こんにちは。恐らくこのブログで初めて出てくるかもしれません、「村」が運営するアート施設。
この厳しい財政の折、こうやって文化事業で地域おこしをされているのには頭が下がります。しかもこのアート施設、単に開いただけではありません。何度も何度も足を運び、フランスの本家から唯一「モネ」の名称を冠に使うことを許された庭園というから驚きです。高知県、最後はそんな印象派を切り拓いた巨匠が見たものと同じ景色が味わえる庭園(アート施設)のご紹介です。
このブログで紹介するアート施設
北川村「モネの庭」マルモッタン
・開館:1996年
・施設の様子(以下画像は北川村「モネの庭」マルモッタンHP、県・市観光協会より転載)
・場所
北川村「モネの庭」マルモッタン – Google マップ
→室戸岬に行く途中にある感じでしょうか。
印象派を切り拓いた巨匠の名を使うことを許された唯一の庭園、村の情熱で実現した生きる美術館
・印象派の巨匠クロードモネが43歳から生涯の半分を過ごした、フランス・ジヴェルニーで丹誠込めて作り上げた〈モネの庭〉を再現した庭として2000年に開園。
高知県の東部に位置する典型的な山村である北川村、高齢化と人口の減少が進む中、特産の柚子を基幹とした村おこしを目指し柚子ワイナリー事業の誘致を目指すも、1996年春にとん挫、開発中の土地の活用も含めた新たな事業への展開を模索する事となります。
そのような流れの中、柚子とワインから出発した発想を生かし、地域を活かした観光と文化の拠点づくりのためのフラワーガーデン造作という構想が生まれます。それまでの工業団地誘致の方針を180度方向転換、多くの障害を乗り越えつつフランス・ジヴェルニーとの交流が生まれ、北川村「モネの庭」マルモッタン作りへとつなげました。
北川村のモネの庭再現への歴史
(以下は北川村モネの庭HPに掲載しているモネの庭再現までの略歴です)
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・1996年秋、村は何の伝手もないままに担当者をフランス・ジヴェルニーへ派遣。コーディネーター兼通訳の円山和子女史と出会い、モネの庭責任者 Gilbert Vahe(ジルベール・ヴァエ)氏を訪問。当初は会うことも叶わず、熱意をこめたチャレンジを続ける。
・1997年、クロードモネ財団理事長 Van der Kemp(ヴァン・デル・ケンプ)氏より「小さな村の頑張りに協力しましょう」と村にとって大きな決断をもらう。Gilbert Vahe氏、オルセー美術館主任学芸員の Sylvie Patin(シルヴィー・パタン)女史との交流がはじまる。
・1998年、Gilbert Vahe氏が北川村に出向き、整備中の公園に対する現地アドバイスや村の取り組み、村がどのようなところかを見る。
・1999年北川村長 渡仏。アカデミー・デ・ボザール終身書記 Arnaud d’Hauterives(アルノー・ドートリヴ)氏より『 Jardin de Monet Marmottan au Village de Kitagawa(和訳名:北川村「モネの庭」マルモッタン)』北川村の庭は門外に出ることのなかった名称の許可を得る。
・2000年、開園直前に公開に向けて整備確認・監修のために、Gilbert Vahe氏来村。同年4月、北川村「モネの庭」マルモッタン、開園。Arnaud d’Hauterives氏、Sylvie Patin女史、駐日フランス特命全権大使、フランス大使館文化参事官をはじめ、多くの関係者列席のもと開園式典を催す。式典においてArnaud d’Hauterives氏は「ジヴェルニーには本物の絵は展示していません。しかし、庭は彼の残した偉大な芸術である。この北川村の庭でも、本物の庭を大切に育ててください。」との言葉を残される。
・2002年、新マルモッタン美術館長 Jean-Marie Granier(ジャン=マリー・グラニエ)氏来村Gilbert Vahe氏来村。フランス「モネの庭」での製作が縁となり日本画家:平松礼二氏※より作品寄贈。
・2003年、Arnaud d’Hauterives氏来村。「モネの庭」友の会発足により名誉会長就任。高知県知事夫人 友の会会長就任。高知県立美術館「モネと印象派の画家たち」展開催。Jean-Marie Granier氏夫妻、Sylvie Patin女史来村。児島塊太郎氏より祖父虎次郎氏撮影のモネの写真の寄贈。
・2004年、駐日フランス大使来村。北川村「モネの庭」庭責任者渡仏。
・2005年、自然の森開園。Jean-Marie Granier氏来村。Sylvie Patin女史講演会のため来村。北川村長渡仏。
・2006年、Jean-Marie Granier氏より作品寄贈展覧会。Gilbert Vahe氏光の庭構想のためべノア氏と来村。
・2007年、モネ所蔵の浮世絵展のため北川村長渡仏。光の庭構想のため北川村「モネの庭」責任者渡仏。
・2008年、北川村「モネの庭」入園者数100万人突破。同年、光の庭開園。高知県立美術館「モネの愛した浮世絵展」を開催。北川村長、北川村議会、渡仏。
・2009年、ジヴェルニー・モネ財団理事長の Hugues R. Gall(ウッグ・ガル)氏来村、Sylvie Patin女史来村。平松礼二氏※作品寄贈。
・2010年、北川村「モネの庭」マルモッタン開園10周年式典にHugues R. Gall氏来村。フランス大使来村。印象派美術館館長来村。
