このブログで紹介する美術館
無量寺・串本応挙芦雪館
・開館:1961年 ※お寺の構内に立地しています。お寺自体の歴史は古く、創立はわかりませんでしたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失、天明6年(1786年)、再建されたものとの事です。
・美術館外観、内観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)
※左が美術館、右が本堂です。
・場所
串本応挙芦雪館 – Google マップ
※たぶん、今までの中で一番引きで載せました…場所はわかりましたが…何とも簡単には行けなそうです。
弟子と師の物語、ある禅僧との約束を果たすため向かった紀伊の地で悟った自分自身の描き方
・本美術館の目玉、長沢芦雪を文字でつらつら語る前に、おそらく2本ほど解説動画を拝見いただいた方がイメージしやすいかと思いますので先にこちらご覧ください。
→「寺に伝わる宝物を大切にする」という素朴な発想から、1961年に「日本で一番小さい美術館」として開館したようですね。お寺自体は串本町の臨済宗東福寺派別格寺院「無量寺(芦雪寺)」と言います。無量寺は1707年に発生した南海トラフ巨大地震である宝永地震による大津波で全壊・流失したが、80年後の天明6年(1786年)に8世愚海和尚によって再建されたものです。和尚が京都の東福寺に滞在していた頃の友人であった絵師:円山応挙が、これを祝って障壁画12面を描いたが、年齢のためもあり高弟:長沢芦雪に障壁画を託し京から南紀に向かわせたのが無量寺のコレクションのはじまりです。串本に着いた芦雪は、滞在中に自らも無量寺本堂のために『龍虎図』などを描きました。
現在では、円山応挙、長沢芦雪をはじめ、伊藤若冲、狩野山雪、狩野探幽、白隠な京都・日本画壇の名だたる名品50点余りを常設展示。開館後も収集を続け、現在では現代彫刻作品61点なども所蔵し、さらに地元串本町笠嶋泥炭遺跡出土の考古資料も1584点収蔵されています。
中心となるコレクションは前述した重要文化財「方丈障壁画」(円山応挙筆、山水画・波上群仙図、長沢芦雪筆、龍虎図・唐子遊図・群鶴図)墨画襖絵55面で、もと無量寺本堂にあったのと同じ配置に復元、畳の上に坐った視点でみられるように配慮されています。
円山応挙について
・江戸時代中期に活躍した代表的な絵師で円山派の祖。同時に近代日本画の祖、写生画の祖ともいわれる存在。
1733年(享保18年)、丹波国桑田郡穴太村(現京都府亀岡市)の農家の次男として生まれ、幼年から地元の寺、金剛寺に預けられ小僧として生活。同寺の住職が亡き後、応挙15歳で上洛し玩具商「尾張屋」に奉公。尾張屋での仕事の内容は人形制作や彩色、眼鏡絵などを描くことで、この頃に多く技術を身につけ、後に絵師として確立するに基点となる要因に。1749年、応挙17歳の頃から狩野派の絵師、石田幽汀に入門し狩野派様式や花鳥画などを学ぶ。その後自然の写生に専念、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を創出。
1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立。1786年(天明6年)54歳の時、兼ねてより親交のあった愚海和尚が入院した串本無量寺の再建成就の祝いに『波上群仙図』や『山水図』等障壁画12面を描くも、多忙な上に年齢的なこともあり、弟子芦雪を名代として京から南紀へ派遣。それは芦雪33歳の頃、兄弟子たちを飛び越えた異例の抜擢でした。
〇円山応挙作品検索:https://muryoji.jp/museum/index/index.html#okyo
長沢芦雪について
・江戸時代中期に活躍した絵師、円山応挙の高弟。
1754年(宝暦4年)京都・篠山に丹波篠山青山下野守家臣、上杉彦右衛門の子として生まれる。師:応挙の高度な作風を完璧に身につける卓越した描写力に加え、奇抜な着想と大胆な構図、奔放で独特な画風を創出した芦雪は「奇想の画家」ともいわれます。性格は、画面同等に酒好きで奔放、快活である一方、傲慢な面があったと伝えられているようです。それ故か、同時期に同じ京都で活躍した高名な絵師と較べその履歴は少なく、芦雪については「破門説」をはじめ、さまざまな巷説や逸話、噂、憶測で彩られています。絵画のみならず人物そのものにおいても人を魅了する「奇才」だったと美術館HPでは述べられています。
芦雪は、自らも無量寺本堂のために襖絵を描き数々の力作を残しました。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花。無量寺滞在中も酒好きで奔放な芦雪は、襖絵にとりかかることなく随分と酒を楽しんでいたかと思うと、一気に筆を走らせ大作を描いたとの事。約10ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われ、無量寺の他に、古座の成就寺、富田の草堂寺、田辺の高山寺、他個人のために数多く作品を残しました。
1799年(寛政11年)、芦雪46歳で大阪において客死。一説には周囲の嫉妬や憎しみによる毒殺であったとも、自殺であったともいわれる芦雪の死は謎に包まれ、死についてまでも異常であったと逸話が残されているそうです。
〇長沢芦雪作品検索:https://muryoji.jp/museum/index/index.html#rosetsu
→古今東西、人間の嫉妬(現代においても官僚や銀行マンの出世争いなど、限られた精鋭たちの間での競争は激しいですからね…)というのは人をも殺してしまうほどの執念深さがあるときがありますからね。恐らく長沢芦雪自身はそんな素振りは微塵も見せず、師の円山応挙もその才能・長所を理解し、とりわけ自分とは違うものを持つ芦雪に期待し可愛がったのではないかと推測しますが、周囲がそれを許さなかった可能性は大いにあります…うーん何とも深い人間模様です。
ところで美術館のHPに「最近若い人たちの来館が目立って多くなり、水墨画と現代の若者たちがどうつながっているのか興味あるところです。」と書かれてありました。マウス的には、恐らく2022年現在において、若者たちの心を魅了するのは長沢芦雪の絵ではないかなと感じます。それは上の虎図、龍図をご覧いただければ分かる通り、迫力ある画面の中に少しアニメ風(平たく言えばジブリ風)の可愛さ要素が入っている気がするからです。破天荒な性格だった長沢芦雪、「目(絵)は口ほどに物を言う」といいますが、そんな彼も内面は少し可愛げのあるお茶目な性格だったのかもしれません。
逆に言うと18世紀においてなお21世紀の我々の心に響くような画風を築きあげていた芦雪は大変な才能だったとやはり言うことができると思います。(本当に一握りの才能あるアーティストは、サザンオールスターズの桑田佳祐さんではないですが、時代を先取りするといいますからね)
そんな芦雪を、その才能を殺すことなく、あえて自分のもとから遠く離れた紀伊へ行かせることで、単に師の真似事ではなく自分自身の描き方に気づかせた円山応挙もそれに並び称する才能と教育者としてのセンスがあったと言うことができるでしょう。(余談ですが、そんな芦雪、応挙のもとを3度も破門されています。その度ごとに許されたのも芦雪の愛嬌というところなのでしょう。たぶん応挙は常々自分の要求通りに描かない芦雪に何度も頭を悩ませていたとは思いますが…)
いかがだったでしょうか。2人の強烈な才能:長沢芦雪と円山応挙、そして師と弟子という関係を飛び越えてそれを見事なまでに共演させた無量寺:愚海和尚。そんな夢のようなひとときを味わえる串本応挙芦雪館、皆さんも一度足を運んでみてください。
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