どんな大金より一切れのパン、作者が探した逆転しない正義とは 高知:香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム

高知県

こんにちは。音楽をオノマトペとだけで表現するのって難しいですよね。でもこの曲、「たったったったたたった♫」と書くと、もうこのテンポだけで何の曲か分かる人もいるかもしれません。恐らく私の子どもや世の園児たちは一瞬で気づくでしょう。

そんな世界に誇る日本のアニメ・漫画の中で子供から大人まで愛され、1969年に初めて登場してから50年以上という歴史を迎えるアンパンマン。全国にアンパンマンミュージアムなるものが存在しますが、その作者:やなせたかしさんの故郷が高知県後免町(現:南国市)なのはご存知でしょうか。(あくまでアンパンマンを大切にされており、やなせさん自身は自分の功績などについてそんなに前面に出すような性格の方ではなかったので知らない方も多いのではないかと思います)

そんな高知県が誇る漫画家、やなせたかしさんの故郷:高知においてアンパンマンを巡ることができる美術館が今日ご紹介の場所です。それでは早速。

このブログで紹介する美術館

香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム

・開館:1996年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)

・場所
香美市立やなせたかし記念館アンパンマンミュージアム – Google マップ

アンパンマンミュージアムについて

(以下は美術館HPからの引用です)
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・高知県香美市香北町はアンパンマンの生みの親、やなせたかしのふるさと。この小さな小さな町にあるアンパンマンミュージアムは、アンパンマンが大好きなみんなの心のふるさとです。

ここには難しい絵はひとつもありません。順路もありません。好きなところからぐるぐると自由に歩き回って、館内のあちらこちらに隠れているアンパンマンと仲間たちを探してみてください。

やなせたかしさんのコメント

・ここはたくさんの人の協力で完成しました。ちいさいながらも洗練された建築で、ぼくごときものには身分不相応の壮麗さです。この町はぼくの故郷の町ですが、アンパンマンを愛してくださる人はみんなここが心の故郷の町。このミュージアムは自分のミュージアムと思ってください。

幸いにして自然はとても美しい。山峡の細長い空を旅する雲はぼくの子どもの時とおんなじだ。物部川にのんきそうな影をおとしている。ああ、なんていいんだ。この平和な風景。ぼくはすこしもえらくない。吹けばとぶような漫画家です。決して高級な芸術家ではなく生涯を大衆の中で生きています。だから、このミュージアムも小さな子どもでも年とった人もわからない絵はありません。

世界中でたったひとつのごく気軽なミュージアム。ぼくはみんなと遊びたい。たとえこの世がつらいとしてもうなだれてるのは好きじゃない。ぼくの絵の具はいつも明るい。ごく子どもっぽい絵を描いてほとんど尊敬されることもなくここが人生の終点と覚悟しています。

それではどうぞごゆっくり。
またお逢いできる日を楽しみに。

(平成8年7月 名誉館長:やなせたかし)

アンパンマンとは

(恐らく知らない人はいないでしょうが、念のため文字で振り返っておきます)
<アンパンマンとは>
・やなせたかし氏が描く一連の絵本シリーズ、および、これを原作とする派生作品の総称。また、それらの作品における主人公「アンパンマン」の名前。パンの製造過程であんパン(餡パン)に「いのちの星」が入ることで誕生した正義のヒーローで、困っている人を助けるために自らの顔(あんパン)を差し出す。あんパン(餡パン)だけにその頭の中には餡(つぶあん)が詰まっている。

→外国の方へアンパンマンを紹介するときの参考にしてください(笑)