・2011年、北川村「モネの庭」にて、うんのともえ展開催作品寄贈。
・2012年、「北川村の草花に思いを寄せて」というメッセージとともに寄贈された銅版画など約90点を展示した Jean-Marie Granier 銅版画展を北川村にて開催。北川村副村長、北川村議会渡仏。
・2012年~、Hugues R. Gall氏の提案により北川村「モネの庭」マルモッタンの入園チケットがフランス・ジヴェルニー入園の共通券となる。
・2014年、モネの庭 庭園責任者である、James Priest(ジェームス・プリースト)氏が来村。庭スタッフとの交流をはじめ、多大なアドバイスをもらう。
・2015年、北川村「モネの庭」マルモッタン15周年を迎える。同年、北川村モネの庭 庭園責任者の川上裕氏フランス芸術文化勲章「シュヴァリエ」叙勲。
・2017年、四国八十八景に選定。
・2017年、カフェ「モネの家」リニューアルオープン。同年、入園者 150万人達成。青い蜂「ブルービー」がNHKワールドで報道される。
・2018年、本家モネの庭新庭園責任者ジャンマリー・アヴィサール氏とヴァエ氏来園。20周年に向けた助言をもらう。
・2019年、年北川村モネの庭からスタッフが2名渡仏。ジヴェルニーにて庭の研修、交流、ボルディゲラの視察も行う。同年、第3の池に絶滅危惧種8種自生の報道。
・2020年、新型コロナウイルスの世界的感染拡大に伴い、4月~5月は臨時休園となる。同年、ボルディゲラの庭開園(光の庭リニューアルオープン)。
・2021年、コロナ禍で延期となった東京2020オリンピック聖火リレー、開園20周年式典を行う。
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→当初はモネ財団に門前払いされた北川村のスタッフ(当然ですが…)、産経新聞の取材にこう答えています。
「北川村が過疎で多額の負債を抱えていることを説明し、協力を求めた。しかし断られ、頭の中は真っ白。諦め切れず『とにかく自分はこの庭が気に入った。やらせてくれ』と自分の気持ちをぶつけたら『それなら協力しよう』と。理屈じゃないんだな、と思いました」。
「過疎の村に就職した自分が、これほどフランスとかかわるとは思わなかった。モネの庭は植物園というより美術館に近い。モネが生涯をかけて造成した作品を見に北川村へ足を運んでください」
※産経新聞WEB「「モネの庭」を世界の観光名所に 高知県北川村副村長、上村誠さん」
また、上の年表で※印をつけましたが途中、北川村に作品を寄贈された平松礼二氏、愛知県名古屋市で活躍されており、クロード・モネに感銘を受け、その美の原点を追い求めてきた作家として知られています。岩絵の具を使ってモネの世界を体現しており参考に画像を掲載しておきます。(写真は中日新聞HPよりhttps://www.chunichi.co.jp/article/229637)
動画も。
それにしても、北川村「モネの庭」マルモッタンの入園チケットがフランス・ジヴェルニー入園の共通券となったというのはすごい話ですね。1つの村がこれほどまでにフランスの著名な組織と距離が近いというのは大変貴重だと思います。
フランス・ジヴェルニー、モネの庭
・なお北川村モネの庭のHPには本家フランスのジヴェルニー、モネの庭のHPもURL掲載されています。こちら英語表記なのであまり詳しく読めないという方も、HPトップ画面のメニュー動画が4K映像で美しく、素晴らしいのでぜひとも見てみて下さい。ジヴェルニーの庭は“光の画家”モネの創造の源泉とも言える存在で、モネは自ら草花や木の種類を選んで庭に植えていたそうです。それはまさに自分のキャンバスの上に絵を創作するのと全く同じで、後に「まるでパレットのような庭」「生きた美術館」と評されました。モネは庭に3つの温室を建て、6人もの庭師を雇い、世界中から(もちろん日本からも)珍しい植物を集めるなど、大変な情熱を傾けました。多くの名作を生んだこの庭こそ、モネの最高傑作だったといえるかもしれないとHPでは紹介されています。
(フランス・ジヴェルニー、モネの庭:http://fondation-monet.com/)
クロード・モネとは
・1840年11月14日パリのラフィット街に生まれる。少年時代はノルマンディの片田舎で過ごし、その恵まれた自然によって風景画に対する情熱を得るも、経済的理由により、セーヌ河口の港町ル・アーブルへ移住。1859年パリの自由画塾アカデミーシュイスとシャルルグレルの画塾に入る。
1874年ルノワール、シスレーらと「画家・彫刻家・版画家・無名芸術家協会」を結成、新しい画風による製作を試み1880年に官展入選、初めての個展を開催。日本の浮世絵に興味を持ち、コレクションを始めたのもこのころ。この仲間達との展覧会に出品した「印象・日の出」というモネの作品名から「印象派」といわれるようになります。
1883年にジヴェルニーに居を定めて、庭づくりと創作活動に励み晩年には名声を得て裕福な生活を送ります。白内障に苦しみながらも、死ぬ間際までオランジュリー美術館に展示されている大連作の「睡蓮」を制作、1926年86歳でこの世を去りました。
北川村「モネの庭」マルモッタンの風景
・最後に北川村「モネの庭」マルモッタンの風景をご紹介してから終わりたいと思います。
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