展示会が大阪で開催され、《立葵》、《夏汀》、同人合作「漁楽十二題」のうち《舴艋》、《滬》を出品。
6月 松田文相による帝国美術院の改組が行われ、参与のひとりに推薦される。
9月 松岡映丘を盟主とする国画院が創立され、同人として参加。
11月 国画院同人合作「十二ヵ月連幅」のうち《五位鷺》を制作。
12月16日 声明を発表して帝展参与を辞退し、国画院からも脱退。
 この年、帝国美術学校教授の職を辞す。六潮会第4回展図録『六潮一海』が発行される。

昭和11年(1936) [43歳] 1月 六潮会第5回展に《汀》、《春宵》、同人合作「漁楽十二題」(昭和10年制作)のうち《舴艋》、《滬》を出品。
5月 初めての個展を日本橋三越で開催。《紅梅白梅》、《爽秋》、《庭潦》、《巣籠》、《八仙嫩葉》、《良宵行》、《黄花白鶏》、《秋野図》、《午睡》、《残雪》 を出品。
6月 個展発表作による『蓬春花鳥画集』を発行。
 この年、六潮会第5回展図録『六潮一海』が発行される。

昭和12年(1937) [44歳] 1月 六潮会第6回展に《凍地》、《雪暮》、《雪三題(飛雪・影・つらゝ)》、同人合作創作版画「風六題」のうち《雪風》を出品。
昭和13年(1938) [45歳] 3月2日 師・松岡映丘、心臓性喘息のため死去。蓬春は翌日映丘宅を弔問するが、師の遺骸との対面はできなかった。
3月5日 松岡映丘の告別式が青山斎場で行われ、出席。
5月 六潮会第7回展に《木蘭》、《芍薬》を出品。
7月 『美術大講座 日本画科 第4巻 風景画実習』(福山福太郎編・福山書店)のうち「風景画の構想・構図」を分担執筆。
8月 六潮会第6・7回展図録『六潮一海』が発行される。
10月 台湾総督府主催の第1回台湾美術展覧会の審査員として台北に赴く。淡水を訪れ《南嶋薄暮》の題材となるサンチモン族の娘や歌妓、街の風景を取材した。

昭和14年(1939) [46歳] 1月 鉄道省の依頼により、大連駅貴賓室のための花鳥画を制作。
4月 第2回個展を日本橋三越で開催し、《花》、《泰山木》、《甘果》、《春の丘》、《鯉》、《瑞聖花》、《宵》、《春瓶》、《秋瓶》、《緑蔭》を出品。 世田谷区祖師谷2丁目444番地(現・世田谷区祖師谷3丁目あたり)に自宅(設計・吉田五十八)を新築して転居。
5月 六潮会第8回展に蓬春は出品せず。特別陳列に所蔵の《明刻「程氏墨苑」》(全22巻・題序9巻・墨苑13巻・跋1巻)を出品。
6月 個展発表作による『蓬春画集』を発行。
10月 文部省主催の第3回文部省美術展覧会(新文展)に審査員として《秋影》を出品。第2回台湾総督府美術展覧会の審査のため台北に赴く。同行の松林桂月、有島生馬、大久保作次郎らと台湾南部に旅行。ガランピの飼育場でこぶ牛などを写生。
12月 六潮会第8回展図録『六潮一海』が発行される。
 この年、厚生省の委嘱により、原色絵はがきのために《靖国神社図》を制作。