やなせたかしさん略歴

・1919年(大正8年)、父・柳瀬清、母・登喜子の長男として生まれる(本名:柳瀬嵩)。高知県在所村(現・香美市香北町)出身。
・1937年(昭和12年)、東京高等工芸学校工芸図案科(現・千葉大学工学部)入学。
・1940年(昭和15年)、東京田辺製薬入社。
・1941年(昭和16年)、応召、九州・小倉の部隊に入隊。
・1943年(昭和18年)、中国大陸に出兵。上海近郊の泗渓鎮で終戦を迎える。
・1946年(昭和21年)、中国より帰国。高知新聞社入社。社会部記者を経て『月刊高知』編集室配属。そこで後に夫人となる小松暢と出会う。
・1947年(昭和22年)、上京。三越百貨店入社。包装紙「華ひらく」(猪熊弦一郎デザイン)の制作に携わる(「Mitsukoshi」はやなせ筆)。仕事の合間に様々なメディアに漫画を投稿。小島功を中心とした若手漫画家集団「独立漫画派」に参加。
・1953年(昭和28年)、三越百貨店退社、フリーになる。
・1954年(昭和29年)、ニッポンビール(現・サッポロビール)の広告漫画「ビールの王さま」はじめ連載漫画を多数手がける。「漫画集団」に参加。
・1960年(昭和35年)、テレビやラジオ番組、リサイタルの構成、雑誌のインタビューなど多彩な活動を行う。ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」(永六輔監修)に美術担当として参加。作曲家いずみたくと出会う。
・1961年(昭和36年)、「手のひらを太陽に」作詞(いずみたく作曲 宮城まり子歌)。翌年、「手のひらを太陽に」がNHK「みんなのうた」で放送され、後に音楽の教科書にも掲載される。
・1964年(昭和39年)、NHK「まんが学校」に講師として出演(’64 ~ ’67)。東京12チャンネル(現・テレビ東京)のテレビ映画「ハロー CQ」(羽仁進監修)の脚本担当。
・1965年(昭和40年)、『まんが入門』(華書房)出版。初めての創作絵本『飛ぶワニ』(岩崎書店)出版。『映画芸術』『映画の友』など映画雑誌へ連載していたシネエッセイを収録した『しね・すけっち』出版。
・1966年(昭和41年)、詩集『愛する歌』を山梨シルクセンター(現・サンリオ)より出版。
・1967年(昭和42年)、文化放送のラジオドラマに「やさしいライオン」を執筆。コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日マンガ賞受賞。
・1969年(昭和44年)、雑誌『PHP』に短編を一年間連載、10月号に「アンパンマン」登場。アニメ映画「千夜一夜物語」(手塚治虫原案・総指揮)の美術監督とキャラクターデザイン担当。虫プロダクションより短編アニメ映画「やさしいライオン」制作、監督・原作・脚本担当。
・1972年(昭和47年)、絵本好きの漫画家と「漫画家の絵本の会」を結成。
・1973年(昭和48年)、雑誌『詩とメルヘン』(サンリオ)創刊。同誌編集長を務める(’73 ~ ’03)。フレーベル館の月刊絵本『キンダーおはなしえほん』10月号に「あんぱんまん」掲載(1976年市販化)
・1975年(昭和50年)、サンリオよりアニメ映画「ちいさなジャンボ」制作、監督・原作・脚本担当。『詩とメルヘン』に連載メルヘン「怪傑アンパンマン」掲載。雑誌『いちごえほん』(サンリオ)創刊(’75 ~ ’82)。絵本『それいけ!アンパンマン』(フレーベル館)刊行。
・1976年(昭和51年)、『いちごえほん』に「れんさいまんが あんぱんまん」掲載。
・1982年(昭和57年)、雑誌『イラストレ』(サンリオ)創刊(’82 ~ ’85)。
・1988年(昭和63年)、日本テレビ系列でテレビアニメ「それいけ!アンパンマン」放映開始。
・1989年(平成元年)、劇場版映画第1作「それいけ!アンパンマン キラキラ星の涙」公開。
・1990年(平成2年)、読売新聞日曜版に漫画「とべ!アンパンマン」連載開始(’90 ~ ’94)。
・1992年(平成4年)、「第1回全国高等学校漫画選手権大会(まんが甲子園)」開催、審査委員長となる。
・1994年(平成6年)、東京都新宿区にやなせたかしの店「アンパンマンショップ」開店。高知県香美郡香北町(現・香美市)名誉町民。
・1996年(平成8年)、「やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム」開館。少年少女新聞に漫画「ピョンピョンおたすけかめん」連載開始(’96 ~ ’00)。
・1998年(平成10年)、「やなせたかし記念館 詩とメルヘン絵本館」開館。
・2000年(平成12年)、テレビ朝日系列でテレビアニメ「ニャニがニャンだ一ニャンダーかめん」放映開始(’00 ~ ’01)。「20世紀デザイン切手 シリーズ第16集」の題材としてアンパンマンが起用される。北海道富良野市にやなせたかしの店「アンパンマンショップふらの店」開店。
・2001年(平成13年)、「やなせたかし記念館 別館」開館。高知地方法務局の依頼で制作した「人KENまもる君」が法務省全国統一の人権キャラクターとなる。
・2005年(平成17年)、「やなせたかし記念公園」完成。同公園内に「やなせうさぎ」像完成。
・2008年(平成20年)、「ジャイアントだだんだん」像完成。
・2009年(平成21年)、「それいけ!アンパンマン」が単独のアニメーションシリーズの登場キャラクター数(1768体)でギネス世界記録に認定。アニメ放送1000話目達成。
・2010年(平成22年)、朝日小学生新聞に「やなせたかしのメルヘン絵本」連載開始(’10 ~ ’13)。
・2011年(平成23年)、「たたかうアンパンマン」像完成。高知県名誉県民顕彰。
・2013年(平成25年)10月13日、永眠。

