日本近代美術史に名を刻む芸術家サロン、創業時の芸術・文化の薫りを今に伝える 東京:中村屋サロン美術館

東京都

こんにちは、マウスです。
今日ご紹介する美術館、以前ご紹介した碌山美術館の所縁の深い美術館です。
碌山美術館が荻原守衛(碌山)をメインに展示している一方、今日ご紹介する美術館は彼を含め当時の芸術家たちを一心に庇護した新宿中村屋(中華まんやその他製パン業界で有名です)の集めたコレクション群です。

 美術館が立地する場所は、明治末から大正・昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが集った場所(サロン)として機能していました。それほどまでに芸術・文化を愛した企業の美術館…どんな感じなのか、早速見ていきましょう。

このブログで紹介する美術館

中村屋サロン美術館

・開館:2014年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)

・場所 中村屋サロン美術館 – Google マップ

日本近代美術史に名を刻む芸術家サロン、創業時の芸術・文化の薫りを今に伝える

・1909年、中村屋が東京・本郷から新宿へ本店を移転して以来、明治末から大正、昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが集った場所に2014年に開館。

 中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻は芸術・文化に深い理解を示し、愛蔵と同郷の彫刻家 荻原守衛(碌山)や荻原を慕う若き芸術家などを支援します。彼らは中村屋を舞台に切磋琢磨することでそれぞれの才能を開花。その様子は後にヨーロッパのサロンに例えられ、「中村屋サロン」として日本近代美術史に名を刻みました。

 創業者が残した芸術・文化の薫りを今に伝えるとともに、新たな発信を行うため、中村屋サロンの芸術家たちの作品をご紹介するとともに、新進芸術家や地域に関する作品展示・イベント、その他、広く芸術・文化の振興につながるような企画を実施しています。

 美術館HPには「新宿という立地を生かし、多くの人々が集い、気軽に芸術・文化に触れられる場、まさにサロンのような場所を目指したい。」との記載されています。

※萩原守衛(碌山)の詳細は、碌山美術館の回を参照ください。

中村屋サロンとは

・創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は1901(明治34)年、本郷でパン屋「中村屋」を創業。1909(明治42)年には、新宿の現在の地に本店を移転します。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになり、それが「中村屋サロン」のはじまりです。

 長野県安曇野市出身の作家 臼井吉見が、激動の明治から昭和を描いた全5巻からなる長編小説『安曇野』を上梓したのは昭和40年代、その話の中心には相馬夫妻がありました。臼井は各地での講演活動の中で、中村屋に多くの芸術家が集い、文人が出入りした様を「まるでヨーロッパのサロンのようだった」と表現します。ここに端を発して、いつの間にか「中村屋サロン」という言葉が生まれました。

 中村屋サロンの中心人物は荻原守衛(碌山)でした。荻原は愛蔵と同郷で、黒光が嫁入りの際に持参した長尾杢太郎《亀戸風景》(油絵)ではじめて油絵を知り、画家を志します。海外に渡り彫刻家に転向した荻原が帰国したのは1908(明治41)年。帰国後は新宿角筈にアトリエを設け、中村屋に足しげく通います。彼を慕って多くの芸術家が中村屋に出入りするようになり、中村屋は彼らの交流の場になっていきました。

 残念なことに、荻原は1910(明治43)年に30歳の若さで亡くなります。その後、中村屋サロンの中心人物となったのが中村彝でした。彝は一時、中村屋裏にあるアトリエで生活し、彼のもとにも多くの芸術家が訪れます。その他、書家・美術史家の會津八一や女優の松井須磨子、劇作家の秋田雨雀、インド独立運動の志士 ラス・ビハリ・ボースなど、多彩な人々が中村屋と関わりを持ちました。

 これらの顔ぶれを見ると、明治の終わりから大正、昭和初期にかけて、中村屋サロンに集った多くの人々が日本の近代芸術・文化に影響を与えたことが分かります。

長尾杢太郎《亀戸風景》

主なコレクション

荻原守衛「女」

中村彝「小女」

高村光太郎「自画像」

會津八一「林下十年夢 湖邉一笑新」

中村彝とは

・最後に中村屋サロンで荻原守衛亡き後に中心人物となった中村彝について少し解説し終わることにします。 ------------------------ ・明治20(1887)年、茨城県水戸市生まれの洋画家。幼時に両親を失い、明治31(1898)年上京し長兄宅で育つ。明治34(1901)年、早稲田中学を中退して名古屋地方幼年学校へ入学。明治37年(1904)年卒業、のち東京の中央陸軍幼年学校に入学したが肺結核のため退校、翌年千葉県北条湊で療養中水彩画に親しんだことが画家を志望する契機となった。明治39年(1906)年、白馬会研究所へ通う。ここで中原悌二郎を知り終生交友。翌年中原を追い太平洋画会研究所へ移る、明治41(1908)年、荻原守衛を知り強い感化を受け、レンブラントにも傾倒。翌年第3回文展に「巌」を出品、褒状を受け画壇にデビュー。明治43(1910)年、太平洋画会会員となり、同年の第4回文展に印象派的色彩の濃い「海辺の村」(東京国立博物館蔵)で3等賞を受賞、翌年の第5回文展でも「女」で連続3等賞を受ける。また、明治44(1911)年から淀橋区(新宿)角筈の中村屋裏の故荻原守衛のアトリエへ移り大正4(1915)年まで住む。この新宿時代は中村屋夫人相馬黒光と長女俊子への感情、創作上の苦心など、心理的葛藤の最も激しい時期となった。制作上では、俊子をモデルにした「少女」(第8回文展3等賞)などで、ルノワールへの強い傾倒を示す作風を展開、またセザンヌへの関心も示した。その後、「田中館博士の肖像」(第10回文展)などを発表、官展で最も注目すべき作家とされ、特に大正9(1920)年の第2回帝展に出品した「エロシェンコ氏の像」(東京国立近代美術館蔵)は大きな称賛を呼んだ。晩期の作品に「老母の像」などがある。遺稿集に『生命の無限感』。

→中村彝も荻原守衛同様に38歳という若さで亡くなります。彝もまた、相馬黒光の長女:俊子と親密な関係になり求婚しますが、結核を理由に周囲の反対を受けます。この失恋は彝に大きな影響を与え、それら苦心や心理的葛藤を投影したのが「少女」という作品だと言われています。

…いかがでしょうか。中村屋サロンには単に芸術家が集まってきただけではなく、様々な人間模様、ストーリーが眠っているのも魅力の1つだと感じます。そんな中村屋サロン美術館、皆さんもぜひ足を運んでみて下さい。

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