昭和15年(1940) [47歳] 4月 六潮会10周年展に《五月》、《舞妓写生二題》、同人合作「東披居士賞心十六餘事抄冊」のうち《乞得名花盛開》を出品。六潮会展はこの回で最後となるが、同人同士の親交は続いた。大阪毎日新聞・東京日日新聞主催の紀元二千六百年奉祝日本画大展覧会(大礼記念京都美術館、東京府美術館)に《市場》(昭和7年制作)が審査員作品として特別出品される。
5月 ニューヨーク万国博覧会に《秋影》を出品。
6月 紀元二千六百年奉讃関東州美術総合展覧会(大連三越)美術品審査のため大連に赴く。同展に〈牡丹〉を出品。帰路京城(現・ソウル)に滞在、7月に帰国。
8月 六潮会十周年展図録『六潮一海』が発行される。
11月 文部省・紀元二千六百年奉祝会主催の紀元二千六百年奉祝美術展覧会(東京府美術館)に《南嶋薄暮》を出品。
 この年、芸艸堂より『現代名家素描集 第一輯 山口蓬春自撰植物編』が刊行される。

昭和16年(1941) [48歳] 5月 福島県・須賀川牡丹園にて写生。
9月 第4回新文展の審査員となる(出品せず)。
10月 第4回台湾総督府美術展覧会の審査のため、台北に赴く。
昭和17年(1942) [49歳] 3月 日本画家報国会が結成され、日本画製作資材統制協会(会長・野田九浦)が発足。蓬春は統制協会の常務理事となる。日本画家報国会主催の軍用機献納作品展に《残寒》を出品。
4月 陸軍省から南方に派遣され、サイゴン、香港、広東などに約3ヵ月滞在し、帰途台北に立ち寄り、6月に帰国。
7月 陸軍美術協会主催の大東亜戦争従軍画展(日本橋髙島屋)に《トーチカ》を出品。
8月 陸軍美術協会主催の陸軍省派遣南方従軍画展(日本橋髙島屋)に《拾香集》を《香港スケッチ》として出品。
10月 第5回新文展に審査員として《廃墟》を出品。
12月 朝日新聞社主催の大東亜戦争美術展(東京府美術館)に作戦記録画《香港島最後の総攻撃図》が陸軍省から特別出品される。

昭和18年(1943) [50歳] 3月 陸軍美術協会主催の陸軍美術展(日本橋三越)に《九龍より香港を望む》、《九龍碼頭》、〈九龍の或る戦蹟〉を出品。
4月25日 国画院が解散。
5月 日本美術報国会が創立される。会長・横山大観、第一部(日本画)部会長・野田九浦、同幹事長・山口蓬春。同時に日本美術及工芸統制協会が設立される。理事長・児玉希望、蓬春は理事。
6月 第6回新文展の審査員となる(出品せず)。
8月 第6回満州国美術展の審査のため、新京に赴く。満州国皇帝のために〈菖蒲〉を制作。大同にて写生。

昭和19年(1944) [51歳] 第7回満州国美術展の審査員となる。
昭和20年(1945) [52歳] 3月10日 東京大空襲。23万戸が焼失、死傷者12万人。
4月 世田谷区祖師谷の住居と画室を手放して、山形県東置賜郡赤湯町(現・南陽市)に疎開。
6月13日 母・武子死去。
8月15日 戦争終結の詔書放送、太平洋戦争終わる。
 10月 日本美術報国会が解散。
昭和21年(1946) [53歳] 9月 文部省主催の第2回日本美術展覧会(日展)の審査員となる(出品せず)。

昭和22年(1947) [54歳] 1月14日 山形県から引き揚げ、神奈川県三浦郡葉山町大字堀内1250の山﨑種二氏の別荘に仮住まいする。
2月 大山忠作が復員し、蓬春に師事。
5月 東京都・毎日新聞社主催の新憲法実施並びに東京都美術館開館20周年記念現代美術展(東京都美術館)が開催され、〈彩雲〉を出品。
6月 福島県・裏磐梯の五色沼に《山湖》のための写生旅行に行く。
10月 第3回日展に審査員として《山湖》を出品。
昭和23年(1948) [55歳] 3月16日 神奈川県三浦郡葉山町大字一色字三ヶ岡2320番地に転居、終の住処となる。
7月 三越主催の第1回彩交会展に《長春》を出品。
10月 日本芸術院主催の第4回日展に審査員として《濤》を出品。
 この年、加藤東一、佐藤圀夫が蓬春に師事。日本画滅亡論起こる。

