こんにちは。今日は日本の最西端、長崎県です。日本の離島の約15%、大小1,000島の島々をもっています。そんな長崎県の県庁所在地:長崎市に位置し、かつては出島として栄えた場所に本美術館は立地しています。また、豊富なスペイン美術のコレクションでも有名です。早速見ていきましょう。
このブログで紹介する美術館
長崎県美術館
・開館:2005年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県観光協会HPより転載)
・場所
長崎県美術館 – Google マップ
呼吸をするように周囲の人や環境とともに成長を続けてゆく空間
・2005年、「呼吸する美術館」をコンセプトに開館。長崎県における新しい文化芸術活動の拠点として活動中。長崎ゆかりの美術や須磨コレクションを基礎としたスペイン美術を収蔵。
「呼吸する美術館」とは、生き物が呼吸をするように、美術館の外にあるさまざまな情報や刺激を吸い込み、それを新しい形の刺激として再び外に放出しながら周囲の人や環境とともに成長を続けてゆくことを意味。優れた美術作品を収蔵し、調査・研究により得られた知見を基に、後世へと継承する作業は、美術館の基本であり、同時に、優れた美術作品の鑑賞の機会を通して、創造する力を引き出し、多様な価値観を発見することのできる美術の魅力を伝えていく発信する力を持つことを重要視されています。生き物が「呼吸」するように、生き生きとした活動の往還を通して、発信力をもった魅力ある環境を醸成し、継承・交流・創造を軸に、県民に開かれた文化活動の拠点を形成していきたいと館長の小坂智子さんは述べられています。
基本理念
継承
・前身である長崎県立美術博物館の伝統と資産を着実に継承する。
交流
・芸術文化活動の拠点として、多くの人と情報の交流を図る。
創造
・豊かな感性と想像力を育み、新たな長崎文化を創造する。
主なコレクション
長崎ゆかりの美術
日本画
<大久保玉珉>
<荒木十畝>
<栗原玉葉>
<松尾敏男>
<江上瓊山>
洋画
<彭城貞徳>
<野口彌太郎>
<渡辺 [宮崎] 与平>
<山本森之助>
<横手貞美>
版画
<田川憲>
<牧野宗則>
水彩画、素描
<鴨居玲>
<古賀春江>
彫刻、立体
<富永直樹>
<水谷銕也>
書跡
<小曽根乾堂>
<中林梧竹>
工芸
<中里三猿>
<中里陽山 [末太郎]>
<12代横石臥牛>
デザイン
<長岡秀星>
写真
<東松照明他>※画像なし
映像
※紹介動画なし
スペイン美術
17世紀以前
<アロンソ・サンチェス・コエーリョ伝>
<作者不詳(アラゴン派あるいはカタルーニャ派)>
<トラルバの画家>
<フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス>
<ペレーアの画家>
18、19世紀
<ルイス・デ・ラ・クルス・イ・リオス>
<フランシスコ・デ・ゴヤ>
<エミリオ・サラ>
<マリアノ・フォルトゥーニ>
<ライムンド・デ・マドラーソ>
20世紀以降
<ジュアン・ミロ>
<アントニ・タピエス>
<サルバドール・ダリ>
<アントニオ・ロペス>
<ホセ・グティエレス・ソラーナ>
<パブロ・ピカソ>
<マヌエル・フランケロ>
→最後のマヌエル・フランケロの作品、個人的なかなり好きです。マドリードの郊外エル・パルドからマドリード方面を見て描いた作品のようですが、空気の層によってぼかされた遠景や余白を残した画面構成は妙に生々しさ、現実ではないもののをれを超えた現実感のようなものを感じないでしょうか?
(参考)長崎県美術館と須磨弥吉郎
・そんな長崎県美術館…なぜここまでスペイン美術を集めることに成功したのでしょうか。あまり知られていないかもしれませんが、戦前、戦中、戦後という激動の時代を過ごしたある1人の外交官のコレクションがベースとなっています。その方の名は須磨弥吉郎氏です。須磨氏の歴史については美術方面以外、日本史として掲載されていることも多いので、以下は検索サイトからの切り抜きですが、最後に須磨氏の経歴を貼って終わりたいと思います。
須磨弥吉郎とは
・1892年、秋田県生まれの外交官、政治家。スペイン特命全権公使・衆議院議員。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蔣介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する。その後、1939年、満州国在勤となり満州国外務局情報部長を務める。
日米交渉の行き詰まりにより、開戦は必至の情勢となる中、須磨は、親枢軸的なスペインを拠点にアメリカの情報を収集することを構想し、1940年、「東機関」を開設。その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任。1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まる対米開戦後、日本は、アメリカ大陸の在外公館を次々と閉鎖させられたことにより情報収集に著しい支障をきたしたが、「東機関」は、欧米の主要拠点に情報部員を送り込み、諜報戦で多くの成果を挙げる。1943年時点で、アメリカの原爆開発まで押さえており、また太平洋戦争で激戦となったガダルカナル戦の最中、サンディエゴから現地に向かう船の数まで把握。しかし、こうした情報は、日本政府・軍部に活用されることなかった。一方で、アメリカは暗号解読によってマドリッドからの「東機関」による情報を全て把握し、1944年半ば、アメリカによって「東機関」は壊滅に追い込まれる。
戦後、こうした諜報活動の成果が米国に警戒されたためか 1945年、GHQが発出した逮捕命令者リスト(第四次逮捕者9名中の1人)に名を連ねるが、逮捕命令が出た時点では日本に帰国できず、マドリードに抑留された状態であった。帰国後、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所勾留されるが、1948年に不起訴処分で釈放。公職追放解除後、1953年、第26回衆議院議員総選挙に秋田1区から改進党公認で立候補し当選、1958年まで2期務めた。
スペイン公使業務の一方で、1940年から51年のまでの6年間にスペインを中心とする2000点近くの西洋美術コレクションを形成(若干中国や日本関係のものも含む)。須磨が戦犯容疑から釈放された後、スペイン政府から、収集品の一部が返還され「須磨コレクション」と呼ばれる。「須磨コレクション」の一部は、1970年全国巡回の後78点が最終会場のあった長崎県に寄贈され、長崎県立美術博物館を経て、2005年現在501点が長崎県美術館に所蔵。(戦前に上海へ渡航する際、長崎から中国へと渡っており、長崎に思い入れがあったことから長崎へと寄贈することになったことが理由)
→いかがだったでしょう。長崎県美術館の主たるコレクションの形成に秋田出身の戦前戦後を駆け抜けた1人の外交官(諜報係)の姿があったことは意外ですよね。古くから文化交流の拠点として栄えた長崎県、来県された際は県の美術館へもぜひ足を運んでみて下さい。
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