→こうみると「アンパンマン」、50歳を超えてからのヒットだったのですね…94年の人生の中で、20代の頃をほぼ戦争で費やし、前半生は百貨店やテレビ・ラジオの仕事をしていたことは私も知りませんでした。しかもかの有名な「ぼくらはみんな生きている~♫」ではじまる有名曲「手のひらを太陽に」の作詞まで。(やはり「アンパンマン」以前も素晴らしい活躍です)

それにしても、やなせさん、壮絶過酷な戦争体験を20代という多感な時期に経験したにも関わらず、そこからアンパンマンのような子供たちに親しまれる柔らかい画風の漫画・アニメーションをつくり出していったことは筆舌に尽くしがたいですね。

どんな大金よりい一切れのパン、作者が探した逆転しない正義とは

・最後に、やなせさんがアンパンマンに込めた想いを回想して終わりたいと思います。

<アンパンマンに込めた想い>
・人生の楽しみの中で最高のものは、やはり人を喜ばせることでしょう。肉体的苦痛は、いつか慣れる。でも、ひもじさだけは何より情けなく、何よりも耐えがたい。この社会で一番憎悪すべきものは戦争だ。絶対にしてはいけない。

今の日本では飢えが身近にないので、実感がわきにくいかもしれない。だが、しばらく何も食べないでいれば、飢えのつらさは体験できる。本当に飢えているときには、どんな大金より、一切れのパン、一杯のスープのほうがずっとうれしい。

戦争と飢え。さらに戦争終結によってこれまで信じてきた「正義の論理」さえもがひっくり返ってしまった。正義は不安定なものである日突然逆転するし、正義は信じがたい。正義のための戦いなんてどこにもないのだ。

しかし逆転しない正義もある。それが献身と愛だ。そして弱者を助けること。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。

自分はまったく傷つかないままで、正義を行うことは非常に難しい。正しいことをする場合、必ず報いられるかというと、そんなことはなくて、逆に傷ついてしまうこともあるんです。

ぼくらも非常に弱い。強い人間じゃない。でも、なにかのときには、やっぱりやってしまう。ヒーローというのは、そういうものだと思います。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。

なんのために生まれて何をして生きるのか。これはアンパンマンのテーマソングであり、ぼくの人生のテーマソングである。生きていることが大切なんです。今日まで生きてこられたなら、少しくらいつらくても明日もまた生きられる。そうやっているうちに次が開けてくるのです。

アンパンマンは”世界最弱”のヒーロー。ちょっと汚れたり、雨にぬれただけでも、ジャムおじさんに助けを求める。でも、いざというときには、自分の顔をちぎって食べてもらう。そして戦います。それは私たちも同じ。みんな弱いけれど、そうせずにはいられないときもあるのです。

アンパンマンのテーマソングは

「なんのために生まれて、
なんのために生きるのか」というのですが、

実はぼくはずいぶん長い間、自分がなんのために生まれたのかよくわからなくて、闇夜の迷路をさまよっていました。もっと若い時に世に出たかった。ただし遅く出てきた人というのは、いきなりはダメにならない。こんなことしてていいのかと思っていたことが、今みんな役に立ってる。無駄なことは一つもないですね。

ぼくら夫婦には子供がなかった。妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、看護婦さんや見舞い客に配っていた。アンパンマンがぼくらの子供だ。
※やなせたかし著「明日をひらく言葉(PHP文庫)」、「わたしが正義について語るなら(ポプラ社)」より
※ありし日のやなせたかしさん(画像はミュージアムHPから転載)

 

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