昭和24年(1949) [56歳] 1月 双青会展のために《矢車草》を制作。
2月 岡村多聞堂額装展のために《カーネーション》を制作。
6月 第2回彩交会展に《芥子》を出品。
9月 『三彩』誌上に「新日本画の技法」の連載を開始。
10月 日本芸術院・日展運営会主催(第13回展まで)の第5回日展に審査員として《榻上の花》を出品。

昭和25年(1950) [57歳] 6月 日本美術協会第3回展(日本橋三越)に《浜》を出品。第3回彩交会展に〈朝顔〉を出品。
9月 兼素洞主催の百二会第1回展に《バラ》、《秋野[桔梗]》、《梨子》、《静物》(ブドウ)、《桃》を出品。同展は昭和30年の第5回展までは福田平八郎との2人展で、命名は川合玉堂による。
10月 第6回日展に審査員として《夏の印象》を出品。
11月 髙島屋主催の霜月会第4回展に《厨房冬至》を出品。
12月 日本芸術院会員に任命される。 歌舞伎座のために《緑陰》を制作。

昭和26年(1951) [58歳] 5月 美術出版社より『新日本画の技法』が刊行される。
7月 第4回彩交会展に《彩池》を出品。
10月 百二会第2回展に《魚[縞鯛]》、《魚[佐与利]》、《ばら》、《秋茄子[茄子]》を出品。
12月 吉田五十八が企画した「新日本感覚の建築美術工芸展示会」(日本橋髙島屋)に《鯛》を出品。
この年、浦田正夫が蓬春に師事。この頃、三越カレンダー原画《都波喜》を制作。
この頃、三越カレンダー原画《都波喜》を制作。

昭和27年(1952) [59歳] 1月 「山口蓬春素描展」(彌生画廊)が開催される。
5月 伊勢神宮式年遷宮奉賛美術展に《花菖蒲》を出品。毎日新聞社主催の第1回日本国際美術展(東京都美術館)に《初夏》を出品。松本榮が蓬春に師事。
6月 第5回彩交会展に〈八仙花〉を出品。
10月 第8回日展に審査員(主任)として《海芋と岬》を出品。
12月 百二会第3回展に《椿》、《鯛》、《卓上》を出品。

昭和28年(1953) [60歳] 4月 外務省の依頼により、ニューヨーク総領事館のために《あやめ》を制作。
5月 髙島屋主催の皐月会第1回展に《林檎》を出品。
6月 第6回彩交会展に《芍薬》を出品。
10月 第9回日展に《望郷》を出品。12月 吉田五十八の設計による画室を自宅に新築。

昭和29年(1954) [61歳] 1月 江守若菜が蓬春に師事。
3月 銀座松坂屋現代大家新作5人展に《魚》を出品。
4月 百二会第4回展に《花籠》、《海老》、《花》(パンジー)を出品。
5月 毎日新聞社主催の第1回現代日本美術展(東京都美術館)に《ばら》を出品。日展運営総会で理事に選ばれる。授賞選考委員を兼ねる。皐月会第2回展に《静物》(モモ)を出品。
6月 第7回彩交会展に《池畔》を出品。
7月 『新日本画の技法』の改訂版が刊行される。
8月 オーストリア日本大使館のために〈春〉を制作。
9月 福島県・裏磐梯の五色沼に《青沼新秋》のための写生旅行に行く。
10月 第10回日展に審査員として《青沼新秋》を出品。
11月 株式会社三越創立50周年記念東西大家日本画展に《秋趣》を出品。
12月 名古屋松坂屋展のために《多子図》を制作。

昭和30年(1955) [62歳] 4月 北海道へ旅行。
5月 皐月会第3回展に《バラ》を出品。大阪大丸春季展のために《鰊とピーマン》を制作。
6月 第8回彩交会展に《まり藻と花》を出品。
9月 
大阪文楽座緞帳原画《孔雀》を制作。
10月 第11回日展に審査員として《盤中濤》を出品。
11月 三溪洞主催の洪谿会展(三溪洞10周年記念)に《秋果》を出品。東西大家日本画展(渋谷東横百貨店)に《菊》を出品。
12月 百二会第5回展に《瓶花[向日葵]》、《籠花》、《静物[冬菜]》を出品。宮内庁のために《菊》を制作。
 この年、萩山輝雄監督映画「京鹿子娘道成寺」の美術を担当。六世中村歌右衛門のために歌舞伎「助六由縁江戸桜」揚巻の衣装の裲襠に《白地精好梅に丹頂鶴図》を描く。

昭和31年(1956) [63歳] 1月 神奈川県立近代美術館で「有島生馬・山口蓬春自薦展」が開催され、蓬春は葉山移住後約8年間の作品から34点を出品。
2月 彌生画廊主催の第2回爽龍会展に《蕪菁》を出品。
4月 第9回彩交会展に《籠中春花》を出品。名古屋青年会展のために《首夏》(タケノコ・エダマメ)を制作。
5月 皐月会第4回展に《赤絵の鉢》を出品。大阪大丸春虹会展に《筍[首夏]》を出品。
6月 関尚美堂主催の茜会第7回展(壺中居)に《紫陽花》を出品。
7月 松坂屋主催の燦光会第2回展に《枇杷》を出品。
8月 北京で行われた雪舟等楊逝世四百五十周年記念式典に日本代表として参列のため、春子夫人、橋本明治夫妻、北川桃雄とともに中国に赴く。大同など各地を視察・写生、中国美術関係者とも交流して9月帰国。
11月 日本芸術院主催の日本芸術院会員作品展に《瓶花[百合花]》を出品。中央公論社屋竣工画廊開設記念展に《静物(遼三彩鉢と果物)》を出品。
12月 兼素洞新作画展のために《白椿》を制作。

昭和32年(1957) [64歳] 3月 朝日新聞社主催の「山口蓬春写生展」(銀座松屋)が開催され、《北京風景》(昭和18年制作)、《飛天》、《三彩俑》など前年の中国旅行での写生を中心に出品。五都美術商連合会(東京・大阪・京都・名古屋・金沢美術倶楽部)主催の第6回五都展(第3回展までは五都連合新作日本画展覧会と呼称)に《静物》(ナス・ピーマン)を出品。
4月 第10回彩交会展に《梅》、《椿》を出品。日展運営会総会で常任理事に選任される。
5月 皐月会第5回展に《牡丹》を出品。
6月 第3回爽龍会展に《オランダ皿の静物(夏果図)》を出品。
7月 燦光会第3回展に《立葵》を出品。常夏会展に《紫陽花》を出品(同展は松岡映丘の令嬢・みどりのバレエ研究所建設援助のため、蓬春、岩田正巳、山本丘人、杉山寧らがよびかけ、鏑木清方らも参加して開いたもの)。
10月 新橋演舞場緞帳原画《白蓮木蓮》を制作。
11月 第13回日展に審査員として《芍薬》を出品。
 この年、加倉井和夫が蓬春に師事。

昭和33年(1958) [65歳] 3月 髙島屋美術部50周年記念展に《ペルシャの鉢》を出品。日展運営会が解散。翌4月新たに社団法人日展が発足し、蓬春は常務理事に選任される。第7回五都展に《静物》(リンゴ・ブドウ)を出品。
4月 第11回彩交会展に《椿》を出品。
6月 村越画廊主催の第3回春秋会展に《向日葵》を出品。兼素洞主催の清流会第10回展に《ペルシャの鉢》を出品。
11月 社団法人日展主催の第1回日本美術展覧会(新日展)に審査員(主任)として《留園駘春》を出品。中央公論画廊主催の高樹会第2回展に《黄菊》を出品。
12月 百二会第6回展に《瓶花》(ツワブキ)、《柑子》を出品。この年より、中村岳陵、小野竹喬、徳岡神泉が参加。和光美術展のために《柑子》を制作。
この年、秋に関西で開催された「はにわ展」に出かけ、はにわを写生か。

昭和34年(1959) [66歳] 1月 テレビ放映新春対談「新春の画室から」に出演。第3回萌春会展のために《木蓮》を制作。
2月 文化財専門審議会第一分科会専門委員となる。
5月 第12回彩交会展に《洋蘭》を出品。皐月会第7回展に《首夏[菖蒲]》を出品。
8月 燦光会第5回展に《紫陽花》を出品。東京歌舞伎座緞帳原画《武蔵野》を制作。
9月 日本美術新報社より『山口蓬春自撰画集』が刊行される。
10月 靖国神社御創立90年記念として《御社頭図》を奉納。
12月 小津安二郎監督映画「秋日和」のために《白椿》を制作。

昭和35年(1960) [67歳] 3月 財団法人日本交通文化協会主催の第7回交通人総合文化展に《桃》を出品。
4月 第9回五都展に《矢車草》を出品。
5月 春風洞画廊主催の開設記念展に《静物[洋梨]》を出品。
6月 相模屋美術店主催の13周年記念展(文藝春秋画廊)に《瓶花》(ハナショウブ)を出品。
7月 清流会第12回展に《月明》を出品。一哉堂画廊主催の玄覧会第1回展に《静物》(ペルシャの鉢)を出品。第13回彩交会展に《霜》を出品。
11月 第3回新日展に《宴》を出品。
12月 関尚美堂主催の尚美展(中央公論画廊)に《林檎》を出品。

昭和36年(1961) [68歳] 4月 第10回五都展に《瓶花》(ツバキ)を出品。
6月 第14回彩交会展に《染付の皿》を出品。
7月 清流会第13回展に《緑蔭》を出品。東京オリンピック芸術展示特別委員会の委員を委嘱される。
9月 財団法人日本交通文化協会主催の日本観光美術新作展(日本橋白木屋)に《静物》(ザクロ)を出品。
10月 青森県・十和田湖・八甲田方面に《秋》のための写生旅行に行く。
11月 第4回新日展に《秋》を出品。
12月 百二会第7回展に《洩るゝ陽(洩れ日)》を出品。

昭和37年(1962) [69歳] 1月 NETテレビ(現・テレビ朝日)放映「夫と妻の記録」に出演。燦光会第6回展に《静物》(ブドウ・レモン)を出品。
3月 横綱大鵬のため5月場所の化粧廻しと太刀持ち及び露払いの図案3点を制作。
4月 福島県・飯坂温泉に《春》のための写生旅行に行く。六世歌右衛門のために歌舞伎「助六由縁江戸桜」揚巻の衣装の裲襠に《白地精好紅に鵲図》を描く。
6月 清流会第14回展に《瓶花》(アヤメ)を出品。
7月 第15回彩交会展に《夏蔭》を出品。大阪歌舞伎座緞帳原画《住之江》を制作。
11月 第5回新日展に審査員として《春》を出品。
12月 百二会第8回展に《新冬》を出品。

昭和38年(1963) [70歳] 4月 朝日新聞連載「新・人国記」の挿画を制作。前年の7月に第4回新日展出品作《秋》(昭和36年制作)を国立近代美術館に寄贈したことにより、紺綬褒章を受章および木杯を拝受。《春》(昭和37年制作)、《冬(枯山水)》(昭和38年制作)、《夏》(昭和40年制作)も含めた4部作は1作ごとに国立近代美術館へ寄贈される。
5月 銀座松屋で朝日新聞社主催の「名作シリーズ第8回 山口蓬春自撰展」が開催され、61点を出品。
6月 和光美術展に《緑芝》を出品。
7月 第16回彩交会展に《夏影》を出品。
10月 京都・西芳寺(苔寺)に《冬(枯山水)》のための写生旅行に行く。
11月 第6回新日展に《冬(枯山水)》を出品。髙島屋主催の白壽会新会員となり第16回展に《池》を出品。

昭和39年(1964) [71歳] 2月 国立教育会館緞帳原画《杜》を制作。
5月 第17回彩交会展に《唐壺芍薬》を出品。三彩社から『山口蓬春作品集』が刊行される。
6月 清流会第16回展に《蒼翠》を出品。
7月 宮内庁より皇居宮殿正殿松の間杉戸の制作を橋本明治とともに依頼される。

昭和40年(1965) [72歳] 4月 栗田九品庵新作日本画展(成蹊クラブ)に《瓶花》(バラ)を出品。第14回五都展に《瓶花》(ケシ)を出品。
5月 資生堂主催の新椿会第3回展(資生堂ギャラリー)に《椿》を出品。
6月 テレビ放映日曜美術館「画室をたずねて」に出演。清流会第17回展に《魚藻花洗》を出品。第18回彩交会展に《庭》を出品。
10月 京都・高雄などの紅葉の名所で楓を写生。
11月 高輪学園創立80周年行事に招待され講演。第8回新日展に審査員として《夏》を出品。
11月3日 文化勲章を受章。
12月 百二会第11回展に《瓶花》(ウメ)を出品。

昭和41年(1966) [73歳] 6月 第19回彩交会展に《赤絵と染付》を出品。清流会第18回展に《池》を出品。
7月 山種美術館開館記念展に《梅雨晴》を出品。
10月 明治神宮百年記念のために《菊花》を制作し、神社貴賓室に飾られる。福島県・高湯ハイランド付近で楓を写生。

昭和42年(1967) [74歳] 1月 朝日新聞連載「天皇の世紀」(大佛次郎著)の挿画を制作。
2月 障壁画の研究のため京都(智積院、大覚寺、妙心寺)へ行く。ブリヂストン美術館の土曜講座にて「障壁画の技法」をテーマに講演。
5月 妻・春子と橋本明治夫妻とともに京都(京都御所、智積院、大覚寺天球院、円通寺、二条城、神護寺、常照皇寺)へ行き、常照皇寺では楓を写生。第20回彩交会展に《唐壺芍薬》(昭和39年制作)を出品。
6月 国立劇場貴賓室のために《首夏》(ハナショウブ)を制作。
7月 記念切手魚介シリーズのひとつとして蓬春の《さざえ》が発行される。
10月 福島県・高湯ハイランド付近を再び訪れ楓を写生。

昭和43年(1968) [75歳] 5月 皇居宮殿正殿松の間杉戸《楓》が完成。
7月 第21回彩交会展に《桐の花》を出品。
9月 和光美術展に《清秋》を出品。
11月 第11回新日展に《陽に展く》を出品。心筋梗塞のため、12月まで入院。
この年、文化財専門審議会第一分科会専門委員を辞任。

昭和44年(1969) [76歳] 5月 彩壺堂主催の彩壺会日本画展に《長春花[薔薇]》を出品。

7月 第22回彩交会展に《水田》(シラサギ)を出品。
11月 白壽会第21回展に《紅白梅》を出品。

昭和45年(1970) [77歳] 3月 和光美術展に《瓶花》(ユリ)を出品。
4月 第19回五都展に《瓶花》(ボタン)を出品。
6月 第23回彩交会展に《芥子》を出品。清流会第22回展に《夏の花》を出品。月末から2ヵ月間入院。
10月 東京美術倶楽部で開催された東京美術商協会主催の第4回東美特別展に《瓶花》(キキョウ)を出品。横浜髙島屋で神奈川県文化協会・朝日新聞社主催の「喜寿記念 山口蓬春展」が開催され、48点を出品。

昭和46年(1971) 3月 和光美術展に最後の完成作の《静物》(リンゴ)を出品。
5月31日 胃癌のため、自宅で死去。同日、従三位に叙せられ、銀杯四号を授与される。
6月9日 築地本願寺で告別式が行われる。葬儀委員長を吉田五十八が務める。戒名は俶徳院殿温岳蓬春大居士。

昭和48年(1973) 4月 蓬春3回忌にあたり、東京・髙島屋、大阪・髙島屋、名古屋・名鉄百貨店、札幌・丸井今井で朝日新聞社主催の「山口蓬春遺作展」が開催され、90点余が出品される。日本橋壺中居で「山口蓬春古陶写生展」が開催され、18点が出品される。
10月 朝日新聞社から『山口蓬春作品集』が刊行される。
昭和51年(1976) 5月 集英社から『鏑木清方/山口蓬春』(現代日本の美術・第3巻)が刊行される。
 12月 集英社から『鏑木清方/山口蓬春』(愛蔵普及版 現代日本の美術・第5巻)が刊行される。
昭和57年(1982) 5月 朝日新聞社から『アサヒグラフ別冊 美術特集 日本編28 山口蓬春』が刊行される。
昭和59年(1984) 9月 神奈川県立近代美術館本館で「山口蓬春展-清澄な詩情を謳う-」が開催され、作品86点のほか愛蔵品19点が出品される。また同館別館で「山口蓬春 下図・模写・素描展」が開催され、156点が出品される。
昭和60年(1985) 4月 北海道新聞社から井上研一郎著『山口蓬春-新日本画への展開』(ミュージアム新書⑤)が刊行される。
8月15日 蓬春の蔵書(3,546点)と下図・模写・素描の一部(約300点)が、春子夫人より本年と翌年にかけて神奈川県立近代美術館に寄贈される。
平成3年(1991) 10月15日 財団法人ジェイアール東海生涯学習財団(現・公益財団法人JR東海生涯学習財団)により、神奈川県葉山町の旧宅に山口蓬春記念館開館。
11月11日 春子夫人、自宅で死去。

平成4年(1992) 1月4日-
2月11日 東京・小田急、大阪・心斎橋大丸、京都大丸で朝日新聞社主催の「生誕百年記念・山口蓬春展」が開催され、本画77点、下図、素描など8点が出品される。
平成7年(1995) 3月 山口蓬春記念館から『山口蓬春素描集』が刊行される。
平成9年(1997) 9月30日-11月16日 渋谷区立松濤美術館で山口蓬春記念館・財団法人ジェイアール東海生涯学習財団・渋谷区立松濤美術館主催の「特別展 山口蓬春-新日本画への軌跡-」が開催され、本画71点、下図・素描など20点が出品される。
平成13年(2001) 10月6日-14日 
名古屋市中区のジェイアールセントラルタワーズ12階のタワーズプラザホールで、財団法人ジェイアール東海生涯学習財団・山口蓬春記念館主催の「昭和日本画壇のモダニスト―山口蓬春記念館10周年特別展―」が開催され、本画37点、下図・素描など蓬春作品40点と、ゆかりの画家5人の作品9点が出品される。
平成15年(2003) 10月 山口蓬春記念館から『山口蓬春素描集〔改訂版〕』が刊行される。
平成18年(2006) 10月21日-12月24日 神奈川県立近代美術館 葉山で神奈川県立近代美術館・山口蓬春記念館主催の「日本画の変革者 山口蓬春-伝統とモダンの融合-」が開催され、本画76点、油彩画・下図・模写・素描・写生帖など41点が出品される。
平成22年(2010) 7月23日 山口蓬春記念館から『山口蓬春素描集〔改訂第2刷〕』が刊行される。
平成30年(2018) 2月 山口蓬春記念館から『山口蓬春―新日本画の世界―』が刊行される。

→全て本記念館HPの情報ですが…すごい丁寧に年表つくられていますね。ここまでのものはあまり見たことがないため驚きでした。年表をわかりやすいように区切ってみてみると30歳以降の活躍が顕著なのが分かりますね。
いかがでしょう、山口蓬春。日本画の中に西洋画の技法を取り入れた画風は「蓬春モダニズム」と呼ばれ、新しい日本画の世界を築き上げました。一時代を担った日本を代表するアーティストの記念館、ぜひ皆さんも足を運んでみて下さい。

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